三国志2 武将データ 鞏志

三国志2 武将データ 鞏志

鞏志(きょうし)

ぶりょく【武力】42 ちりょく【知力】46 みりょく【魅力】52

鞏志は三国志5でも登場してます。

三国志演義に登場する架空の武将です。

鞏志は金旋の配下で

荊州四英傑というと【劉度、韓玄、趙範、そして金旋】

張飛軍が荊州南部へ侵略して来た際に、金旋は鞏志の制止を聞かずに出陣。

張飛にかなわず撤退する最中に、裏切った鞏志に射られて死亡し、鞏志は劉備に降伏する。

後に武陵太守に任ぜられ、それっきり登場せず。

三国志5と三国志2の能力との比較。

ぶりょく【武力】42 ちりょく【知力】46 みりょく【魅力】52 (三国志2)

武力【武】46 知力【知】64 魅力【魅】49 政治【政】58 (三国志5)

知力が上がってますね

魅力は若干下がってます。

武力も+4上がってます。

荊州四英傑って基本的にやられ役なのです。

【劉度、韓玄、趙範、金旋】

横山三国志でも首を射られているシーンがあります。

ゲームとして使用するには持ってこいのキャラクターであることは間違いないですね

三国志シリーズ信長の野望シリーズでもゲーム動画を作るとするならば、最弱武将でプレイヤーの腕と粘りを見せるのが誉やね

ゴーストオブツシマ?って思った方もいると思うが、ネタなのでそんな話はどうでもいいとしよう、まず三国志シリーズで動画を作るのならば、メジャー最弱キャラというと劉禅さんだろう、曹豹もかなり人気がある。

だが、金旋もなかなか良い逸材なのではないだろうか?

こういったキャラでの縛りプレイをし、新たに三国志シリーズの動画やらを作った面白そうな感じです。

これはあくまでも個人的な考えなのでこれをやれば確実にアクセス数が稼げるなど金がゲットできるという、簡単な考えではないです。

だが、なぜだか三国志の最弱武将は何気に人気があるということは間違いない。

というか、武将のエピソードが面白いと言うか、ありえないものから人間味のあるパターンもあるのでリアル。

鞏志というのはただの架空の三国志演義の武将で終わるか、何かのゲーム動画を作り光をあてるかで、変わってくるんじゃないのかな〜ってだけの話でした。

荊州四英傑に関して基本さっくり思わっていることも多いですが魏延・黄忠はありがたい武将でした。

魏延は楊儀にハメられたなんて話もあります。

魏延は裏切り者のレッテルを貼られがちですが、実際は違っていて、孔明の死後魏延と中の悪かった楊儀にハメられた感じです。

劉備が魏延に漢中を守らせていたとき、漢中の攻略していたにもかかわらず悲しい最期です。

その後歴史の裏切り者となっている。

三国志2 武将データ 孫策

三国志2 武将データ 孫策

孫策(そんさく)

ぶりょく【武力】94 ちりょく【知力】88 みりょく【魅力】93

三国志5でも孫策は登場しますが、三国志2との強さの比較をしようと思います。

三国志5の能力値

武力【武】95 知力【知】83 魅力【魅】79 政治【政】62

三国志2の能力値

ぶりょく【武力】94 ちりょく【知力】88 みりょく【魅力】93

魅力が三国志2では高いですね

修正で武力+1の魅力が下がっている。

今更なぜ、孫策をまた記事にしたのか?

それは三国志2ではゲームプレイ中に気が付くと孫堅、孫策、共に戦う前に寿命迎えてしまうという点にある。

「江東の虎」と続く「小覇王」が何もしなくても寿命が来てしまうのだ。

ずっと戦いに出陣していれば、裏技とは言わないが小技でなんとか生き長らえることは可能だが、基本的には敵として難易度を求めるのならば、巨大な敵は存在していて面白いということになる。

史実通りで良いとは思うのだが、三国志2では寿命なしの設定できなかったような気がする。

孫堅なんて、気付いたら居なくなってるパターンが多いので顔グラすら覚えていないです。

下手すれば陶謙の方が長生きしている場合があるので面白いです。

凶兆はこんな感じです。

孫堅    191年

孫策    199年

袁紹    201年

郭嘉    206年

周瑜    209年

荀彧    211年

荀攸    213年

呂蒙    218年

諸葛亮    233年

呉、魏の損害が多い気がする。

だが、蜀の主軸である孔明も233年に凶兆がでるの已む無い。

これを見るに正史でも司馬懿の長寿ぶりは凄まじいものを感じる。

歴史を見るにいくら戦闘が強くて、頭が良くて策士であっても結果的に長生きしたものが覇権を握るパターンが多い気がする。

よくある話になるが徳川家康だって73〜75歳まで生きたとある。

武田信玄は52歳ぐらいだろう。

上杉謙信だって48歳と言われている。

真田幸村も48歳と言われるが、あれは死に場所を選んだと言った方が良いだろう。

寧ろ死してもなお語り継がれる方法を選んだと言った方が良いだろう。

寿命の話で言うと織田氏の家臣・滝川一益の従弟ともいわれる滝川 益氏(たきがわ ますうじ、大永7年(1527年) – 寛永12年(1635年))が108歳まで生きたある。

そんで、南光坊天海が107歳とある。

南光坊天海はこのブログでも散々言っているが、明智光秀説がある。

桔梗の紋が残ってまっせとか色々言われがちです。

南光坊天海というと山手線とか言われるが、風水で場所決めしたそうだ。

青龍・朱雀・白虎・玄武の「四神」をよく出てくるけど風水というか猛将などもよく虎や神に例えられたそうだ。

徳川埋蔵金の場所決めも風水なんだろうね

糸井重里のバス釣りナンバーワン思いだしたよ

三国志2 武将データ 雷薄

三国志2 武将データ 雷薄

雷薄(らいはく)

ぶりょく【武力】67 ちりょく【知力】41 みりょく【魅力】19

雷薄は三国志5でも登場します。

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三国志5での雷薄の能力値と比較します。

三国志5の能力値

武力【武】65 知力【知】38 魅力【魅】15 政治【政】26

三国志2の能力値

ぶりょく【武力】67 ちりょく【知力】41 みりょく【魅力】19

全体的にあんまり変わってないです。

武力に関しては67→65に武力変更されてます。

次は知力です。

知力41→38に知力変更です。

次に魅力です。

魅力19→15に魅力変更です。

(−2、−2、−4)でマイナスで引かれている。

三国志2よりも三国志5の方が弱くなってます。

なぜまた同じ武将を記事にするのかと言うと、改めて袁術軍を再確認するためです。

正史では建安4年(199年)までには、僚友の陳蘭と共に出奔し、灊山(せんざん)に立て篭もった。

後に没落した袁術が頼ってきたが、受け入れを拒絶している。

袁術一行は食料が絶えて餓死した。

以降、雷薄の名は史書に現れない。

同姓の雷緒という人物がおり、陳蘭と行動を共にしているため、潘眉『三国志考証』巻三は「雷薄、劉馥伝ハ雷緒ニ作ル」とし、雷薄と雷緒が同一人物と主張する。

wikiより

主君袁術に愛想を尽かせ、独立勢力となった雷薄この後生き延びている可能性が高いです。

バイオハザードのハンクみたいな感じの特別キャラ枠的な扱いでどこかで登場って訳にはいかなかったのかな?

三国志演義とかで、話が盛り上がらんものか?

なんて考えたが、そんなことを言ってもジャンルが違うし別ものの話だろう。

脱線したが、三国志演義での雷薄を調べてみよう。

『三国志演義』袁術の贅沢振りに愛想をつかして、陳蘭と共に嵩山に引き篭もってしまう。

劉備の討伐で壊滅させられた袁術から財宝と糧食を奪い取る。

その後は『演義』では登場しない。wikiより

その前に呂布軍の張遼・臧覇に迎撃されて敗退している。

張遼と臧覇はかなり武闘派集団なのでまず勝てないだろう。

話は袁術に戻る、「三国志演義」でも袁術の贅沢三昧に愛想を尽かし、陳蘭と共に山籠りしていた。

その後元主君である袁術の財宝、糧食を奪い取る山賊行為をしている。

袁術の行為を改めて確認すると、これなら行為も容認できる。

部下が食うものすら少ないときに蜂蜜入りの水を欲しがったとある。

袁術はこの時代からポカリスエットを飲みたがっていたってことだよな、蜂蜜入り飲料を飲んでいたのだから、糖尿だったんじゃないかな?

でも昔の蜂蜜なのだから天然で健康的だったのだろう。

マヌカハニーレベルのものだったと推測する。

三国志2 武将データ 陳式

三国志2 武将データ 陳式

陳式(ちんしき)

ぶりょく【武力】70 ちりょく【知力】30 みりょく【魅力】40

三国志5で陳式は登場します。

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三国志5での陳式の能力値です。

武力【武】67 知力【知】48 魅力【魅】25 政治【政】39

魅力が大幅に下がりましたね

だが、三国志5では知力が上がっています。

武力に関しては70→67になってます。

今までは三国志2では能力値がうんぬんと語っていたが、今考えれば三国志2の方が能力値がかなり上がりやすいです。

まず、武力ならば自分よりも強い相手に勝つことにより、武力が上がります。

これにより、呂布と戦えば100まで上げることが可能です。

つまり、これは武力100の呂布と戦って勝てば自分の武将を武力100に育てることが可能となる。

知力に関しては最大で99までです。

褒美で書物を使えば簡単に上がります。

魅力には美女と結婚させることにより上がります。

三国志

魅力は大幅に上がるのは難しいので、魅力だけは特別なものと考えている。

なので、能力値は後から伸ばせるので、どうにでもなります。

これを利用して諸葛亮孔明を武力100の猛将にすることも可能な三国志2なのである。

これもこれで面白そうですね、三国志5も能力値は伸ばすことも可能です。

修行先でたまたま能力値が伸びる場合があります。

その他ににも特殊能力の【天変】と使って天変地異を起こし、ある確率で発生する能力が伸びる場合があります。

多分どの作品も能力値を伸ばすことは可能だと思うので、武力データという記事を書いているが、あまり気にしなくて良いです。

話は陳式に戻るが、陳式は陳寿の父という説がある。

これは『晋書』「陳寿伝」等に斯様な記述はなく本籍地は不詳とされていた。『資治通鑑』では「陳戒」と表記されている。とwikiにある。

これを見るにやはり関係ないのかもしれません。

定かではないが、演義では結構ひどい扱いです。

魏延と共に軍令を無視して魏軍を追撃する。

その結果、大敗して多くの兵を失ったことから、諸葛亮の怒りを買って斬首されることになっている。

このように『演義』での陳式は凡将扱いされることが多い。wikiより

孔明はそんなことするか?って感じで軍法にのっとり馬謖を斬ったこともあるのでどうなのか?と思うが、これはあくまでも小説『三国志演義』なので深追いしてもしょうがないのかもしれません

史実では放伐の際に郭淮を追撃しなかった孔明と陳式とある。

その後、史実に現れないこれ陳寿が父親ならばもっと書き込むはずだが、そういうもんじゃないのかもしないし、よくわからん。

三国志2 武将データ 呂建

三国志2 武将データ 呂建

呂建(りょけん)

ぶりょく【武力】66 ちりょく【知力】53 みりょく【魅力】55

 

呂 建(りょ けん、生没年不詳)

 

曹操の配下。

 

呂建は『徐晃伝』に記述があり

 

【219年】関羽が曹仁を攻めて于禁を捕虜にした後、新たな援軍として徐晃に配属され

 

徐商と共に出陣する。

 

徐晃と協力して関羽の軍勢を撃ち破った。

 

『三国志演義』でも、史実通りの内容で

 

第75回で登場し、徐商と共に徐晃に配属される。

 

徐晃の命令で徐商と共に関平を攻め、数回打ち合ってわざと敗走してその隙に徐晃が背後から関平を撃ち破る。

 

三国志2でのゲーム内の強さは、弱くない程度です。(どちらかと言うと強いかも)

ぶりょく【武力】66 ちりょく【知力】53 みりょく【魅力】55

 

武力が66でその他は平均50超えなので中々強い部類に入るキャラです。

 

史実でも演義でも内容は変わりなく、それないりに強いんじゃないのかと思います。

 

晩年の関羽は腕に毒矢を受け、呉と魏挟み撃ちの総攻撃といったダンディな戦いでは

あったがそれも、戦略で、関羽の暴走もあった。

 

馬良が諌めたが、話を聞き入れず。

 

驕り高ぶる関羽だったのでしょうがないのかもしれないです。

 

漢中王になったぐらいから危なくなったのかもしれません

 

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だが、馬超の地位が元々高いので劉備が漢中王にならないと、命令出来る立場ではなかったのかもしれないです。

 

献帝に出した漢中王の推薦状(蜀臣120名の連署)の筆頭は馬超とある。

 

だが、王は 中国での称号の一種で、「王子」と「中王」に分けられ

 

「南蛮王」「武漢王」などの「王」の位が与えられます。

 

劉備は不法に即位されたもののようだ。

 

だが曹操も献帝を操っていたのだから、強い者が歴史の王となるのだろう。(

単純に)

 

三国志5では呂建は登場しませんでした。

 

三国志5では武将総数は500名でした。

 

三国志2では、武将数は352人(後述の特殊な武将を除く)

 

パソコン版では、特殊武将として【華佗】【許子将】【司馬徽】【貂蝉】が登場。

 

三国志2の時点で352名と結構多い感じですね、しかも知らない武将が多いです。

 

中にも吉川三国志の武将も登場するなど、レトロゲームの面白さがあります。

 

伝記も定かではない武将も登場するので過去作品も結構面白いです。

 

というかゲームシステム自体が昔の方がある意味深いというか、面白いです。

 

戦闘が兵糧の続く限りできる部分だど最新版でもあるが、昔のシステムでこれってハマるよな〜って思いました。

 

というか、顔グラや映像は昔のままで良いので、ゲームシステムとAIの頭の良さをもっと激難にしてほしいと願う。

三国志2 武将データ 張承

三国志2 武将データ 張承

張承(ちょうしょう)

ぶりょく【武力】64 ちりょく【知力】42 みりょく【魅力】57

 

張承と同名の人物がもう一人存在している。

 

張承 (後漢) 張範の弟。曹操に仕えた。

 

張承 (孫呉) 張昭の長男。呉の人物。

 

三国志2でのこの顔グラのキャラがどっちの張承かわかりません

 

だが、中原にいたので曹操の配下に存在していたので、今回は張承 (後漢)の曹操仕えて人物として調べていこうと思います。

 

三国志2の攻略本のようなものに載ってたりするものなのかわかりませんが、ゲーム内でも2名存在するのか不明です。

 

張 承(ちょう しょう、生没年不詳)

 

祖父は張歆(司徒)。父は張延(太尉)。兄は張範。

 

弟は張昭(呉の張昭とは別人)。

 

子は張戩。『三国志』魏書張範伝に付伝する形で紹介。

 

 

兄の張範と共に名を知られ

 

方正として召し出されて議郎(官位)に任命され、後に伊闕都尉へ転任した。

 

方正とは

 

郷挙里選(きょうきょりせん)で、中国で漢代に行われていた官吏の登用制度のひとつである。

地方の高官や有力者が、秀才や孝廉などの科目別に、その地域の優秀な人物を中央に推薦した。

 

孝廉(こうれん)は、中国前漢の武帝が制定した郷挙里選の察挙科目の一つ。

 

孝廉とは父母への孝順及び物事に対する廉正な態度を意味する。

 

孝廉は察挙常科の中で最も重要視された科目である。

 

 

董卓が政権を握るとこれに反発し挙兵を図ったが、張昭(呉の張昭とは別人)に諌められたため、官を辞して張範と共に揚州へ逃れた。

 

張範は袁術に招請(招き迎えること。)されるとそれを拒み、張承を代理の挨拶のために赴かせた。

 

領地の広さ・領民の多さを誇る袁術に対し、張承は「分不相応な真似をされ、時勢に逆らって行動し、民衆に忠誠を断たれたなら、誰が功業を打ち立てられましょう」と批判した。

 

曹操は袁紹に敵わないと主張した袁術の見識を否定し、曹操を擁護した。

 

袁術が不機嫌になり、張承は彼のもとを辞去した。

 

曹操は冀州を平定すると、使者を派遣して張範を迎えさせた。

 

張範が病気であったため、張承が代わって曹操の元へ赴き、諫議大夫に任命された。

 

魏が藩国として建国された当初、張承は丞相参軍祭酒と趙郡太守を兼任し、教化を大いに行き渡らせた。

 

曹操が西方に軍を向けると参軍事として同行するも、長安で病のため没した。

 

wikiより

 

張承は見識があり先読みしてたいと思える。

 

まず、董卓政権から脱出する。(最初に挙兵考えが分が悪い。)

 

袁術が招き迎えるが拒否し、袁術が曹操が袁紹に敵わないと言うとそれを否定する。

 

これにより袁術が不機嫌になり彼の元を去った。

 

曹操は冀州を平定すると曹操の元に赴き、諫議大夫に任命。

 

諫議大夫(かんぎたいふ)とは

官名の一つ。天子のあやまりをいさめ、国家の利害得失などを忠告する役目。

 

『三国志演義』では登場しません。

 

ちりょく【知力】42ではない気がするが、あまり能力が上げ過ぎるとゲームバランスが狂ってしまうので、一概には言えない部分がある。

三国志2 武将データ 毛玠

三国志2 武将データ 毛玠

毛玠(もうかい)

ぶりょく【武力】52 ちりょく【知力】47 みりょく【魅力】53

 

毛玠は三国志5でも登場しましたが、またも顔グラがモブキャラです。

 

能力値というとあまり変わってません

 

三国志5での毛玠というとこんな感じです。

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武力【武】60 知力【知】57 魅力【魅】60 政治【政】82(三国志5での能力値)

 

ぶりょく【武力】52 ちりょく【知力】47 みりょく【魅力】53(三国志2の毛玠)

 

武力は52→60 知力は47→57 魅力は53→60 基本的に能力値が上がってますね

 

三国志5での毛玠の説明では、毛玠は内政面での手腕に長けていたと書いてある通り

 

内政が高いのだが、三国志2では内政という能力は無いです。

 

だが、魅力などで内政の概念に影響されており、ドラクエ3で言うならば

 

【身の守り】を【素早さ】で対応していたようなものだと思います。

 

毛玠は清廉潔白な性格で内政面で長けていた。

 

だが、丁儀にハメられ毛玠は投獄されてしまう。

 

(丁儀の讒言で投獄されてしまう。)

 

讒言(ざんげん)

【事実を曲げ、ありもしない話をして、人のことを悪いように言う。】

 

桓階が毛玠を弁護したため、毛玠は免職だけで助命するも、家に戻り亡くなった。

 

毛玠を弁護した桓階(かんかい)は三国志2で登場しますが、三国志5では存在しません。

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毛玠を追い込んだ人物、丁儀(ていぎ)とはどんな人物なのか?

 

「曹植の四友」と言う太子の補佐役を務めた人物で文才に優れており、曹操からも評価されていた。

 

「曹植の四友」とは(・楊修・丁儀・丁廙・邯鄲淳)

 

清河長公主(曹操の娘)を嫁がせようとしたが

 

曹丕が「丁儀の容貌は斜視(眇=すがめ、片目が小さいこと)なので、醜い男の妻になっても姉上がお気の毒です。姉上には夏侯楙に嫁いだ方がよい」と縁談に反対する。wikiより

 

夏侯楙は女性にだらしない。

 

曹操は、後に丁儀が改めて有能だと分かると「やはり娘を丁儀に嫁がせるべきであった」と、大いに後悔した

wikiより

 

これにより、曹丕と丁儀は犬猿の仲になる。

 

曹操の晩年に曹丕と曹植による後継者争いが起こると、丁儀は曹植擁立に奔走し、曹丕を太子から廃そうと何度も画策した。

 

丁儀の働きによって曹丕派の崔琰は処刑され、毛玠も失脚した

(「崔琰伝」「毛玠伝」「徐奕伝」「何夔伝」)。

 

220年に曹丕が王位に即位すると、弟と共に逮捕されて処刑された。

 

『三国志演義』では、曹操の葬儀に参列しなかったことで

 

曹丕の命令を受けた許褚に逮捕され、弟と共に処刑される。

 

wikiより

 

毛玠は曹丕派属していたのだろうか、だが崔琰が曹操の不興を買って自害に追い込まれると、毛玠は曹操の判断に不満に思い関係は悪くなる。

 

と書いてあるので、曹丕派か曹植派かの派閥争いがどうだったかよりも

 

崔琰は毛玠と共に人事で辣腕を振るったと言われる仕事の同僚だったのだろう。

 

曹操が并州を討伐すると、崔琰は鄴に残され曹丕の補佐を任された。

 

狩猟に熱中する曹丕を厳しく諌めている。

 

崔琰の最期は正史では、丁儀の讒言で投獄され、それでも堂々としてる崔琰をみて曹操は不快になり自害を命じられる。

 

三国志演義では、曹操が魏王になることに反対し投獄。

 

曹操に撲殺されたる。

 

三国志演義は小説なので、辻褄が合わないというか話がしっくりこない気がします。

 

魏王に反対しただけで曹操が家臣を直々に撲殺しますかね

 

だがどんな名勇でも晩年は暴走しますね

 

劉備にしろ秀吉なども

三国志2 武将データ 閻圃

三国志2 武将データ 閻圃

閻圃(えんほ)

ぶりょく【武力】33 ちりょく【知力】81 みりょく【魅力】42

 

三国志5でも閻圃は登場したが、顔グラが弁慶か謙信ようで僧の格好です。

 

ただ顔グラが気になったので記事しました。

 

三国志5での閻圃です。

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閻圃は張魯の参謀なんので知略は高めです。

 

その後、曹操に降伏し閻圃の実績は高く評価さた。

 

張魯は曹操が攻めるとわかると直ぐに降伏をしようとするが、いきなり降伏すると

 

その後に曹操にナメられるので、閻圃はポーズの抗戦を主張した。

 

だが、その後降伏し曹操に張魯と共に【列侯】に封じられた。

 

列侯(れっこう)とは、古代中国、前漢や後漢における爵位の一つ。

 

その後、閻圃の一族は栄えた。

 

ゲーム内の能力を見てみよう。

 

三国志2と三国志5の能力値の比較。

 

ぶりょく【武力】33 ちりょく【知力】81 みりょく【魅力】42(三国志2)

 

武力【武】31 知力【知】80 魅力【魅】77 政治【政】86(三国志5)

 

武力 33→31 知力 81→80 魅力42→77

 

武力と知力に関しては多少変更があり下がっているが問題は魅力です。

 

42から77と大幅変更がある。

 

これは多分ではあるが、【三国志演義】の影響だろう。

 

三国志演義では、曹操が漢中に進軍してくるあたりからお話がある。

 

曹操が漢中に進攻してくると、張魯に防衛の将として龐徳の起用を進言するが、同僚の楊松の讒言で張魯は龐徳を斬ろうとする。

 

閻圃は懸命にこれを弁護した。その後、曹操に降伏し史実と同様。

 

wikiより

 

龐徳を弁護し救った閻圃。

 

この評価もあり魅力の能力が42から77と大幅変更になったのだろうと思われます。

 

だが、三国志2での顔グラが僧なのかは全くわかりません。

 

だが、この顔グラ(三国志2)も良い。

 

ここは単純に、戦国群雄伝の宇佐美定満のなごり程度と思っておいた方が良い。

 

三国志2では武将の能力より、兵糧の量で勝敗が決まる。

 

これは、戦闘が兵糧の続くまで戦える。

 

三国志5では30日で強制的に戦闘が終了する。

 

このゲームシステムの設定はかなり面白くもあり、ゲーム難易度も変わってくる。

 

つまり大国になると楽に勝てるということになる。

 

内政で開墾し米(兵糧)作ればどんな強敵でも勝てます。

 

自国は【米どころ】多く作り、敵を兵糧攻めにするといった方法です。

 

これは、全国統一をした秀吉が散々使った方法ですね、群雄割拠する時代から地方で強国となり、後に統一する感じです。

 

KOEIの作品ごとに合戦の勝利条件が変わってくるので、面白です。

 

因みに、武将風雲録では大名が他国え進軍し交戦中に自国の領土を失ってもゲームオーバーになりません、大名が交戦中なので、そこで勝てばゲームは続きます。

三国志2 武将データ 楽就

三国志2 武将データ 楽就

楽就(がくしゅう)

ぶりょく【武力】74 ちりょく【知力】54 みりょく【魅力】53

 

楽 就(がく しゅう、? – 197年)

 

袁術配下。

 

建安2年(197年)9月、曹操は自ら陳国に進攻して来た袁術を討伐しようとした。

 

これに対して袁術は、橋蕤に加えて李豊・梁綱・楽就の3将を陳国に残留させ、自分だけ寿春へ逃げ帰ってしまった。

 

楽就は、他の将軍たちと共に曹操軍を迎撃したが、敗北して戦死した。

 

『三国志演義』では、李豊・梁剛(正史の梁綱)と共に呂布討伐の際に袁術軍各軍の督戦官を務めている。

 

曹操らが寿春に攻め込んで来ると、淮水を渡って逃れようとする袁術の命により、楽就は李豊・梁剛(正史の梁綱)・陳紀と共に寿春城を固守している。

 

曹操軍の猛攻の前に城が陥落し、楽就らは城内の市場へ引き出されて斬首されてしまう。

 

『後漢書』袁術伝によると、張勲も留まったとされる。wikiより

 

袁術の将である楽就、袁術自身は寿春に逃げ、曹操(劉備も)が攻め入る陳国に橋蕤に加えて李豊・梁綱・楽就の3将を残留させたとある。

 

後漢書では張勲も留まっていたそうだ。

 

張勲というと同じく袁術の配下の将軍で袁術が帝位に僭称すると大将軍に任じられた。

二十万の兵士を率いて呂布と戦うが敗走した。

 

張勲は三国志5でも登場します。

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ドラマ三国志では張勛(ちょうい)呼ばれている武将は張勲のことだろうと思われる。

 

その他にも将軍は、紀霊(きれい)・楊奉(ようほう)・雷薄(らいはく)楊弘(ようこう)などもいる、楊弘は同じ名前のものが魏にももう一人存在している。

 

また、劉勲(りゅうくん)袁術の故吏であり、曹操とも旧知のものもいる。

故吏とはかつて辟召を受けて上司と部下の関係とも書いてある。

 

揚州に進出した袁術は、廬江郡を孫策に命じて攻略させたが、太守の座には孫策ではなく、自分の元々の部下である劉勲を任命した(『三国志』呉志「破虜討逆伝」)。wikiより

 

橋蕤(きょうずい)も袁術の配下で大将軍の地位にある。

 

橋蕤は正史では于禁にやられる。

 

三国志演義では寿春付近で夏侯惇に矛でやられる。

 

ここで、曹操が侵略した場所は正史では陳国だが、演義で寿春になっている。

 

だが、袁術が逃げ出したことは変わらない。

 

演義での最期は梁綱・李豊と共に斬首される楽就である。

 

袁術の将軍というと紀霊が有名です。

 

父を殺された孫策は居場所がなく、袁術の配下に加わっていた時もありました。

 

程普・黄蓋・韓当・祖茂も袁術の配下となっていたました。

 

後に孫策は伝国璽と引き換えで程普・黄蓋・韓当・祖茂の4人の将を引き連れ

 

袁術のもとから離れます。

 

その他ににも袁術の配下のもは存在している。

 

ドラマ三国志では、袁術が先生と呼ぶ軍師のような白髪の家臣がいました。

 

おそらく彼は、閻象(えん しょう、生没年不詳)なのではないだろうか?

 

袁術配下の主簿で主簿(しゅぼ)とは帳簿をつかさどる人で中国の官名。

 

帳簿を管理し、庶務をつかさどる官。

 

次官につぐ程度の地位とある。

 

閻象(えんしょう)は『後漢書』袁術伝・『三国志』魏書袁術伝にのみ記述がある。

 

袁術が皇帝となるとき、閻象一人だけが災いの元となるので皇帝にはなるなと忠告する

「漢王朝が健在である以上まだその時期ではない」と諌めたとwikiにもある。

 

こうして袁紹は一度は聞き入れるが、これ以後、閻象は史書に見当たらない。

 

その後、袁紹は皇帝となっている。

 

『三国志演義』でも、史実同様に閻象は諫言するも

 

袁術は怒りこれ以上言うと斬ると閻象を脅して皇帝となった。

 

その他にも袁渙(えんかん)という袁術配下のものもいた。

 

袁渙は『三国志演義』には登場しない。

 

袁術が呂布に敗戦した際に捕虜り、そのまま呂布に仕えた後に呂布は曹操に敗れ

 

袁渙は曹操に降る。

 

主に内政面で献策し人民から慕われたとある。

 

袁渙が亡くなると、曹操は涙を流して悲しんだ。

 

これを見るに袁術軍かなり強大な勢力だったことがわかる。

 

だが董卓と劉表に挟まれ、更に曹操と劉備に攻め入られることになる。

三国志2 武将データ 李通

三国志2 武将データ 李通

李通(りつう)

ぶりょく【武力】69 ちりょく【知力】57 みりょく【魅力】59

 

李 通(り つう、168年 – 209年)

 

曹操に仕えた。字は文達(ぶんたつ)。幼名に万億(『魏略』)。

 

本貫は趙郡。先祖の潁川郡襄城県出身の李就(李膺の祖父の李脩の弟)は荊州江夏郡平春県に移り住んでいた。子に李緒・李基。孫(李緒の子)に李秉。曾孫(李秉の子)に李重・李嶷・李尚・李矩。玄孫に李式(李重の子)・李樊(李重の子で、李先の父)・李充(李矩の子)。『三国志』魏志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。

 

江・汝の地で侠気によって知られていた。

 

同郡の陳恭と共に朗陵で挙兵し、周囲の信望を集めた。周直という豪族が二千余家を集めて対立していたが、李通は陳恭が決断力を欠くことを知っていたので、周直の殺害を一人で計画し、宴席でこれを実行した。続いて陳恭を率いて周直の幹部を皆殺しにし、その軍勢を手に入れた。

 

後に陳恭が妻の弟である陳郃に殺されて軍勢を奪われると、李通は陳郃を攻めて破り、首を斬って陳恭の墓に祭った。

 

更に黄巾党の大物指導者の呉覇を降伏させ、その軍勢を手に入れた。このようにして、李通の軍勢は吸収を繰り返して大きくなった。

 

大飢饉が勃発すると、李通は自分の財産を傾け、部下と食料を分け合ったので、皆が李通の為に役立つことを争い、盗賊たちは近づこうとしなかった。

 

建安元年(196年)、李通は軍勢を引き連れて許昌に赴き、曹操の傘下となった。

 

振威中郎将に任命され、汝南の西境に駐屯した。建安3年(198年)、曹操が荀攸の進言を聞かずに張繡を攻撃した時、荀攸の予測通り劉表が張繡の援軍に来たので負け戦になった(「荀攸伝」)。

 

李通が夜間に援軍に来たので、曹操はまた戦うことができた。

 

李通は先陣となって張繡軍を大破し、裨将軍に昇進して建功亭侯に封じられた。

 

曹操は汝南郡を分割して陽安郡を設置し、李通を陽安都尉とした。

 

李通の妻の伯父が罪を犯し、陽安郡の朗陵県令である趙儼はこれを処刑しようとした。

 

李通の妻子は号泣して助命を嘆願したが、李通は「今は曹公と力を合わせており、私情で公の道義を廃すことはできない」とし、処刑を容認した。李通は法を厳格に守った趙儼を讃え、共に親交を結んだ。

 

建安5年(200年)、官渡の戦いが起こると、袁紹は豫州諸郡に調略を仕掛けたが、陽安郡だけが動揺しなかった。

 

李通は急いで税を取り立てようとし、趙儼に窘められたことがあったという。

 

曹操陣営の南方を任されている李通は調略の的となり、袁紹は李通に使者を派遣して征南将軍に任じようとし、劉表もまた李通を味方にしようと誘ったが、李通は全て拒絶した。

 

李通の親族や部下たちは「孤軍奮闘しておられますが援軍は無く、滅びを待つばかりです。早く袁紹に従うに越したことはありません」と涙を流したが、李通は剣を構えて「曹公は明哲で、きっと天下を定めるだろう。袁紹は強勢だが軍規が無く、結局は捕虜となるだけだ。私は死んでも裏切らない」と叱咤し、袁紹の使者を斬り、征南将軍の印綬を曹操に送った。

 

更に汝南郡の瞿恭・江宮・沈成らを討伐し、全て撃破してその一党を滅ぼし、首を曹操に送った。

 

ついに淮・汝の地を平定し、都亭侯に改封され、汝南太守に任命された。

 

張赤ら五千余家が桃山に巣食っていたが、これを攻めて破った。

 

建安14年(209年)、周瑜・劉備連合軍に包囲された江陵の曹仁を救出するため、李通は軍勢を率いて駆け付け、江陵の北道を絶ち切っていた関羽を手勢をもって攻撃した。

 

李通は鹿角を通り下馬して包囲網に突入し、戦いながら前進して曹仁軍を迎え取り、その武勇は諸将の筆頭だった。

 

撤退中に病気に罹り死去し、この時42歳だった。

 

二百戸の所領を有していたが、二百戸を追贈された。

 

曹丕(文帝)は即位すると李通に剛侯と諡し、李通の忠心を回顧して讃え、爵位を継いでいた次男の李基を奉義中郎将とし、かつて樊城に駐屯していた長男の李緒を平虜中郎将とし、特別な恩寵とした。

 

その子孫は晋でも栄達した。

 

かつて李通の妻は双子を流産した際に重病に陥ったが、華佗の適切な処方により助かったという(「華佗伝」)。

 

 

『三国志演義』では、ほぼ名のみの登場である。

 

最初に登場してから暫く姿を見せず、二度目の登場シーンである潼関の戦いで、馬超と一騎討ちを演じるも斬られる。wikiより

 

これだけの伝記が残っているのになぜ三国志5では登場しなかったのか、かなり疑問ですが、何か別な理由があるに違いない。

 

 

三国志2でのゲーム内での強さはぶりょく【武力】69 ちりょく【知力】57 みりょく【魅力】59と言った感じで平均よりも少し強めで、設定されている。

 

大飢饉のとき李通は自分の財産を傾け、部下と食料を分け合ったので、皆が李通の為に従ったそうだから魅力もそれなりにあるだろう。

 

その軍勢を引き連れ曹操の傘下に入る。

 

楽進みたいな立ち位置だったのかなは定かではないがそんな感じがします。

 

だが三国志演義では馬超と一騎打ちを繰り広げ斬られている。

 

だが史実が結構多いので何か気になる。