信長軍団の最高司令官である柴田勝家なのだが、明智光秀よりも羽柴秀吉より上位の筆頭家老であるが、新規採用者が多い織田軍に昔かっら、織田軍に仕えていた柴田勝家である、だがこの主従関係は最初からではないそうだ、ここで言っておくがコレはコンビニで昔定価500円で売っていた、劇薬の戦国史という本を見て書いてあります。
勝家の出身は尾張国愛知郡の豪族といわれ信長の父である、織田信秀に士官して信長が家督を継承したときには既に織田軍の家老格として家中ではかなりの勢力を得ていたそうだ、そして信秀(信長の父)の死後、次男の信行の家老となり、この頃はまだ信長との関係も薄く、その人となりも詳しくは知らなかったそうだ、勝家は元々律儀で真面目な性格とあるがこれは想像通りの柴田勝家といったところか、柴田勝家は主君の為に命を賭けで仕えてる気持ちが強かったと思われると書いてある、でも昔は大抵はそんなもんだろうと思ってます。藤堂高虎なんてコロコロ主君変えて生き残ってるから割と現代風な感じかと思われますね、そんで話は勝家に戻るが当時勝家としては信長の常軌を逸した所行に呆れていたそうだ、やがて信長と信行の間に家督争いが起きる、勝家は林秀貞とともに信行擁立派の中心人物として信長と対立し、弘治(こうじ)2年(1556)にはクーデターを起こし「信長を捕えて切腹させる」とまで決意したそうだ、勝家らが率いた約2000人兵力に対して、虚を衝かれた信長軍はわずか700人
この時点では勝家が勝てると思ったが信長はしぶとかった。
この状態で逆に信長に圧倒され、勝家らは敗走、クーデターは失敗に終わった。
この時、勝家は信長の真の実力を知り、これと敵対していたことに後悔する、そうなるとこの勝家は潔く即座に無条件降伏し、切腹を覚悟した。だが、信長は勝家を許した。「ここで許してやれば、以後は俺のために滅私奉公するはず」おそらく勝家の本質を見抜いていたのだろうと思われる、実際その通りに寛大な措置に感動した勝家は、以後、獅子奮迅の働きぶりで信長軍団でも随一の猛将として敵から恐れられる存在となるのである。そんな感じで勝家は猛将だから強いのだが謙信と手取川の戦いで秀吉が勝手に戦線を離れて勝家が謙信にやられた話は思い浮かぶだが、謙信の強さは軍神レベルなので実際は洟も引っ掛けないぐらいのものだったと言っても過言ではない、信長が謙信を恐れ洛中洛外図屏風を献上しているもんね、そんな感じで柴田勝家と信長との雑談でした。