戦国時代実際に戦闘を左右するのなんだったんだろうね?

アベノミクスの三本の矢と言ったら毛利元就の三本の矢ですが、山口県出身とかいう話は置いておこう、広島県と言うと毛利元就を思い出しますね、そんで信長の野望で三本の矢イベントとかあったよな将星録の動画は知りませんでしたが、動画あったので貼っておくよ

三人で力を合わせれば何とかなるよって話だが、実はワイも今さっき YouTube のコメント欄で見たのだが、これ作り話だよ当時の状況を考えればすぐにわかる事あと三本の矢を折るなんてのは造作もない事と書いてあった、多分そうなんだろうけど、史実って意外と違ったりするもんね、なんか戦国時代の馬は実際は小さなロバだったみたいな、騎馬軍団というのは移動だけで、実際の戦闘中は今から降りて戦っていたという話も聞いた事がある、だがこの説に関してはかなりの疑問点が浮かんでくる、そもそも日本の刀というのは平将門が作ったとする話を聞いたことがある、あの反りのある彎刀(わんとう)は馬上で片手使いに適している、初期の刀剣は、刺突を目的とした長大な平造りの直刀で、直刀(大刀)→彎刀(太刀・片手で使用)とある。

日本刀と平将門 – 将門ブログ

そしてもう一つの疑問点は上杉謙信の車懸かりでる、あれもし小さなロバで、しかも馬は移動手段だけだとしたら、走ってグルグル回って相手に切り込んで行ったのか?

鎧を着た状態でか?それは流石に疲れるだろう、馬上から切り込むのが現実的なのではないだろうか?

そして次にもう一つの疑問点は平安時代一ノ谷の戦いでの鵯越の逆落としである、馬に乗って崖降りてますやんって話で、仮に嘘だったとしても、奇襲をかけたと済む話だしわざわざ馬を出して話を盛ったとは思えない。だとするとこれは事実となる、馬に乗って崖を降りられる運動性と移動力さえあらば、馬上攻撃というのは可能なのである。

そして、長篠の戦いでも普通に武田軍が馬乗って突っ込んでそれを信長軍が鉄砲で撃ってるんな、こうなると馬は実際は小さなロバ説と移動手段説はありえない話なのではないだろうか?

そして本で【雑兵たちの戦場】をパラパラ見るに戦国武将ってさ〜そんなに大したもんじゃなかったんじゃないのか?って思う部分も考えられる、農民とか豪族だとか、山伏とか色々いるが、そういった集団が結果強かったみたいな、実際に紀伊の雑賀衆なんかは武将とかじゃなく、集団だったんだよな、信長の野望では武将にするしかないので、ゲーム上しょうがなく鈴木家としているからね、武将というのは歴史書に残っているだけで、事実戦闘を左右するのは、武田の赤備えだったりよく歴史番組とかで高橋英樹が可児才蔵(可児吉長)のことを話すも、歴史家にスルーされると言ったパターンが多いのだが実戦で異常な強さを誇っていたのは事実である、そして才蔵の墓を通る武者は下馬して通過したとか聞いたがこれうろ覚えで定かではない、そして戦闘スタイルは宝蔵院流槍術と言って宝蔵院覚禅房胤栄(1521 – 1607)が創始した十文字槍を使った槍術である。薙刀術も伝承していた。 初代宝蔵院覚禅房胤栄、2代目胤舜、3代目胤清、4代目胤風。とウィキにある、信長の野望革新でチュートリアルだっけ、なんかサブストーリーみたいなのクリアすると使えるよな宝蔵院覚禅房胤栄だっけ、実際に戦国時代は刀より槍が実戦的だったのかな、よく槍働きとかいうもんな、接近戦になれば刀と短刀を使用し戦ったのだろう、戦国時代にある本物の合気道なんかも甲冑形の敵と甲冑なしの戦闘を予想されて作られていたそうだ、だがこういった過去の書物はGHQにより文化ごと消されたとも考えられる(定かではないが)だが陸軍中野学校とかで八光流柔術などを用いてガチで忍者を育てていたそうだ、それゆえ命を落とした者を多く夜になると足音と声が聞こえると言った稲川淳二の怪談話のような出来事がマジでおこるそうだ、そしてこの八光流柔術という忍者のような訓練とは暗闇の中でも目を見えるようにする、拷問中痛みを感じないマインドにする、首に縄をつけられた時、気道確保する方法などこれで死人が実際に多かったようだ、ちょっと待った毛利元就の話をするはずだったが、脱線してしまったので今日はここまで