東洲斎写楽を忘れていた。

最近目次を入れるのを忘れるので、はじめに入れておくか・・・

見出しは入れておくんだけどね、目次を入れないでそのまま投稿って感じですね

このブログを書いた後思った事が、肝心なもん忘れてたよ。

浮世絵を語る上で写楽なしでは語れんよなって思いましたが写楽の事全く知らないからね、あの有名なポーズだけ覚えてるってだけです。

東洲斎写楽

とうしゅうさい しゃらく

態々ワイのブログで写楽の話をしてもwiki見れやいいだけの話で、俺がブログを書く意味がない。

なので今回はワイ自身が写楽を絵を描きそこから何か感じるものがあるのか?

という、そう言った観点が必要なんでね〜の?って思うのある。

なので今日は眠いので次回へを投稿していきたいなと思います。

と言いますがざっくりこの東洲斎写楽という人物について説明したいと思います。

江戸時代中期の浮世絵師。約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と画業を絶って姿を消した謎の絵師として知られる。その出自や経歴については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年〈1763年〉 – 文政3年〈1820年〉)とする説が有力となっている。wikiより

蜂須賀小六正勝

蜂須賀小六正勝を思い出してしまったのだが、これはワイが信長の野望で、斉藤道三を吸収した織田信長軍の猛攻に紛れ込んだ、蜂須賀小六正勝なのだが、信長の野望革新で蜂須賀小六正勝計略高かったよな、そして足軽の適正レベルもAとかSだったような気がするよ、蜂須賀小六てたら秀吉思い出すよね、蜂須賀小六の親父が蜂須賀城主・蜂須賀正利(200貫)の国人領主で、美濃・斎藤氏に従っていた。

そんで豊臣秀吉の父・木下弥右衛門は、この蜂須賀正利(親父)に仕えていたそうだ。子と親で立場が逆転って感じなのかな?あまりちゃんとは分かりませんが、ガキの頃から秀吉と小六は面識があったようだ。

ここで少し気がかりになるのか秀吉って農民でじゃないの?って話だが、時間を重ねるにつれて秀吉は武士とかだったんじゃないのか?という話がありますからね、そもそも現実にはそんなサクセスストーリーはめったにない、こういう話というのは物語になるからね美談として語り継がれるのだが、この例を言うと孫正義の話が思い浮かのだが、ここはあまり深くは掘り下げませんよ、調べれば色々と出て来ますからね

ちょっと待った写楽の話だよな、またまた大きく話を脱線しましたが、言いたいことはただこれだけだ写楽のポージングって面白です。

そして蜂須賀一族は財閥解体にあってないないようだ。