三国志5 武将 馬邈

馬邈(ばばく)

三国志5 武将 馬邈馬 邈(ば ばく 生没年不詳)蜀将、鄧艾伝に名前がある。

『正史』

263年(蜀の炎興元年、魏の景元4年)の冬十月、魏の将軍の鄧艾が険阻な陰平の街道を越えた。その先陣が江由に到着すると守将だった馬邈はこれに降伏した。以後史書には登場しない。wiki

『三国志演義』

小説『三国志演義』では江油城の守将として登場する。漢中陥落の報を聞き、本街道だけを注視するといういい加減な備えをするだけだった。妻の李氏と酒を飲んでいるときにその不用心さを窘められるが聞かず、黄皓の専横を理由に魏への降伏を口にした。折しも鄧艾が江油城に攻め入ったので、すぐさま行ってこれに降伏した。蜀領内の道案内を請け負った。wiki

黄 皓(こう こう)は蜀漢の滅亡を招いた。

諸葛亮の死後、蜀内ではガタガタになって来て、姜維と黄 皓が仲が悪かった。

その前からあった、前線で戦う諸葛亮と成都の李厳に似ていますね

 

そんな状態でもあるので、漢中陥落の報を聞いた馬邈は鄧艾に降伏し蜀領内の道案内を請け負っているあたりが、魏の実権が司馬氏に移って夏侯覇の蜀へ亡命などがあったので、馬邈の判断は一概に悪いものではなかったのかもしれなですね

何より、黄皓の専横を理由に魏への降伏したので、内輪もめはどんな歴史でも絶えない

 

最後にwikiでは、妻の李氏と酒を飲んでいるとき窘められる。

そして三国志5内での人物説明では夫の行為を恥じて自害するとある。

この流れは酒を飲んでいる時の後に簡単に城を明け渡した事を知って自害したのかも知れないですね、夫よりも武将らしいと言うか何とかならなかったのか・・・ 

www.opio8.com

覚える特殊能力

三国志5 武将 馬邈

【火計・混乱・同討・収拾・消火・伏兵】

 

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

 関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。 

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 馬邈

武力【武】41 知力【知】40 魅力【魅】18 政治【政】47

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値25363・勇名1324

三国志5 武将 沈瑩

沈瑩(しんえい)

三国志5 武将 沈瑩沈 瑩(しん えい、? – 280年)

呉の左将軍。

晋が呉に侵攻し、瞬く間に荊州が制圧されると、孫皓は張悌・沈瑩・孫震らに命じ、三万の兵を率いて晋軍を迎撃させた。

迎撃方針に関して、長江北岸に渡り決戦を挑もうとする張悌に対し、

沈瑩は牛渚に留まり渡河してきた晋軍を叩くべきだと主張したが、聞き入れられなかった。晋軍が長江北岸に至ると、沈瑩は「青巾兵」と号す丹陽の精兵5千を率い、3度にわたって晋軍に攻撃を仕掛けたが、撃ち破ることができなかった。また呉軍が苦戦したため、

晋の降兵が後方で蜂起してしまい、これにより呉軍は混乱をきたすことになった。そこへ

晋軍の総攻撃を受けたため、ひとたまりもなく壊滅してしまった。

沈瑩は張悌らと共に晋軍の捕虜となり斬首された。著書に『臨海水土異物志』がある。

同書にある「夷州」は、現在の台湾に比定されており、

台湾に関する最も古い文献の一つである。

 

小説『三国志演義』では、呉の左将軍として牛渚で晋軍との決戦に及び、晋将周旨に討ち取られている。wikiより

 ゲーム的(三国志5)にも何気にステータス高い、政治は抜きにして

武力【武】75 知力【知】56 魅力【魅】66というこの内容だ。

もしかすると沈瑩策を聞き入れたら・・・?という、歴史ifを考えたら切りが無いが

本当はもっとやれたのかも知れないですね・・・

www.opio8.com

覚える特殊能力

三国志5 武将 沈瑩

【混乱・収拾・鼓舞・消火・伏兵・火矢】

陣形

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】の場合。

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】の場合。

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】の場合。

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2 

新兵器『楼船』を開発・【有】の場合。

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 沈瑩

武力【武】75 知力【知】56 魅力【魅】66 政治【政】37

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値16100・勇名400

三国志5 武将 周旨

周旨(しゅうし)

三国志5 武将 周旨周 旨(しゅう し、生没年不詳)西晋の武将。

『正史』

『晋書』杜預伝によると、279年に杜預に従い呉侵攻に参加し。

管定・伍巣らと共に800人の兵を率い、舟で夜半に長江を渡って楽郷を襲撃した。

多くの旗幟を立て、巴山に火を起こし、呉の孫歆に大軍と錯覚させ恐れさせた。

伍巣と共に楽郷城外へ伏兵を布き、孫歆を捕らえる功績を挙げた。wikiより

周旨に関しては正史と小説である三国志演義違いは然程無い。

(演技は明代に書かれたものなので脚色されている。)

『三国志演義』

『三国志演義』第120回によると、周旨は杜預の副将であり、

800人の兵を率いて渡江すると、巴山に伏兵として潜む。

杜預が呉軍を破った後、敗走・混乱していた呉軍に紛れ込み城内への侵入を果たし、

孫歆を斬っている。さらに呉の張悌と戦い、沈瑩を討ち取るという武功を挙げている。

wikiより

周旨は杜預(どよ)の副将とある。杜預は呉討伐戦で鎮南大将軍の肩書きで参陣し、

呉軍を撃破するぐらいだから、牙将だけあってゲーム内の強さと同等と考えられる。

これは、三国志演義ベースの話である。

覚える特殊能力

三国志5 武将 周旨

【混乱・同討・収拾・伏兵・水計・火矢】

陣形

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。 

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2 

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 周旨武力【武】81 知力【知】47 魅力【魅】44 政治【政】27

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値25360・勇名4592

三国志5 武将 陳騫

陳騫(ちんけん)

三国志5 武将 陳騫陳 騫(ちん けん、201年? – 281年?)

若いころから度量と胆力を備えた性格。

257年の諸葛誕の反乱鎮圧にも参加した(諸葛誕の乱)。寿春平定後、まもなく都督江南諸軍事や荊州諸軍事を任されるようになり、征南将軍に昇進し、呉と対峙した。

263年に蜀が滅亡し、旧蜀の羅憲が呉の攻撃を受けると胡烈を救援に派遣した。

司馬昭が没すると、子の司馬炎(武帝)への禅譲に協力し、265年に晋が成立すると車騎将軍になった。都督揚州諸軍事として、引き続き呉と対峙した。

胡烈と牽弘の資質について疑問を持ち、二人を重用しないよう諫言したが、

司馬炎は引き続き二人をそれぞれ州刺史として任用した。

結果二人は異民族の反乱により戦死した。

司馬炎の側近である賈充・石苞・裴秀といった人物の中でも陳騫の性格は抜きん出ており、賈充達もそれを認めていたが、賈充と違い武人的な性格であったため政争には疎かった。

咸寧期には太尉・大司馬と重職を歴任したが、老齢であったこともあり、

早々に引退を申し出た。晩年は弟と子が些細なことで争ったため、

陳騫の名声も些か損なわれたという。

没年については晋書の記録に齟齬があるため確定できないが、

「武帝紀」によると281年に没し、「陳騫伝」によると81歳であったとされている。wikiより

胡烈と牽弘の資質について疑問 、とある。

胡烈は武闘派で魏延タイプだったのだろう。

でも強さとかのチャート全体の能力は大きく違うだろう。陳騫もう少しチャート的に強くしてもいいんじゃないのかなと思いますが、コレぐらいが丁度良いのかも知れないですね

www.opio8.com

覚える特殊能力

三国志5 武将 陳騫

【火計・鼓舞・消火・伏兵・水計・奮迅】

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。 

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

【水陣】

(すいじん)水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】の場合。

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2 

新兵器『楼船』を開発・【有】の場合。

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 陳騫

武力【武】71 知力【知】56 魅力【魅】53 政治【政】41

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値17645・勇名1808

三国志5 武将 陳式

陳式(ちんしょく)

三国志5 武将 陳式陳 式(ちん しょく または ちん しき、生没年不詳)

この陳式、『正史』三国志を書いた陳寿の父か祖父か?

陳寿の祖父で巴西陳氏の出自。水軍に長じ、夷陵の戦いで水軍を率い白帝城に生還した。俗に『三国志』の著者陳寿の父と言われているが、『晋書』「陳寿伝」等に斯様な記述はなく本籍地は不詳とされていた。『資治通鑑』では「陳戒」と表記されている。

多分ではあるが祖父だろうと思われる。

『正史』

時期が定かではない、漢中攻め陳式は馬鳴閣道の封鎖のために派遣されたが、徐晃に敗れる。

夷陵の戦いでは劉備に従い、将軍として呉班と共に水軍を率い夷陵に駐屯した。陸遜の火攻で大敗し夥しき被害が出る中で彼の部隊は白帝城への帰還に成功した。

229年に諸葛亮が再び北伐の軍を起こした時、陳式は先鋒の総大将として武都と陰平を攻略し、その功績を上げた。

諸葛亮自身は建威を攻略し、陳式と共に当地付近に駐屯していた郭淮を挟撃しようと試みた。郭淮はいったん出撃したがすぐに退却し、そのまま隴西方面から撤退した。

諸葛亮・陳式とも、これを追撃しなかった。

以降、史書に記述は見当たらない。wikiより

 なんか最後がリアルですね『正史』なんでこんな感じなのでしょう

 

『三国志演義』

小説『三国志演義』では、漢中攻防戦において黄忠の武将として登場する。

夏侯尚の軍勢と戦い捕虜となるが、黄忠も夏侯尚を捕らえたため、

数日後に双方の人質交換で無事に黄忠の陣営に戻されている。

その後、魏延と共に軍令を無視して魏軍を追撃する。

しかしその結果、大敗して多くの兵を失ったことから、諸葛亮の怒りを買って斬首されることになっている。このように『演義』での陳式は凡将扱いされることが多い。

『晋書』「陳寿伝」によると、陳寿の父が馬謖の参軍で、馬謖の死刑に連座して髠刑(剃髪の刑で、宮刑の次に屈辱的とされた)に処された。この陳某は陳式の子とされる。

『演義』ではこうした話を元に、陳寿の父としての陳式が諸葛亮に処刑されるエピソードが創作されたのであろう。wikiより

三国志演義での陳式斬首は創作とある。

馬謖まで斬ってるから軍令で蜀将頻繁に斬るのも、現実的ではない気がします。

www.opio8.com

覚える特殊能力

三国志5 武将 陳式

【収拾・鼓舞・消火・伏兵・火矢・奮迅】

陣形

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。 

発石車  【無】

 攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3 

発石車  【有】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 陳式

武力【武】67 知力【知】48 魅力【魅】25 政治【政】39

 

 ※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値28937・勇名1357

三国志5 武将 胡烈

胡烈(これつ)

三国志5 武将 胡烈胡 烈(こ れつ、? – 270年)

父は胡遵。兄は胡広・胡奮。弟は胡岐。子は胡淵。 

鍾会と姜維を襲う

257年、諸葛誕の乱では討伐軍に参加、抜け道を通って都陸を襲撃し、呉の朱異軍の兵糧を燃やすという戦功を挙げた(その後、兵糧不足に陥った朱異は撤退している)。263年胡烈は、鍾会軍の先鋒として陽安関を襲撃、傅僉を討ち取って陽安関を占領した。その後、降将の姜維と手を組んで魏から独立しようと考えた鍾会に、幽閉された。この時、丘建の従卒が胡烈に食料を差し入れに訪れた。それを見た胡烈の従卒も胡烈に食料を差し入れに来たが、胡烈はその従卒に「丘建が極秘に情報をくれた。鍾会は大穴を掘り、棒を数千本用意し、よその兵を順番に棒で殴り殺して、穴に投げ込むつもりらしい」という嘘の情報を流した。これを聞いた彼の子をはじめとした諸軍が、鍾会・姜維を襲って殺したため、胡烈は命を救われることになった。264年、荊州刺史の地位にあった胡烈は、羅憲が守備する永安の救援に向かい、呉軍を撤退させた。wikiより

戦死する

270年、秦州刺史の地位にあった胡烈は、鮮卑の禿髪樹機能の反乱に遭い戦死した。この直前、陳騫が司馬炎に対し「胡烈と牽弘(涼州刺史)は勇敢であるが思慮分別に欠ける人物なので、刺史の任は果たせないだろう」と伝えていたため、訃報に接した司馬炎は陳騫の言葉を用いなかったことを大いに後悔したという。wikiより

 ゲームの能力チャートでもわかる通りそんなには、強い方ではなかった。

確かに勇敢で武闘派ではあるが、思慮分別に欠ける人物と書いてある。

 

関連武将

父は胡遵。

www.opio8.com

覚える特殊能力

三国志5 武将 胡烈

【混乱・収拾・消火・伏兵・火矢・速攻】

陣形

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。 

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。 

発石車  【無】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3 

発石車  【有】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 胡烈武力【武】67 知力【知】41 魅力【魅】56 政治【政】39

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。 

 

経験値29008・勇名400

三国志5 武将 鍾会

鍾会(しょうかい)

三国志5 武将 鍾会

鍾 会(しょう かい、225年 – 264年3月3日)

父は鍾繇。母は張昌蒲。異母兄姉は鍾毓・鍾氏(荀勗の母)

蜀漢を平定した功労者となるも、蜀漢の滅亡後に謀反を起こして殺害された。『三国志』魏書に伝があり、『世説新語』にも度々登場する。wikiより

姜維に野心をくすぐられ、蜀で反乱を起こしたとある。

姜維と鍾会でタッグ組んでクーデターを起こしたのに失敗します。

 

子供の頃

子供の頃から頭が良かったそうです。母親(張昌蒲)が教育熱心でガリ勉ってやつです

鍾会の母親は鍾会を15歳で太学に入学させる。

太学とは、漢の時代に「太学」は首都に所在する高等教育機関の正式名称となった。前漢の武帝が董仲舒の献策によって設置したのがはじめとされている。「太学」は儒教を正統学問とした。wikiより

蔣済は、5歳の時の鍾会を「並外れた人間」と高く評価している。

 

青年期

20歳で朝廷に出仕した。父(鍾繇)が曹操・曹丕時代の元老であった事もあり重用される。正始年間(西暦240〜249年)、曹芳時代に秘書郎に任ぜられ尚書中書侍郎に昇進し、曹髦時代になると関内侯の爵位が与えられている。司馬師・司馬昭に重用され、毌丘倹・文欽・諸葛誕の乱の鎮圧に参謀として参加した。諸葛誕の乱時は、参謀として軍事を取り仕切り、諸葛誕の救援に来ていた呉の全懌らを策略で魏に帰順させ、勝利に貢献した。鍾会は人物眼にも優れており、司馬昭に王戎など才覚ある名臣を多く紹介しているが、讒言で人を追い落とす事も多かった。嵆康らが処刑されたのも、鍾会の計略によるものである。鍾会は功績を誇る節があり、「野心がその器量より大きい。慎み深くしないといけない」と友人の傅嘏に窘められた。司馬昭の夫人王元姫は、夫に常々「鍾士季は利に目を向けて義を忘れ、何でも自分でやりたがる人です。恩寵が過ぎれば、必ずや見境をなくします。大任を与えてはなりません」と言っていたという。また、辛憲英は鍾会の野心を見抜いていたとされ、甥の羊祜に「鍾会は勝手に物事を判断するので、いつまでも人に仕えているような人ではないでしょう」と言い、羊祜を慌てさせたという。wikiより

ざっくり言うと、有能で色々な乱の参謀になったが、野心はあり、危険視されていた鍾会。

蜀漢攻略・鍾会の乱

263年、司馬昭の命で鄧艾らと共に蜀征伐に出陣した。

鍾会は胡烈らを先鋒とし関城(陽安関)を降した。鍾会は田章らに剣閣の西を通り江油へ出る道を取らせ、田章は江油の手前で蜀軍の伏兵三部隊を撃破した。その後、田章は鄧艾の指揮下に入り、先鋒に命じられた。鄧艾が綿竹で諸葛瞻らを討ち取ると、劉禅は鄧艾に降伏した。劉禅が降伏した後、鍾会は魏兵らに略奪を許さず、蜀の官僚達と友好的に接し、姜維と親交を深めた。鍾会は蜀漢征伐の功績により司徒に任じられ、爵位も県侯に昇進し、一万戸を加増された。一方でこの蜀漢征伐時に、桟道が崩れた事を理由に許儀を処刑し、さらに諸葛緒が怯んで前進しないと密告し、諸葛緒の兵権を取り上げ配下の兵を自分のものにしている。また諸葛亮の墓の祭祀を行なわせている。

『三国志』魏書鍾会伝の注に引く『世語』および『漢晋春秋』によれば、蜀漢に亡命していた夏侯覇は鍾会の才能を高く評価しており、「鍾会は蜀漢・呉にとって心配な事態を招くかもしれません」と語ったという。鄧艾が独断専横し勝手な処置をしたので、

鍾会は胡烈・師纂らとともに鄧艾を告発した。その結果、鄧艾は兵権を剥奪され逮捕さた。これによって自立の野心を抱いていた鍾会は、大軍勢を1人で統率するようになったので、姜維と手を結んで魏に反逆しようとした。鍾会はあわ良くば司馬昭に取って代わり、失敗しても(蜀漢を築いた)劉備くらいにはなれると計算した。

264年正月15日、成都で護軍・郡太守・牙門将・騎督以上の者を宴に招待し、監禁した。

しかし、胡烈の計略により、胡烈の子の胡淵ら将兵が反逆したため、鍾会は殺された。この時40歳であった。同行していた兄の子も斬られた。なお、鍾会は遠征に息子ではなく甥たちを同行させている。というのも、彼は蜀漢討伐の少し前の時点に独り身であったという記述があり、実の子に関する具体的な記述がないことから、生涯独身だったとする意見がある。

蜀漢討伐前に、邵悌は司馬昭に対し「鍾会に10数万の軍を与えるのは危険です」と言った。司馬昭は「蜀漢討伐に勝機を見出している人は少ないが、鍾会は蜀漢討伐に勝機を見出している。だから鍾会に蜀漢討伐をさせるのだ。それに、もし鍾会が裏切ったとしても鍾会は上手くできないだろう。敗軍(蜀漢軍)の将兵は意気消沈し、遠征軍(魏軍)の将兵は魏に帰りたいから同調しないだろう」と答えた。鍾会の遺体は向雄に引き取られ、埋葬された。wikiより

 司馬氏のクーデターで曹氏4代が潰えて、蜀に亡命ルートが盛んになっている風潮もあったのだろう、例えば夏侯覇とか、そりゃ鍾会も姜維とつるんでクーデター起こすわな

でが、胡烈と子の胡淵ら将兵の反逆で鍾会は斬られる。

 

人物・評価

鍾会は王弼と仲が良く、王弼の論の高邁さに感服していた。鍾会は何晏とも交流があり、何晏の「聖人には喜怒哀楽の情が無い」という論を祖述した。ちなみに王弼は何晏の論を批判している。『三国志』魏書三小帝紀の注に引く『晋書公賛』によれば、曹髦はいつも司馬望・王沈・裴秀・鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いていたとある。

陳寿は鍾会を「熟練した策略家であったが、大きな野心を抱き、災禍をよく考えずに反逆した結果、一族とともに殺害された」と評している。

『三国志演義』の毛宗崗の批評では、鍾会の反逆計画について「秘密が守られずしかも迅速でなかった。その死は当然である。しかし事がうまくいっていればいたで、諸将を殺した後に姜維に殺されていただろうから、どちらにせよ鍾会は死ぬことになっただろう」と評している。wikiより 

覚える特殊能力

三国志5 武将 鍾会

【収拾・鼓舞・伏兵・強行・沈着・反計】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。 

強化騎兵 【無】 

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2 

強化騎兵 【有】 

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。 

関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。 

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 鍾会武力【武】63 知力【知】96 魅力【魅】81 政治【政】83

 

 ※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値50121・勇名4098

三国志5 武将 全琮

全琮(ぜんそう)

三国志5 武将 全琮全琮(198年?- 249年?)

性格は温厚恭順。

『正史』

若き日の頃、親父に託された呉軍の為の兵糧を民に与えるなど、ぶっとんだ豪快ぶり

親父の命令に背くほどの有能さで、このころから頭角を現す。

この時、全琮は父の命令で桂陽から呉郡に米を運んで売却する任務を負ったが、全琮はその米を民に数千石程施した。

父は怒ったが、全琮が士人が苦しむのを見かねたためだと謝ったのを見て、

かえって子の非凡さを認識した。

戦乱を避けて中原の戦乱から逃れた数百豪族に、全琮は家財を傾けて援助した事から、

全琮の名は遠方にも鳴り響いたという。

その後、孫権に仕えて奮威校尉に任命され、1000人の兵士を率いて山越討伐に従事し、

募兵して兵士1万を得た。牛渚に駐屯する事になり、官位はやがて偏将軍まで昇進した。

建安15年(210年)、顧邵や陸績と一時呉郡に滞在していた龐統と交際し、

その知己を得ている。wikiより

最後の方に龐統と交流がある。

龐統では赤壁の影の功労者なので先見の明がある。(偶然かも知れないが)

陸遜とも結構対等ななかだったようだ。

wikiにはこうある。

全琮は陸遜ら揚州の貴族の子弟とともに呂範の威儀に置かれるような立場であったという

wikiでは色々功績がある。

龐統は「汝南の樊子昭に似て、良い名声がある。当代の俊才としても十分だ」

と評価した。

陳寿は、全琮の事を「時代を背負う才能があった」と称えたが、

一方で「子の悪事を野放しにし、世間から謗られ名誉を失った」とも評した。

晩年の全琮は、二宮事件において孫覇側に加担したため、

裴松之には同じく『通語』において孫覇派の一員として挙げられた呂岱と共に、

「論ずる必要もない悪人」とまで蔑まれている(裴松之の注)。wikiより 

 

二宮事件で孫権の後継者争いがあり、陸遜の忠告を無視したために不仲となる

 

最後は普通に寿命で亡くなったらしいです。(詳しくはわかりませんが)

wikiではいきなり亡くなっている。

全琮の没年は、赤烏10年(247年)春正月・赤烏12年(249年)春正月・赤烏12年(249年)冬とその記述が揺れている。

 

『三国志演義』

石亭の戦いでは朱桓と共に陸遜軍の左右都督となり、夜襲で魏軍の後方陣地を撃ち破り、薛喬を撃退させ、曹休軍に大勝した。諸葛亮が死ぬと、孫権は魏の動きを牽制するために、全琮を派遣して呉蜀国境の巴丘に駐屯した。wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 全琮

【混乱・収拾・水計・速攻・遠矢・水神】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

 強化騎兵 【無】 

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2 

強化騎兵 【有】 

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2 

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 全琮武力【武】85 知力【知】76 魅力【魅】78 政治【政】62

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。  

 

経験値32950・勇名0

三国志5 武将 田続

田続(でんぞく)

三国志5 武将 田続wikiでは、田 続(でん しょく、生没年不詳)とある。

【でんしょく】でも【でんぞく】でもどちらでも良いが

【でんしょく】の方が何となく有るよな、多分こっちの呼び方の方が主流だろう。

従祖父は田疇で魏に仕えた。

 

鄧艾親子を斬った理由

263年の蜀漢討伐では、鍾会に従って護軍を務めた。蜀漢の姜維は剣閣で抵抗したが、鄧艾の軍勢によって諸葛瞻が敗死した知らせを受けると撤退した。

これを田続・龐会が追ったとある(陳寿『三国志』「鍾会伝」)。

習鑿歯『漢晋春秋』によると、鄧艾の指揮下に入り共に間道迂回軍に参加し、江油城攻めで功を挙げた。

ところがその後、鄧艾が兵士を休ませることなく山越えして侵攻を続けようとしたため、鄧艾に休息を進言した。

しかしこれが鄧艾の怒りに触れ、斬首されそうになっている。

このときは周囲の取り成しで助けられたが、田続はこのことが基で鄧艾を恨むようになったという。

蜀滅亡後、鍾会による反乱騒ぎの中で、かつて鍾会の命令で鄧艾を捕縛し、

鄧艾に復讐されることを恐れていた衛瓘から、

同じく鄧艾に恨みを持っているということで暗殺命令を受けた。

田続はこれを受けて、綿竹西部で鄧艾を殺している(『漢晋春秋』)。

ただし、陳寿の記述に従えば、江油城攻めの時点では鍾会麾下にいたことになるため、どちらが正しいか不明である。wikiより

恨みを持っていたというよりも、当該に復讐されることを恐れていた衛瓘から、同じく鄧艾に恨みを持っているということで暗殺命令を受けた。とあるように

恐怖心もあっただろう、こういう死に方というのは有名な張飛にも言える事だろう。

頭に血が上ってキレるタイプの武将は、後々その行いが自分に跳ね返ってくる感じですね

www.opio8.com

覚える特殊能力

三国志5 武将 田続

【火計・混乱・同討・鼓舞・伏兵・火矢】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。 

関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。 

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 田続武力【武】62 知力【知】50 魅力【魅】40 政治【政】29

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

 経験値14750・勇名0

三国志5 武将 鄧忠

鄧忠(とうちゅう)

三国志5 武将 鄧忠

鄧忠【? – 264年】父は鄧艾。子は鄧朗。

256年、前年に起こった段谷の戦いでの鄧艾の功績によって、亭侯に封じられた。263年、鄧艾と共に蜀漢討伐に赴き、綿竹で諸葛瞻と戦った。

緒戦では敗退したため、怒った鄧艾から斬られそうになったが、助命されて再度戦い、今度は勝利して汚名を返上した。

戦後、その功績により封邑を千戸に加増された。

しかし、鍾会の陰謀で鄧艾と共に捕らえられ、最後は田続によって父子揃って殺された。

273年、段灼の嘆願により、司馬炎によって鄧艾父子の名誉は回復され、

鄧朗は郎中に取り立てられた。

小説『三国志演義』では白面の美丈夫で、鄧艾に劣らぬ武略の持ち主として登場する。若くから鄧艾に従い、蜀との戦いで大いに活躍する姿が描かれている。wikiより

 敵となる鍾会、胡烈・師纂ら、そして田続

だが、功績があるので司馬炎に救われたようなものですね

 

このような危機に招いたのは晩年70歳ぐらいの鄧艾が出過ぎたのかも知れない。

司馬昭は衛瓘に命じ鄧艾を戒め、自分の考えだけで勝手な行動を起こさないよう注意した時点で、危機を招いていた。

 

多分謀反を起こすつもりは無かったと思うが、司馬氏自体も曹氏から実権を奪ったばかりなので、謀反を気にするのは当然だろう。

この関係だと司馬氏から鄧氏が蜀で国を挙げて劉禅を祭り上げて、大国で反乱を起こしかねないと思うのは当然である。

www.opio8.com

覚える特殊能力

三国志5 武将 鄧忠

三国志5 武将 鄧忠

【火計・混乱・鼓舞・火矢・奮迅・応射】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。 

連弩  【無】 

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

 連弩  【有】 

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2  

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 鄧忠

三国志5 武将 鄧忠武力【武】77 知力【知】51 魅力【魅】57 政治【政】40

 

 ※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値31614・勇名4111