三国志5 武将 毌丘倹

毌丘倹(かんきゅうけん)

三国志5 武将 毌丘倹

wikiをみるに若い時に曹操に仕え、曹丕(文帝)の時代に活躍した。蘇則や郝昭と共に雍州・涼州の平定に功績がある。郝昭と共に戦っていたんですね、郝昭って強いと言うか、普通に三国の主君と並べるぐらいのパラメーターだったと思い出す。

その後曹丕の長男である曹叡(そう えい)即位前から仕え、厚遇された。

高句麗遠征

公孫淵は三国一強盛にして自領と隣接する魏に臣従を装いながら、一方では呉と同盟工作を行うなど、密かに独立を謀っていた。

237年、高句麗や烏桓に援軍を求め

公孫淵征伐し遼隧の戦いで公孫氏の勢力は消滅。

 

242年以降には再び魏と険悪な関係になった。このため毌丘倹は高句麗への攻勢を強め、244年には更に東へと進んで高句麗の軍勢を大破し、都の丸都を蹂躙した。

(東川王(憂位居)に逃られてしまったため、高句麗を滅ぼすことはできなかった。)

 

毌丘倹は孫権の死に乗じて呉征伐し呉の諸葛恪に敗れたため失敗した。

253年、諸葛恪が大軍を率いて魏に侵攻し合肥新城の戦いで毌丘倹は文欽や司馬孚、張特と共にこれを防ぐ。

 

毌丘倹と文欽の反乱

254年、司馬師が夏侯玄や李豊等のクーデターを鎮圧し、曹芳(斉王)を廃位す。

魏帝に曹芳から曹髦を帝にして、曹芳以来、魏は司馬師・司馬昭が専権するところとなっており、司馬氏VS曹魏に忠節を尽くす武将との争い。

これに負け文欽・文鴦らは数万の軍勢と共に呉へ亡命。

毌丘倹自身は逃走中に張属なる者に討たれる。

 

【夏侯玄や李豊等】と毌丘倹の関係

夏侯玄は毌丘倹・諸葛誕は、ともに夏侯玄の友人であった(「毌丘倹伝」・「諸葛誕伝」)。

249年、司馬懿のクーデター(正始政変)により曹爽が処刑されると、夏侯玄も中央に召し返されて大鴻臚となり、数年後には太常に転任した。この時、従父の夏侯覇から共に蜀漢へ亡命するよう誘われたが、断ったともいう(『魏氏春秋』)。

その後、夏侯玄は曹爽との関係を理由に抑圧され、不遇の日々を囲った。

李豊は司馬師を誅殺し、夏侯玄に大将軍として政権を握らせようと計画。

しかし、司馬師にバレて夏侯玄らは捕らえられた。

夏侯玄は李豊らとともに大逆罪に問われ、刑法により腰斬に処され、また三族皆殺しとなった。46歳であった。

小説『三国志演義』にも登場する。李豊らとともに司馬師の誅殺を企てるが発覚し、司馬師を罵倒しながら処刑されている。

 

 

陳寿は、毌丘倹のことを「ずばぬけた才能と識見を有していた」と評している。

1906年、輯安北方で「毌丘倹紀功碑」が発見、2005年3月5日にも毌丘倹とその一族を祀った碑が発見、『平陽府志』によると、毌丘元顯が399年頃に毌丘寺で修行をしており、碑はこの前後に建立された思われる。

覚える特殊能力

三国志5 武将 毌丘倹

三国志5 武将 毌丘倹

【混乱・落石・伏兵・激励・速攻・陣立】

 

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。

一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。 

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。

新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2

 新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・ 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 毌丘倹

三国志5 武将 毌丘倹

武力【武】76 知力【知】79 魅力【魅】62 政治【政】47

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

修行だけではなかなか特殊能力を全部覚えなかったので

戦闘に出しました。勇名2670(戦闘で稼ぎやすい)経験値が42155ほどで特殊能力を覚えたので時間がかかります。