全琮(ぜんそう)
全琮(198年?- 249年?)
性格は温厚恭順。
『正史』
若き日の頃、親父に託された呉軍の為の兵糧を民に与えるなど、ぶっとんだ豪快ぶり
親父の命令に背くほどの有能さで、このころから頭角を現す。
この時、全琮は父の命令で桂陽から呉郡に米を運んで売却する任務を負ったが、全琮はその米を民に数千石程施した。
父は怒ったが、全琮が士人が苦しむのを見かねたためだと謝ったのを見て、
かえって子の非凡さを認識した。
戦乱を避けて中原の戦乱から逃れた数百豪族に、全琮は家財を傾けて援助した事から、
全琮の名は遠方にも鳴り響いたという。
その後、孫権に仕えて奮威校尉に任命され、1000人の兵士を率いて山越討伐に従事し、
募兵して兵士1万を得た。牛渚に駐屯する事になり、官位はやがて偏将軍まで昇進した。
建安15年(210年)、顧邵や陸績と一時呉郡に滞在していた龐統と交際し、
その知己を得ている。wikiより
最後の方に龐統と交流がある。
龐統では赤壁の影の功労者なので先見の明がある。(偶然かも知れないが)
陸遜とも結構対等ななかだったようだ。
wikiにはこうある。
全琮は陸遜ら揚州の貴族の子弟とともに呂範の威儀に置かれるような立場であったという
wikiでは色々功績がある。
龐統は「汝南の樊子昭に似て、良い名声がある。当代の俊才としても十分だ」
と評価した。
陳寿は、全琮の事を「時代を背負う才能があった」と称えたが、
一方で「子の悪事を野放しにし、世間から謗られ名誉を失った」とも評した。
晩年の全琮は、二宮事件において孫覇側に加担したため、
裴松之には同じく『通語』において孫覇派の一員として挙げられた呂岱と共に、
「論ずる必要もない悪人」とまで蔑まれている(裴松之の注)。wikiより
二宮事件で孫権の後継者争いがあり、陸遜の忠告を無視したために不仲となる
最後は普通に寿命で亡くなったらしいです。(詳しくはわかりませんが)
wikiではいきなり亡くなっている。
全琮の没年は、赤烏10年(247年)春正月・赤烏12年(249年)春正月・赤烏12年(249年)冬とその記述が揺れている。
『三国志演義』
石亭の戦いでは朱桓と共に陸遜軍の左右都督となり、夜襲で魏軍の後方陣地を撃ち破り、薛喬を撃退させ、曹休軍に大勝した。諸葛亮が死ぬと、孫権は魏の動きを牽制するために、全琮を派遣して呉蜀国境の巴丘に駐屯した。wikiより
覚える特殊能力
【混乱・収拾・水計・速攻・遠矢・水神】
陣形
【錐行の陣】
平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。
強化騎兵 【無】
攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
強化騎兵 【有】
攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
【鋒矢の陣】(ほうし)
山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。
新兵器『戦車』を開発・【無】
攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2
新兵器『戦車』を開発・【有】
攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2
【水陣】(すいじん)
水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。
新兵器『楼船』を開発・【無】
攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2
新兵器『楼船』を開発・【有】
攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】85 知力【知】76 魅力【魅】78 政治【政】62
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値32950・勇名0