鍾会(しょうかい)
鍾 会(しょう かい、225年 – 264年3月3日)
父は鍾繇。母は張昌蒲。異母兄姉は鍾毓・鍾氏(荀勗の母)
蜀漢を平定した功労者となるも、蜀漢の滅亡後に謀反を起こして殺害された。『三国志』魏書に伝があり、『世説新語』にも度々登場する。wikiより
姜維に野心をくすぐられ、蜀で反乱を起こしたとある。
姜維と鍾会でタッグ組んでクーデターを起こしたのに失敗します。
子供の頃
子供の頃から頭が良かったそうです。母親(張昌蒲)が教育熱心でガリ勉ってやつです
鍾会の母親は鍾会を15歳で太学に入学させる。
太学とは、漢の時代に「太学」は首都に所在する高等教育機関の正式名称となった。前漢の武帝が董仲舒の献策によって設置したのがはじめとされている。「太学」は儒教を正統学問とした。wikiより
蔣済は、5歳の時の鍾会を「並外れた人間」と高く評価している。
青年期
20歳で朝廷に出仕した。父(鍾繇)が曹操・曹丕時代の元老であった事もあり重用される。正始年間(西暦240〜249年)、曹芳時代に秘書郎に任ぜられ尚書中書侍郎に昇進し、曹髦時代になると関内侯の爵位が与えられている。司馬師・司馬昭に重用され、毌丘倹・文欽・諸葛誕の乱の鎮圧に参謀として参加した。諸葛誕の乱時は、参謀として軍事を取り仕切り、諸葛誕の救援に来ていた呉の全懌らを策略で魏に帰順させ、勝利に貢献した。鍾会は人物眼にも優れており、司馬昭に王戎など才覚ある名臣を多く紹介しているが、讒言で人を追い落とす事も多かった。嵆康らが処刑されたのも、鍾会の計略によるものである。鍾会は功績を誇る節があり、「野心がその器量より大きい。慎み深くしないといけない」と友人の傅嘏に窘められた。司馬昭の夫人王元姫は、夫に常々「鍾士季は利に目を向けて義を忘れ、何でも自分でやりたがる人です。恩寵が過ぎれば、必ずや見境をなくします。大任を与えてはなりません」と言っていたという。また、辛憲英は鍾会の野心を見抜いていたとされ、甥の羊祜に「鍾会は勝手に物事を判断するので、いつまでも人に仕えているような人ではないでしょう」と言い、羊祜を慌てさせたという。wikiより
ざっくり言うと、有能で色々な乱の参謀になったが、野心はあり、危険視されていた鍾会。
蜀漢攻略・鍾会の乱
263年、司馬昭の命で鄧艾らと共に蜀征伐に出陣した。
鍾会は胡烈らを先鋒とし関城(陽安関)を降した。鍾会は田章らに剣閣の西を通り江油へ出る道を取らせ、田章は江油の手前で蜀軍の伏兵三部隊を撃破した。その後、田章は鄧艾の指揮下に入り、先鋒に命じられた。鄧艾が綿竹で諸葛瞻らを討ち取ると、劉禅は鄧艾に降伏した。劉禅が降伏した後、鍾会は魏兵らに略奪を許さず、蜀の官僚達と友好的に接し、姜維と親交を深めた。鍾会は蜀漢征伐の功績により司徒に任じられ、爵位も県侯に昇進し、一万戸を加増された。一方でこの蜀漢征伐時に、桟道が崩れた事を理由に許儀を処刑し、さらに諸葛緒が怯んで前進しないと密告し、諸葛緒の兵権を取り上げ配下の兵を自分のものにしている。また諸葛亮の墓の祭祀を行なわせている。
『三国志』魏書鍾会伝の注に引く『世語』および『漢晋春秋』によれば、蜀漢に亡命していた夏侯覇は鍾会の才能を高く評価しており、「鍾会は蜀漢・呉にとって心配な事態を招くかもしれません」と語ったという。鄧艾が独断専横し勝手な処置をしたので、
鍾会は胡烈・師纂らとともに鄧艾を告発した。その結果、鄧艾は兵権を剥奪され逮捕さた。これによって自立の野心を抱いていた鍾会は、大軍勢を1人で統率するようになったので、姜維と手を結んで魏に反逆しようとした。鍾会はあわ良くば司馬昭に取って代わり、失敗しても(蜀漢を築いた)劉備くらいにはなれると計算した。
264年正月15日、成都で護軍・郡太守・牙門将・騎督以上の者を宴に招待し、監禁した。
しかし、胡烈の計略により、胡烈の子の胡淵ら将兵が反逆したため、鍾会は殺された。この時40歳であった。同行していた兄の子も斬られた。なお、鍾会は遠征に息子ではなく甥たちを同行させている。というのも、彼は蜀漢討伐の少し前の時点に独り身であったという記述があり、実の子に関する具体的な記述がないことから、生涯独身だったとする意見がある。
蜀漢討伐前に、邵悌は司馬昭に対し「鍾会に10数万の軍を与えるのは危険です」と言った。司馬昭は「蜀漢討伐に勝機を見出している人は少ないが、鍾会は蜀漢討伐に勝機を見出している。だから鍾会に蜀漢討伐をさせるのだ。それに、もし鍾会が裏切ったとしても鍾会は上手くできないだろう。敗軍(蜀漢軍)の将兵は意気消沈し、遠征軍(魏軍)の将兵は魏に帰りたいから同調しないだろう」と答えた。鍾会の遺体は向雄に引き取られ、埋葬された。wikiより
司馬氏のクーデターで曹氏4代が潰えて、蜀に亡命ルートが盛んになっている風潮もあったのだろう、例えば夏侯覇とか、そりゃ鍾会も姜維とつるんでクーデター起こすわな
でが、胡烈と子の胡淵ら将兵の反逆で鍾会は斬られる。
人物・評価
鍾会は王弼と仲が良く、王弼の論の高邁さに感服していた。鍾会は何晏とも交流があり、何晏の「聖人には喜怒哀楽の情が無い」という論を祖述した。ちなみに王弼は何晏の論を批判している。『三国志』魏書三小帝紀の注に引く『晋書公賛』によれば、曹髦はいつも司馬望・王沈・裴秀・鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いていたとある。
陳寿は鍾会を「熟練した策略家であったが、大きな野心を抱き、災禍をよく考えずに反逆した結果、一族とともに殺害された」と評している。
『三国志演義』の毛宗崗の批評では、鍾会の反逆計画について「秘密が守られずしかも迅速でなかった。その死は当然である。しかし事がうまくいっていればいたで、諸将を殺した後に姜維に殺されていただろうから、どちらにせよ鍾会は死ぬことになっただろう」と評している。wikiより
覚える特殊能力
【収拾・鼓舞・伏兵・強行・沈着・反計】
陣形
【錐行の陣】
平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。
強化騎兵 【無】
攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
強化騎兵 【有】
攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
【箕形の陣】(きけいのじん)
平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2
【雁行の陣】(がんこうのじん)
平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。
関連兵器なし
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】63 知力【知】96 魅力【魅】81 政治【政】83
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値50121・勇名4098