三国志5 武将 卑衍

卑衍(ひえん)

三国志5 武将 卑衍

卑衍

wikiでは(ひ えん、生没年不明)ニコニコ百科事典では(? ~ 238)

公孫淵配下の武将で、進軍してきた司馬懿と戦うが、夏侯覇に討ち取られた。とwikiにある。

この内容は小説である『三国志演義』での話です。

 

『正史』

公孫淵が燕王を自称し、魏に対する。(遼隧の戦い:238年)

司馬懿が公孫淵討伐に派遣、

迎え撃つは、卑衍は楊祚と歩兵数万(公孫淵軍)二十里の塹壕を作るも

胡遵(魏軍)に敗れる。

司馬懿が襄平を狙う、襄平が無防備であり卑衍は夜に撤退する。

再度、司馬懿と戦うも敗れる。

 

基本的には『正史』も小説である『三国志演義』も内容は同じです。

 

遼隧の戦い:238年

【魏軍4万】 対 【燕(公孫淵)一説に10万】

燕(公孫淵)軍は兵は多いが、後漢末の混乱により、武力支配した寄せ集めの軍団なので有力豪族の中には魏軍に寝返るものも多かった。(寧ろ歓迎していた部分もある。)

238年、曹叡は司馬懿に4万余の兵を与え、公孫淵征伐を命じた。

公孫淵も卑衍・楊祚らに数万の軍を与えて遼隧に派遣した。司馬懿が遼東に到着すると、卑衍が司馬懿を攻撃したが、司馬懿は胡遵らを派遣して卑衍を破った。

塹壕の規模

(『三国志』には二十里、『晋書』には六・七十里ほどと記されている)

遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固と見た司馬懿は、東南に退却したとみせかけて、国都の襄平に侵攻する。

公孫淵は遼隧の軍を撤退させ、都の守備に当たらせたが、防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲された。

長雨の時期にさしかかり兵糧が底を突いたため、公孫淵は人質を出して和睦しようと画策するが、司馬懿はこれを許さず公孫淵を捕え、処刑した。

公孫淵の子公孫脩をはじめとする一族も討たれ、遼東公孫氏は滅亡した。wikiより 

倭国が魏に使節を派遣

遼東公孫氏が滅亡した238年、倭国が魏に使節を派遣している。公孫氏の支配が遼東から消滅したことで、日本は中国大陸の文化に触れることが可能になった。wikiより

 

疑問に思う点がいくら司馬懿でも機動力と言うか、上手く行き過ぎてないかい?

って部分がある、wikiにある文字が青い部分の内容にツッコミを入れるのであれば

あんな一部隊で何とかなるか?って思うんだよね、別働隊いなきゃ包囲とかいう場面になるか?ここで調べると色々出て来ました。

 

遼隧の戦いでは、司馬懿一人の功績ではなかったようだ。

まず、司馬懿率いる明帝からの討伐軍、 それと毌丘倹が率いる幽州兵と烏丸兵、

別働隊の水軍で攻めたそうだ。(水軍の参戦は司馬懿とは無関係に明帝が指示)三国志5 武将 卑衍
公孫淵の大軍はどこにいたのか?

大半の兵を遼東に集めて魏軍本陣の進軍に備えた。

 

対水軍の余力がなかった。

水軍により楽浪・帯方の二郡は平定される。

(上陸をあっさり平定)

理由:先程も書きましたが

燕(公孫淵)軍は兵は多いが、後漢末の混乱により、武力支配した寄せ集めの軍団なので有力豪族の中には魏軍に寝返るものも多かった。(寧ろ歓迎していた部分もある。) 

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覚える特殊能力

三国志5 武将 卑衍

【混乱・同討・鼓舞・奮迅・速攻・強行】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。 

強化騎兵 【無】 

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2 

強化騎兵 【有】 

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。 

関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 卑衍

武力【武】69 知力【知】54 魅力【魅】61 政治【政】46

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値47912・勇名2088

三国志5 武将 高定

高定(こうてい)

三国志5 武将 高定高定(こうてい、? – 225年)

益州南部の越巂郡の出身。タイ系叟族の王である(「後主伝」)

 

223年、建寧郡の有力者である雍闓が呉と通じ、太守を殺害したり捕縛するなど反乱を起こした。

同年夏には牂牁郡太守(又は郡丞)の朱褒も雍闓に呼応した。

このような状況下、高定も再び越巂郡で反乱を起こし、太守である焦璜を殺害したという(『華陽国志』)。

呉より永昌太守に任じられた雍闓と共に、蜀漢の永昌郡に侵攻したが、呂凱らが人心を統率し郡境を閉ざしたため、落すことができなかった(「呂凱伝」)。

225年春3月、諸葛亮が南征の軍を起こすと、雍闓との間に確執が生じ、高定の部下が雍闓を殺害した(「呂凱伝」)。

高定は諸葛亮・李恢が率いる討伐軍と戦うも再び敗北、捕らえられて晒し首に処された(『華陽国志』)。

 

 

小説『三国志演義』では

劉備死後の蜀に不満を持ち、南蛮王孟獲に扇動された他の益州二郡の太守と同調し反乱を起こす。

しかし、部下の鄂煥が諸葛亮の捕虜となり、また諸葛亮の「離間の策」によって雍闓と朱褒の仲が裂かれ、さらに雍闓が鄂煥に討たれてしまう。

このため高定は諸葛亮へ帰順することに決める。

しかし諸葛亮から疑われ、朱褒の首級を取ってくるよう命じられることになる。

高定は命令に従って朱褒を攻め滅ぼしたため、その功績から益州南部三郡を任せられる設定となっている。wikiより 

南蛮系だろうと思います。何より特殊能力に藤甲を覚えている。 

劉備の死後反乱を起こし諸葛亮により鎮圧されている。 

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覚える特殊能力

三国志5 武将 高定

【鼓舞・伏兵・激励・速攻・藤甲・強行】

陣形

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】の場合。

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】の場合。

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 高定

武力【武】66 知力【知】36 魅力【魅】41 政治【政】29

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値48214・勇名1425

三国志5 武将 霍弋

霍弋(かくよく)

三国志5 武将 霍弋

霍弋(かく よく、生没年不詳)

蜀漢・西晋に仕えた。(主君 劉備→劉禅→曹奐→司馬炎)

劉備に仕え、諸葛亮にその才能を認められ、若い頃は諸葛亮の養子であった諸葛喬と共に、見聞を広めるため旅をした。

 

263年、魏が蜀征伐のため大規模な軍を起こすと、霍弋は成都に駆けつけようとした。しかし、劉禅は備えは十分だとして許可しなかった。

その後、蜀漢が滅亡したことを知ると、霍弋は喪服を着て哭礼を行ない、三日間の喪に服した。

諸将は皆、早く魏に帰順すべきだと述べたが、霍弋は劉禅の安否が分かるまで決して動こうとはしなかった。

劉禅の降伏が容れられ東に移ったと聞くと、南中六郡の太守・大将を率いて魏に降伏した。

降伏後は、司馬昭にもその能力を認められ信任を受けた。

羅憲と共に呉との国境を守り、南中都督・護軍に任じられ南蛮の平定に尽力した。このころ、霍弋は強卒を率いて夜郎を鎮めた。

 

264年、霍弋は自ら寧州に入り、楊稷らを遣わして交州・広州を奪う計略を巡らせた。楊稷に毛炅・董元・孟幹・孟通らを付けて水陸二路から進軍させた。

彼らは古城において呉軍を破り、大都督修則・交州刺史劉俊の首を斬った。

そこで呉は虞汜を監軍、薛珝を威南将軍・大都督、陶璜を蒼梧太守に任じ、楊稷を防がせ、分水で戦わせた。

陶璜は敗走して合浦に籠り、配下の将軍二人を失った。

こうして交州(交阯・九真・日南の三郡)は平定され、霍弋は列侯に封じられた。

霍弋の死後の271年、呉は交州奪回に陶璜らを派遣し楊稷・毛炅らは城を包囲された。霍弋は生前「賊軍に包囲されて百日未満で降伏した者は家族を処刑する。

百日以上して援軍が到着しなかったならば私が罪を引き受けよう」と言い含めていた。楊稷らは期日になって食糧が底を尽きる、援軍も到着しなかったので呉に降伏した。

霍弋の死はそれ以前ということになる。

 

小説『三国志演義』では、蜀の滅亡に際して登場し、史実同様亡国の喪に服したあと劉禅の安否を確認してからに魏に降伏している。wikiより

世渡り上手なのか?ってぐらいのトレンド(主君)に乗ってますね

三国志5(ゲームの話)でも、もう少しパラメーターでかくてもいいのかなと思います。

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覚える特殊能力

三国志5 武将 霍弋

【火計・混乱・鼓舞・伏兵・奮迅・遠矢】

陣形

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】の場合。

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】の場合。

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2 

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。 

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 霍弋

武力【武】70 知力【知】63 魅力【魅】65 政治【政】47

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値34760・勇名3034

三国志5 武将 陳横

陳横(ちんおう)

三国志5 武将 陳横陳横(ちん おう)小説『三国志演義』に登場する架空の武将。

劉繇の部将として登場する。

劉繇が孫策に敗れて劉表を頼ると、陳横は、薛礼・張英と共に

秣陵(後の呉の都、建業)に立て篭もり、抵抗を続ける。

しかし、孫策の計略で城外に誘き出され、伏兵の攻撃に遭い、孫策の部将蔣欽に弓矢で射殺された。

wikiより

顔グラが文官ですが、パラメーター的には

武力【武】64 知力【知】48 魅力【魅】52 政治【政】31

なので、武将系なのだろう、孫策相手に劉表をバックボーンに頑張ったのだろう

だが、(父)孫堅に次ぐ強さの孫策に破れたのだろう、武闘派で言うと呂布といい勝負するのだが、武力【武】で言うと孫堅は相当高いし、息子の孫堅も100超えしてたよな、アイテムとか合わせうとね、倚天の剣とか持っていた覚えがあります。

孫子の兵法を書いた人の末裔がこの三国志に存在する孫氏なのだが

昔、孫子兵法大伝だと思いますがDVD借りて1話か2話で断念しました。

田氏が何とかってところで断念しました。理由はさておき、孫呉ってのはどのへんから生まれたのか?とかなど色々あるが、この歴史深い孫呉の末裔である、孫策に戦いを挑んだ陳横はただの噛ませ犬だったのか?とか思うが、架空の武将だから何とも言えないが、劉表は孫堅を倒してるからね

(峴山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い)。享年37。wiki)

初平2年(191年)、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせたが原因なのだが

『三国志演義』では、劉表に帰還を妨害された孫堅矢で討たれてた(その後落石)。

劉表と孫氏は骨肉の争いですね、その後、ざっくり言うと劉表は寿命でなくなり、荊州ゲットして赤壁やって龐統が入蜀を命と引き換えに手助けし、関羽が荊州を守り、孫権配下の呂蒙に取られ関羽もやられる。そっから蜀はキツくなります。 

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覚える特殊能力

三国志5 武将 陳横

【火計・同討・鼓舞・伏兵・奮迅・乱射】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。 

関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。 

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 陳横

武力【武】64 知力【知】48 魅力【魅】52 政治【政】31

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値28800・勇名960

三国志5 武将 馮習

馮習(ふうしゅう)

三国志5 武将 馮習

馮 習(ふう しゅう、? – 222年)

劉備と益州へ侵攻する。

221年の夷陵の戦いでは、劉備から領軍将軍に任命され諸軍を指揮した。

馮習は呉班とともに、呉の李異・劉阿らを打ち破ったが、翌年に陸遜の反撃を受けて軍が大敗し、自身も乱戦の中で潘璋の部下に斬られた。

『三国志蜀書楊戯伝』や『季漢輔臣賛』では、

「蜀軍があのような惨めな大敗を喫したのは、馮習が呉軍を侮っていたためである」とある。wikiより

『 三国志演義 』では

夷陵の戦いの敗因は晩年の劉備の乱心ぶりから、皇帝になり己を朕と呼び初めたぐらいから、関羽と張飛の仇討ちを決行した。

これはしょうがないのかも知れないですね、北伐が本懐とは分かっていても

兄弟の仇討ちをしたいと強く思う。

年齢も長くなく今戦わなければならないと劉備は思ったのかも知れないですね

だが、夷陵の戦いの敗因は馮習にあると話しには無理がないか?

関羽復讐戦の副将が呉軍を侮っていたためとあるが、三国志演義では、戦にとって禁じ手である、林(草木が生い茂る場所)に陣をおいたのは劉備本人だよな

三国志5 武将 馮習

三国志 Three Kingdoms 第81話 夷陵の戦いより

孔明が『誰が、こんな布陣を進言した?』って言ってますね

その後『こいつは奸賊だぞ』って言ってますが、馬良が『陛下(劉備)のご判断です。』つまり劉備が自身の判断で草木が生い茂る場所に陣を置いたことになります。

 

この後『正史』でも

夜半に水上を急行して総攻撃を開始。一斉に火計を仕掛け40以上の陣営を陥落させる。

 

因みに『季漢輔臣賛』(きかんほしんさん)は、241年(延熙4年)は

蜀漢(蜀)の楊戯により著された、蜀漢を支えた人物を讃える書物。

楊 戯(ようぎ、 ? – 261年)字は文然。の方です。

楊 儀(ようぎ、? – 235年)字は威公。の方は違います。(初め私も間違えましたw)

三国志5 武将 馮習

三国志 Three Kingdoms 第92話 木牛流馬で登場しました。

この『季漢輔臣賛』には

馮習が「敵を軽んじたため、国家に損失を与え」「災難は一人から生まれ、広大な影響を与えた」と評されている。wikiより

この夷陵の戦いで黄権も参加していたが

黄権はこれ以上侵攻すると撤退が困難であることを指摘を進言するが、劉備の判断で結果大敗する、その後、馮習や王甫・張南・傅彤・程畿・馬良ら有能な武官、文官が戦死退路を失った黄権も魏に投降した。

これは、龐統が浮かばれないとも思うが、黄権を登用し入蜀した時点で龐統は満足だったのかも知れないです。

覚える特殊能力

三国志5 武将 馮習

【混乱・鼓舞・伏兵・火矢・奮迅・無双】

陣形

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2 

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。

 新兵器『戦車』を開発・【無】の場合。

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】の場合。

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】の場合。

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】の場合。

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 馮習

武力【武】70 知力【知】40 魅力【魅】61 政治【政】21

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値24335・勇名2922

三国志5 武将 司馬昭

司馬昭(しばしょう)

三国志5 武将 司馬昭

司馬 昭(しば しょう)(211年〜265年)司馬懿の次男。兄の司馬師。

晋の武帝司馬炎の父。

 

正始10年(249年)に父の司馬懿、兄の司馬師とともにクーデターを起こす。

これにより曹爽らは一族皆殺しの刑に処された。

 

毌丘倹と文欽の乱鎮圧後、兄が男子を儲けないまま亡くなったため、家督を継承した。

大将軍・録尚書事になり、翌正元3年(256年)には高都公・大都督になる。

 

甘露2年(257年)、寿春で諸葛誕の乱を皇帝曹髦と皇太后を奉じて東征し、鍾会ら26万の大軍を率いて諸葛誕討伐し鎮圧。

 

甘露5年(260年)、皇帝曹髦が司馬氏打倒のため挙兵するも曹髦は賈充配下の成済に刺殺、皇帝を弑逆した成済は一族皆殺しに処したが、成済に指示を与えた賈充は腹心であったために罰しなかった。新たな皇帝には曹奐(元帝)が即位した。

 

景元4年(263年)、蜀漢討伐の軍を興し、その陣頭指揮を執る。鄧艾・鍾会・諸葛緒に三方面から蜀を攻めさせ、間もなく滅ぼした(蜀漢の滅亡)

 

翌景元5年(264年)に晋王の爵位を授かる。

咸熙2年(265年)、中風のために54歳で逝去。

 

兄の司馬師の養子になっていた三男の司馬攸に晋王を譲ろうとしたが、周囲の反対もあり、長男の司馬炎が跡を継ぐことになる。

wikiより

You Tubeで真三國無双のムービーを見る方がわかりやすいと思います。

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覚える特殊能力

三国志5 武将 司馬昭

【火計・同討・激励・速攻・強行・沈着】

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。 

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】の場合。

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】の場合。

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 司馬昭

武力【武】65 知力【知】88 魅力【魅】75 政治【政】90

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値24502・勇名2302

三国志5 武将 費禕

費禕(ひい)

三国志5 武将 費禕

費 禕(ひ い、? – 253年)

蔣琬・董允などとともに蜀の政治を支えた人物。

諸葛亮・蔣琬・董允と共に蜀の四相と称される。

 

父母を早くに亡くし、一族で一世代上に当たる費伯仁に身を寄せた。

伯仁の姑が当時益州の牧(地方長官)であった劉璋の母であった。

この縁で費伯仁が、当時の混乱の時代において比較的安定していた益州に呼ばれたため、費禕も義父の計らいで益州へ遊学した。

214年、劉備が益州を支配すると、益州に留まりその家臣となった。

董允・許叔龍と共にその盛名を謳われたという。

政治手腕に優れていたため、友人の董允と共に劉備の嫡子劉禅の補佐を任されてた。

 

劉璋の外戚と謂う身分から諸葛亮にも厚く信頼され、諸葛亮の命を受けて呉との交渉に向かった時には、孫権の傍らにいた諸葛恪・羊衜から舌鋒鋭く論争を挑まれたが、辞儀を乱さず理に従いつつ答えてついに屈せず、孫権から「君は幾許もしない間に必ず蜀の中心人物になる」と言われ、その性格と才能を高く評価された。

 

北伐に際して、諸葛亮に請われ参軍となった。230年に中護軍となり、後に司馬となった。その頃、幕営では常に魏延と楊儀がいがみ合い、時に魏延が刃をちらつかせて脅し、楊儀が涙を流すという事態があった。

費禕はそのようなことがあると常に二人の席の間に入り、物の分別を二人に諭した。「力があっても、難しい性格の二人が使い物になったのは、費禕の取り成しがあってのことであった」と陳寿は綴っている。

一方で諸葛亮の死後、魏延と楊儀が相次いで失脚した際、費禕は両方の事件に関与した。

 

その後は蔣琬と共に蜀漢を支えた。

北伐の再開を計画する蔣琬に反対した。

蔣琬の病が重くなる。

 

244年に魏が蜀侵攻を企てた際は、費禕が総指揮を執り、王平と協力して魏軍を破っている

蔣琬の没後、248年より費禕が漢中に駐屯し、軍事・国政の全てを担った。

また姜維は、これより前の243年に蔣琬から涼州刺史に任命され、247年には衛将軍・録尚書事となり、費禕に次ぐ存在となっていた。

姜維が大軍を動かして北伐を再開することを希望していたが、費禕は「丞相(諸葛亮)でさえ魏を破れなかったのに、我らでは到底無理だ」と制して多くの兵を与えず、まず内政の安定を計ることを第一とした。

 

251年、成都に一度帰還したが「都に宰相の位が見当たらぬ」という望気者の占断を受け、冬には漢寿に駐屯していた。

253年、漢寿での正月の宴席にて、強かに酔った処を魏の降将である郭循に刺殺され、敬侯と諡された。先の占断は費禕の死を予言する物であった。

死後、陳祗が国政を輔弼し姜維が軍事を主導すること事と成ったが、彼の後を継げる人物がおらず、また黄皓の台頭と連年の北伐により、蜀漢は衰退の一途を辿ることとなった。wikiより

 魏延と楊儀の関係が魏延が刃をちらつかせて脅し、楊儀が涙を流すという事態って

三国志演義では、諸葛亮の死後すぐに魏延は謀反の恐れありと馬袋に斬り殺されていたような、どちらにしろ真三國無双をやってる時から、格好がヤバかったもんです。

アーケードゲームの天地を喰らう2でなぜだか、五虎大将軍の馬超ではなく魏延なのか?という点が気になってしまう、これは漫画作者の考えがあるのだろう。 

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覚える特殊能力

三国志5 武将 費禕

【火計・混乱・収拾・落石・沈着・陣立】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。 

連弩  【無】 

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2 

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3 

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。 

関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2  

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。 

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2 

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

 関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2 

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】の場合。

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】の場合。

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。 

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 費禕

武力【武】55 知力【知】78 魅力【魅】81 政治【政】96

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値46217・勇名3214

三国志5 武将 楽綝

楽綝(がくちん)

三国志5 武将 楽綝

 楽 綝(がく ちん / がく りん、生年不詳 – 甘露二年5月5日(257年6月4日))

父は楽進。子は楽肇。

 

武勇に秀でた剛毅果断な人物で、父に劣らぬ人物として高く評価された。

255年、文欽らの反乱追討(毌丘倹・文欽の乱)に功績があり揚州刺史まで昇進したが、

257年6月4日、疑心暗鬼に陥った諸葛誕に司馬氏の与党と見做されたため、

その軍勢に攻められて戦死した(諸葛誕の乱)。

諸葛誕は楽綝の非を上奏したものの、その行為は反逆と見做され討伐されることになった。

 

小説『三国志演義』では名将の息子同士ということからか、張虎(張遼の子)と共にペアとされ、常に蜀漢との戦線で敗戦を重ねるという、やられ役の凡将として描かれている。しかし最期については、正史とほぼ同様の顛末である。wikiより 

楽進(父)と言うと漫画・蒼天航路 のイメージが強いです。

と言うか楽進が描かれている作品ってそんなにあるか?と思ってしまう。

この楽進(父)は小柄だが激しい胆気を持ち、曹操が董卓に反抗して挙兵すると、その下へ馳せ参じた。とwikiにもある。

漫画でも関羽の青龍偃月刀を真っ向から受け止めて、それに恐れず更に進んでいたよな

そんな親父である楽進の子が、楽綝(子)である。 

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覚える特殊能力

三国志5 武将 楽綝

三国志5 武将 楽綝

【火計・同討・鼓舞・消火・火矢・遠矢】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。 

連弩  【無】 

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2 

連弩  【有】 

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3 

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。 

関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。 

発石車  【無】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3 

発石車  【有】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 楽綝

三国志5 武将 楽綝

武力【武】60 知力【知】44 魅力【魅】37 政治【政】30

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値24102・勇名1282

三国志5 武将 越吉

越吉(えつきつ)

三国志5 武将 越吉

小説『三国志演義』に登場する架空の武将。

西羌の元帥で、鉄槌の使い手。

国王徹里吉の命により、雅丹らと共に羌兵と鉄車兵を混成した25万の兵を率い曹真の援軍として参加する。

鉄車と呼ばれる兵器で蜀軍を苦しめ、自身も関興を討ち死に寸前にまで追い詰める活躍をするが、関羽の亡霊に阻まれて討ち漏らしてしまう。

次戦で諸葛亮の計略にはまり鉄車兵は壊滅し、逃げようとする所を関興に斬り殺される。

wiki より

 羌(きょう)は、古代より中国西北部に住んでいる民族。

西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。

紀元前5世紀に戎族出身の無弋爰剣(むよくえんけん)という者が現れ、彼の一族に率いられた者たちが羌族を形成していくこととなる。

後漢末に黄巾の乱が起きると(184年)羌族は再び勢いを盛り返し、羌族の血を引く馬騰・馬超父子や彼らと結んだ韓遂といった漢民族の軍閥と組んで独自の勢力を築いた。三国時代(220年 – 280年)においては、魏と蜀の国境地帯において勢力を保ち、その趨勢に応じて魏や蜀に附いて戦った。

唐代から北宋代には、羌族の有力部族であるタングート(モンゴル化したテュルク民族とする説もあり)が強勢になり、やがて宋を圧迫して多額の歳幣を取る事に成功した。その後李元昊が西夏を建てて皇帝となる。北宋が金に滅ぼされると服属するが、チンギス・ハーンの勃興時に滅ぼされた。wikiより

 馬騰(父)・馬超(子)の西涼騎馬軍団は言うまでもなく強いが、これは董卓とかも西涼で羌族と20万の大軍を率いて国境線沿いを守り抜いていたそうだ。

政治的にも内通していたともある。

蒼天航路の話になるのだが、董卓は西涼軍に羌族を加えた精鋭騎馬軍団をも作っていたとある。張奐が言ってましたね

 

董卓は黄巾賊と宗教集団(太平道)に敗北したが、あれは一向一揆みたいなもんで、信長も宗教団体に手こずったもんな、あれ系死んでも襲いかかってくるから董卓も黄巾党に手こずったのかも知れない。

 

戦い方は3人一組になって捨て身の信者2名と、武芸に長ける1名がとどめを刺す。

って形になっていると漫画で書いてありましたね、3人組んで一人を倒すみたいな感じで三位一体となり襲いかかってくる。

漫画であるように天地人って言うやつですね(ましゃ兄じゃないよ)

蒼天航路今 YouTube で全部見れるみたいですね

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覚える特殊能力

三国志5 武将 越吉

【火計・鼓舞・伏兵・奮迅・無双・強行】

陣形

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2 

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2 

 新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 越吉

武力【武】80 知力【知】15 魅力【魅】33 政治【政】13

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値24030・勇名3449

三国志5 武将 劉禅

劉禅(りゅうぜん)

三国志5 武将 劉禅

生年 建安12年(207年)〜没年 泰始7年(271年)

建安12年(207年)、父の劉備が劉表に身を寄せ、荊州の新野にいた時に側室の甘氏との間に生まれた。

章武3年(223年)、父の劉備の崩御に伴い17歳で皇帝に即位

建興12年(234年)に諸葛亮が死去した際には、劉禅は白い喪服を着て3日間哀悼の意を表し(『華陽国志』「広漢士女」による)、その死を喜び上表した李邈 (蜀漢)を怒りに任せ処断している。

蔣琬や費禕・董允などの能吏に支えられ国を維持していた。劉禅自身の行為としては、後宮の人員増員を要請したり、遊興や行幸したという記録が多く残っており、董允や譙周に諫言されている。

諸葛亮の死後、その遺表を遵守し荊州閥で北伐推進派の蔣琬を録尚書事・大将軍に任じ、延熙元年(238年)には漢中に幕府を開かせ成都の政は益州閥で北伐慎重派の費禕に一任した。蔣琬は諸葛亮と同様に独裁体制を執り、後に漢水を下って上庸へ侵攻する作戦を立てたが、己の持病が続発したために実行に移せないでいた。

『魏略』では蔣琬の死後から劉禅が自ら政治をみるようになったとあるが、大赦を濫発するなど政治は弛緩し宮中は奢侈に流れた。また、董允の死がそれまで抑えられていた宦官の黄皓の台頭を許してしまった。劉禅の黄皓への信用は高く、弟の劉永ですら黄皓のために宮中から遠ざけられる状況であった。

延熙14年(251年)夏に費禕は成都に帰還するも、「都には宰相の位が見当たらぬ」と望気者の占断で冬には北の漢寿(葭萌関)に駐屯、2年後に其処で正月の宴席で魏の降将郭循によって刺殺された。

その「窮している者に近づき利用し己の糧にする」本質から費禕は諸将の恨みを買っており、先の占断は宰相の死を予言する物であった。

費禕の死を承け国政は陳祗と姜維の2頭体制と成った。陳祗が宦官の黄皓を巧く利用して劉禅に影響力を与え続ける事で姜維の北伐を輔弼したのである。陳祗の輔弼の下で姜維は度々大規模な北伐を遂行したが段谷の戦いで鄧艾に大敗し国内で己の政治的地盤を失った。

景耀元年(258年)に陳祗が没すると、後任と謂うべき才を持つ者は存在せず、北伐反対派である益州閥の諸葛瞻・董厥らが宦官の黄皓を姜維への掣肘に利用して政を執る様に成った。その一方で閻宇は黄皓と結託し、黄皓は姜維と閻宇を交代させようと画策した。諸葛瞻・董厥は、姜維が戦争を好んで功績なく、国内の疲弊を理由に姜維を前線から召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うように劉禅に上奏すべきと考えていたという。

 

現在の中国語では「どうしようもない人物」を「扶不起的阿斗(助けようのない阿斗)」という。

 

小説『三国志演義』では、母親が妊娠中に北斗七星を呑む夢を見たという事から、幼名を「阿斗」と名付けられる。

諸葛亮の謀反を疑って彼を北伐の前線から召還したり、魏と内通した黄皓にいわれるがまま、姜維をやはり前線から呼び戻し、しかも黄皓を庇うなど暗君としての印象がより一層強い。また、諸葛亮が召還された際に、劉禅の酒に溺れ肥えた体を見て、蔣琬や費禕らに劉禅の教育を厳しく行うよう命じている。

前述の『漢晋春秋』の逸話も、劉禅の暗君ぶりを示すために三国志演義に記されている。

wikiより

蜀滅亡へつながる…

 三国志Three Kingdomsの中で夷陵の戦いで敗戦した劉備が危篤の状態になり

親父の危篤の知らせにコウロギを持って行きたいと諸葛亮に頼んだ話があるが

年齢は何歳なのかという疑問があるが

(章武3年(223年)、父の劉備の崩御に伴い17歳で皇帝に即位)

なので、高1とか高2ぐらいなので、普通にキレられるレベルだよね

ましてやこの時代10代で役人になる時代だから

wikiにも鄧艾が【12〜13歳にして県から召しだされて役人となり】と書かれている。

諸葛亮たまんないですよね

そしてゲームでは泣きの魅力78なのだろう、知力30も泣きで政治32も泣き

武力7は合ってるのかも知れない、そもそも戦ってないけどね…

劉備が最後庶民の子だったら幸せだったろうにって言っていたもんな

究極の平和主義者だか何だかわかんないけど、そんな感じだろうと思います。

因みに三国志Three Kingdomsでの劉禅(阿斗)の声優はアムロ・レイです。

覚える特殊能力

三国志5 武将 劉禅

三国志5 武将 劉禅

【混乱・収拾・鼓舞・雨乞・激励・反計】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

 関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

 関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

 発石車  【無】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3 

発石車  【有】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 劉禅

三国志5 武将 劉禅

武力【武】7 知力【知】30 魅力【魅】78 政治【政】32

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値42130・勇名550

特殊能力の【雨乞】が経験値を相当高くしないと覚えないので、【反計】も結構経験値を食うので、劉備の息子っていうこともあって作り手の気持ちがわかりますね