三国志5 武将 馮習

馮習(ふうしゅう)

三国志5 武将 馮習

馮 習(ふう しゅう、? – 222年)

劉備と益州へ侵攻する。

221年の夷陵の戦いでは、劉備から領軍将軍に任命され諸軍を指揮した。

馮習は呉班とともに、呉の李異・劉阿らを打ち破ったが、翌年に陸遜の反撃を受けて軍が大敗し、自身も乱戦の中で潘璋の部下に斬られた。

『三国志蜀書楊戯伝』や『季漢輔臣賛』では、

「蜀軍があのような惨めな大敗を喫したのは、馮習が呉軍を侮っていたためである」とある。wikiより

『 三国志演義 』では

夷陵の戦いの敗因は晩年の劉備の乱心ぶりから、皇帝になり己を朕と呼び初めたぐらいから、関羽と張飛の仇討ちを決行した。

これはしょうがないのかも知れないですね、北伐が本懐とは分かっていても

兄弟の仇討ちをしたいと強く思う。

年齢も長くなく今戦わなければならないと劉備は思ったのかも知れないですね

だが、夷陵の戦いの敗因は馮習にあると話しには無理がないか?

関羽復讐戦の副将が呉軍を侮っていたためとあるが、三国志演義では、戦にとって禁じ手である、林(草木が生い茂る場所)に陣をおいたのは劉備本人だよな

三国志5 武将 馮習

三国志 Three Kingdoms 第81話 夷陵の戦いより

孔明が『誰が、こんな布陣を進言した?』って言ってますね

その後『こいつは奸賊だぞ』って言ってますが、馬良が『陛下(劉備)のご判断です。』つまり劉備が自身の判断で草木が生い茂る場所に陣を置いたことになります。

 

この後『正史』でも

夜半に水上を急行して総攻撃を開始。一斉に火計を仕掛け40以上の陣営を陥落させる。

 

因みに『季漢輔臣賛』(きかんほしんさん)は、241年(延熙4年)は

蜀漢(蜀)の楊戯により著された、蜀漢を支えた人物を讃える書物。

楊 戯(ようぎ、 ? – 261年)字は文然。の方です。

楊 儀(ようぎ、? – 235年)字は威公。の方は違います。(初め私も間違えましたw)

三国志5 武将 馮習

三国志 Three Kingdoms 第92話 木牛流馬で登場しました。

この『季漢輔臣賛』には

馮習が「敵を軽んじたため、国家に損失を与え」「災難は一人から生まれ、広大な影響を与えた」と評されている。wikiより

この夷陵の戦いで黄権も参加していたが

黄権はこれ以上侵攻すると撤退が困難であることを指摘を進言するが、劉備の判断で結果大敗する、その後、馮習や王甫・張南・傅彤・程畿・馬良ら有能な武官、文官が戦死退路を失った黄権も魏に投降した。

これは、龐統が浮かばれないとも思うが、黄権を登用し入蜀した時点で龐統は満足だったのかも知れないです。

覚える特殊能力

三国志5 武将 馮習

【混乱・鼓舞・伏兵・火矢・奮迅・無双】

陣形

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2 

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。

 新兵器『戦車』を開発・【無】の場合。

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】の場合。

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】の場合。

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】の場合。

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 馮習

武力【武】70 知力【知】40 魅力【魅】61 政治【政】21

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値24335・勇名2922