卑衍(ひえん)
卑衍
wikiでは(ひ えん、生没年不明)ニコニコ百科事典では(? ~ 238)
公孫淵配下の武将で、進軍してきた司馬懿と戦うが、夏侯覇に討ち取られた。とwikiにある。
この内容は小説である『三国志演義』での話です。
『正史』
公孫淵が燕王を自称し、魏に対する。(遼隧の戦い:238年)
司馬懿が公孫淵討伐に派遣、
迎え撃つは、卑衍は楊祚と歩兵数万(公孫淵軍)二十里の塹壕を作るも
胡遵(魏軍)に敗れる。
司馬懿が襄平を狙う、襄平が無防備であり卑衍は夜に撤退する。
再度、司馬懿と戦うも敗れる。
基本的には『正史』も小説である『三国志演義』も内容は同じです。
遼隧の戦い:238年
【魏軍4万】 対 【燕(公孫淵)一説に10万】
燕(公孫淵)軍は兵は多いが、後漢末の混乱により、武力支配した寄せ集めの軍団なので有力豪族の中には魏軍に寝返るものも多かった。(寧ろ歓迎していた部分もある。)
238年、曹叡は司馬懿に4万余の兵を与え、公孫淵征伐を命じた。
公孫淵も卑衍・楊祚らに数万の軍を与えて遼隧に派遣した。司馬懿が遼東に到着すると、卑衍が司馬懿を攻撃したが、司馬懿は胡遵らを派遣して卑衍を破った。
塹壕の規模
(『三国志』には二十里、『晋書』には六・七十里ほどと記されている)
遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固と見た司馬懿は、東南に退却したとみせかけて、国都の襄平に侵攻する。
公孫淵は遼隧の軍を撤退させ、都の守備に当たらせたが、防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲された。
長雨の時期にさしかかり兵糧が底を突いたため、公孫淵は人質を出して和睦しようと画策するが、司馬懿はこれを許さず公孫淵を捕え、処刑した。
公孫淵の子公孫脩をはじめとする一族も討たれ、遼東公孫氏は滅亡した。wikiより
倭国が魏に使節を派遣
遼東公孫氏が滅亡した238年、倭国が魏に使節を派遣している。公孫氏の支配が遼東から消滅したことで、日本は中国大陸の文化に触れることが可能になった。wikiより
疑問に思う点がいくら司馬懿でも機動力と言うか、上手く行き過ぎてないかい?
って部分がある、wikiにある文字が青い部分の内容にツッコミを入れるのであれば
あんな一部隊で何とかなるか?って思うんだよね、別働隊いなきゃ包囲とかいう場面になるか?ここで調べると色々出て来ました。
遼隧の戦いでは、司馬懿一人の功績ではなかったようだ。
まず、司馬懿率いる明帝からの討伐軍、 それと毌丘倹が率いる幽州兵と烏丸兵、
別働隊の水軍で攻めたそうだ。(水軍の参戦は司馬懿とは無関係に明帝が指示)
公孫淵の大軍はどこにいたのか?
大半の兵を遼東に集めて魏軍本陣の進軍に備えた。
対水軍の余力がなかった。
水軍により楽浪・帯方の二郡は平定される。
(上陸をあっさり平定)
理由:先程も書きましたが
燕(公孫淵)軍は兵は多いが、後漢末の混乱により、武力支配した寄せ集めの軍団なので有力豪族の中には魏軍に寝返るものも多かった。(寧ろ歓迎していた部分もある。)
覚える特殊能力
【混乱・同討・鼓舞・奮迅・速攻・強行】
陣形
【錐行の陣】
平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。
強化騎兵 【無】
攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
強化騎兵 【有】
攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
【箕形の陣】(きけいのじん)
平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2
【偃月の陣】(えんげつ)
平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。
関連兵器はなし
攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】69 知力【知】54 魅力【魅】61 政治【政】46
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値47912・勇名2088