三国志5 武将 王戎

王戎(おうじゅう)

三国志5 武将 王戎

王 戎(おう じゅう、青龍2年(234年) – 永興2年6月4日(305年7月11日))

魏・晋に仕えた。

祖父は王雄(字は元伯)。

父は王渾(字は長源、王渾(玄沖)とは別人)。

叔父は王乂(字は叔元、魏の平北将軍)。従弟は王衍。

子は王万・王興・娘(裴頠妻)。

『晋書』に伝がある。竹林の七賢の一人であり、『世説新語』に数々の逸話がある。

 

幼い時の神童振りは、曹叡(明帝)や阮籍にも認められていた。

阮籍は父とも友人であったが、自分よりも20歳若い王戎と語らうことを好んだ。

父が亡くなると、昔の家来達が香典を持って弔問に訪れたが、王戎は付け届けの類を全て受け取らず、名声を高めた。

王戎の体格は小柄であったが、堂々と振舞い、必ずしも礼に拘ることはなかった。

話し好きで知られ、酒を嗜みながら阮籍達と竹林で遊んだ。

蜀征伐に赴く鍾会に相談を持ちかけられた際、道家の言葉を引きながら語った発言は、鍾会の命運を見通したものであったため、識者に評価された。

父の爵位を継いだ後は、司馬昭の招聘を受けて魏・晋で官職を歴任した。

司馬昭の死後、司馬炎から吏部黄門・散騎常侍・河東太守・荊州刺史と順番に任じられたが、荊州刺史の時に役人を私的な用事に使ったため、免職となりそうになった。

しかし罰金で済まされた。

泰始8年(272年)、呉の歩闡が帰順して来た際、軍法違反のため羊祜から斬られそうになった。この時も王戎は助かったが、同じく羊祜に批判された王衍と共に、羊祜の悪口を言い散らした。

世人は王氏の威風を憚って、羊祜には徳が無いと噂するようになった。

その後、豫州刺史に転任し、建威将軍に任命された。咸寧5年(279年)からの呉侵攻(呉の滅亡 (三国))では、武昌に侵攻して王濬と共に呉を滅亡に追い込む功績を挙げた。その功績で安豊亭侯の爵位を得た。

呉の人々に恩寵を施し、多くの人を心服させ侍中となったが、贈賄の疑いをかけられた。武帝(司馬炎)はそれを庇っている。

『晋書』は政治家としての王戎について、特別の能力はなかったが多くの功績がついてきたため、高官にまで昇ったとしている。

光禄大夫・吏部尚書まで官職が昇ったところで、母の喪に服するために官を離れた。

王戎は礼に拘る人間ではなかったが、父に対して親孝行であったため、瞬く間にやつれていった。その様子は劉毅に「死孝」であると評され、身の安全を心配した武帝は、王戎に薬を与え医者に係らせた。

武帝の没後、外戚の楊駿が実権を握ると太子太傅に任命された。

楊駿が誅殺されると、それに功績のあった東安公司馬繇が勝手な振る舞いをしたため、これを諌めた。王戎は光禄大夫・中書令となった。

王戎は「甲午の制」と呼ばれる官吏登用制度を始めたが、不正の温床となっていると指弾された。しかし王戎がそれでも地位を保てたのは、外戚の賈氏や郭氏と結びついていたからであった。

元康7年(297年)、官位はついに三公である司徒まで昇った。

しかし永康元年(300年)、娘婿の裴頠に連座し免職となった。

その後も、朝廷の要職へ就いたにも関わらず八王の乱の政治的混乱の中、積極的な政治力を発揮することはなかった。またそれ故に殺害されることもなかった。

永興元年(304年)、司馬衷は成都王司馬穎を親征し大敗、これに従軍していた王戎は翌永興2年(305年)に72歳で没した。

子の王万が若死し、王興も庶子であり後継できなかったため、縁戚の者に後を継がせた。

 

 

「名声」の有する危険性を逸早く察知し、為政者から要らぬ嫌疑を受けぬ様、吝嗇の汚名に因り故意に名声を低めようとした。

吝嗇

(吝嗇家(りんしょくか)ともいい、「けち」に「吝嗇」の字を当てることもある)

 

父の王渾が死去した時、涼州時代の故吏たちから銭数百万の香典が寄せられた際、彼は一切受領しなかった。

これが彼本来の性向で、父の死に動転した余り思わず「芝居」を演じ忘れた物であった。若い頃から文才に優れ、荀寓(荀彧の三男の荀俁の子)や杜黙らと親交があった。また光禄大夫の時に、鄧艾の孫の鄧千秋を武帝に推挙し、鄧艾の名誉回復にも尽力した。さらに旧呉の石偉という人物を採り立てている。

『世説新語』では幼い時に神童であったが、長じて吝嗇家として知られるようになったとされ、相反するような方面での逸話が残されている。

例えば「庭の李を売っていたが、李は発芽しないよう種に穴を開けて売られていた」・「甥が結婚する際に着物を用意したが、後で代金を請求した」・「娘が裴頠のところへ嫁入りした時、銭数万を贈った。

その後、彼女が里帰りしても王戎が不機嫌なので、慌てて銭金を返すと急に笑顔を見せた」等の話がある。wikiより

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覚える特殊能力

三国志5 武将 王戎

【同討・収拾・鼓舞・激励・水計・反計】

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。 

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。 

発石車  【無】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3 

発石車  【有】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 王戎

武力【武】44 知力【知】81 魅力【魅】55 政治【政】60

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値16315・勇名300

三国志5 武将 張節

張節(ちょうせつ)

三国志5 武将 張節

張 節(ちょう せつ)は、中国の小説である『三国志演義』の登場人物。

三国時代の魏の黄門侍郎。『三国志演義』第119回で登場する。

265年に司馬炎が魏の皇帝・元帝に禅譲を迫った際、張節は「簒奪だ。国賊だ」と司馬炎を罵って禅譲を許そうとしなかったため、司馬炎が「簒奪された漢の復讐の簒奪だ」と反論して兵士に命じて張節を逮捕して殴り殺させた。wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 張節

【火計・混乱・収拾・鼓舞・消化・激励】

陣形

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。 

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2 

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。 

発石車  【無】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3 

発石車  【有】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 張節

武力【武】32 知力【知】44 魅力【魅】70 政治【政】61

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値18217・勇名240

三国志5 武将 孫皓

孫皓(そんこう)

三国志5 武将 孫皓

生年 赤烏6年(243年)〜没年 太康5年12月(284年)

呉の第4代皇帝。

孫和の長男として生まれると孫権は喜び、彭祖という名前を与えた。

 

第2代皇帝の孫亮の時代である建興2年(253年)、廃立後長沙に押し込まれていた孫和は孫峻と全公主(孫魯班)のために新都郡に強制移住となった上で、自殺を命じられた。孫和とその正妻の張妃は自殺し、孫晧は異母弟たちと生母の何氏に育てられた。

 

永安7年(264年)秋7月25日、孫休が死去した。

当時の呉は前年に盟友の蜀が魏の侵攻により滅亡し、かつ交阯が魏に離反しているなど厳しい情勢にあり、立派な指導者を必要としていた。かつて烏程県令であり孫晧とも親しかった左典軍の万彧は孫晧を称賛し「長沙桓王(孫策)の再来である。

そして法を遵守し、学問を好む」と評し、孫休の側近であった丞相の濮陽興と左将軍の張布に働きかけた。濮陽興と張布は孫晧を皇帝にする旨を朱太后(孫休の皇后で、朱拠の娘)に述べたところ、朱太后の承諾を得た。

こうして孫晧は23歳で皇帝に即位した。

 

孫晧は帝位に就いた当初は、人民を哀れみ、官の倉庫を開いて貧民を救ったり、官女を解放して妻のない者に娶わせたり、御苑を開いて鳥獣を解放するなどの政治を行い、明君と称されたこともあるという。

やがて粗暴で驕慢な人物となり、かつ小心で猜疑心が強く、酒と女を好むといった風であったため、地位のある者もない者も皆失望したという。

濮陽興と張布は孫晧を皇帝にしたことを後悔したが、そのことを孫晧に讒言する者があり、11月になって濮陽興と張布は誅殺された。 

 

甘露元年(265年)12月、魏が禅譲(その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ること)により滅亡し、晋が成立した。

 

晋が呉に侵攻。

天紀4年(280年)春、中山王・代王など11の王を立てて、大赦を実行した。晋の侵攻軍には各地で大敗し、張悌ら多くの者が戦死した。

殿中の親近の者数百人が、孫晧の寵臣の岑昏を殺すことを願い出てきた。

孫晧はそれを止めることはできなかった。

武昌から建業に戻った陶濬は最後の抵抗を願い出てきたが、出撃の前日に兵士が皆逃亡してしまった。晋軍が迫っている中、孫晧は光禄勲の薛瑩と中書令の胡沖の勧めで晋への降伏を決め、王濬・司馬伷・王渾のそれぞれに降伏の書簡を送った。

 

真っ先に建業にたどり着いた王濬を、孫晧は自らを縛って棺を持参して出迎えたが、王濬は縄をほどき棺を焼き捨てて孫晧を本陣に招いて面会した。

孫晧から印綬を受け取っていた司馬伷は孫晧の身柄を自分の部下により晋の都に護送させた。孫晧は一族を引き連れて西方に向かい、太康元年(280年)5月1日に都に到達した。4月4日、晋の武帝(司馬炎)は詔勅を出し、孫晧を帰命侯に封じた。

太子であった孫瑾は中郎に任命され、子の内で王に封じられていたものについては郎中に任命した。

太康5年(284年)12月、孫晧は洛陽で死去した。42歳であった。

滕皇后は個人的に哀悼の意を書いた、その内容は非常に悲しい哀愁に満ちたものであった。

 

人物

 

「暴君」であり、無理やり群臣達に飲酒を強要した上で、監視の役人を側に置き、酩酊状態でわずかでも問題のある言動があれば処罰を加えた。

また後宮に何千もの女性を入侍させ、意にそぐわない宮女を殺害し、宮殿内に引き込んだ川にその死体を遺棄したという。

刑罰では残虐な方法を使い、人の顔の皮を剥いだり、目玉をえぐったりもしたという。お気に入りの人物は重用し高官に取り立てた。

さらに土木工事を好み、民衆を労役で苦しめたので民心が離れていったという。

 

一方で、降伏に際して孫晧は家臣たちに書簡を送り、呉滅亡の責任を一身に負い、家臣には晋に仕官し才能を発揮するようにと伝えている。

元の侍中であった李仁は、孫晧の残虐な刑罰について弁明したという。また、呉の滅亡後に晋に仕えた吾彦は晋の武帝の前で、孫晧は英明であったと弁明している。

能書家でもあり、行書・隷書・小篆・飛白が巧み、南朝梁の庾肩吾『書品』では、曹操と肩を並べ「魏帝筆墨雄贍,呉主体裁綿密」と絶賛され、九ランクの5番目、中の中に評価している。

wikiより  

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覚える特殊能力

三国志5 武将 孫皓

【混乱・同討・落石・激励・水計・乱射】

陣形

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2 

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 孫皓

武力【武】75 知力【知】61 魅力【魅】57 政治【政】10

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値12100・勇名200

三国志5 武将 唐咨

唐咨(とうし)

三国志5 武将 唐咨

唐 咨(とう し、生没年不詳)

魏で反乱を起こしたが失敗し、呉に仕えた。呉では厚遇を受け武官として出世した。諸葛誕の反乱の援軍に派遣されたが敗れて降伏し、魏に再び帰参した。

 

魏の曹丕(文帝)の時代である黄初年間、利城郡において反乱が起き、太守が殺害された後に唐咨が反乱の指導者として祭り上げられた。

しかし、曹丕が派遣した追討軍により反乱は鎮圧されてしまった。このため唐咨は船で海中に逃走し、呉の孫権を頼って落ち延びた。

 

その後頑張って出世する。

唐咨は孫綝の命令を受け文欽と共に呂拠を攻撃し、これを滅ぼした。呉においては左将軍にまで出世。

 

甘露2年(258年)5月、魏に対し反乱を起こした諸葛誕への援軍の将の1人として、文欽らと共に寿春に籠城し魏軍と戦ったが、魏の包囲陣の前に呉の後続の援軍が断れたため、城中に孤立した(諸葛誕の乱)。

甘露3年(259年)3月、寿春が落城し唐咨は捕虜となった。

魏の司馬昭は諸葛誕・文欽・唐咨を三人の謀反人と呼び、魏の人達も唐咨が捕虜になったことを嘲笑した。

しかし、司馬昭が唐咨を赦免し安遠将軍に任じるなど、厚遇を与えたため、人々は司馬昭の徳を賞賛したという。

なお、他の呉からの降伏者も同様に厚遇を受けたため、呉側も彼等の家族を処刑するようなことはしなかったという。

景元3年(262年)冬、司馬昭は腹心の鍾会を仮節・都督関中諸軍事・鎮西将軍に任命し、蜀漢攻撃の準備をすすめる一方で、東方の州に船の建造を命じた。

さらに唐咨に命じて大型の海上船を建造させ、表向きは呉攻撃の準備に見せかけようとしたという。以後の事績は不詳である。

 

小説『三国志演義』でも、諸葛誕の反乱における援軍の将として登場し、魏軍に敗れて呉に戻ろうとするが、孫綝に処刑されることを恐れ、司馬昭に投降したことにされている。

なお、呉に残していた家族は孫綝によって処刑されてしまう。後の蜀討伐にも参加している。wikiより 

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三国志5 武将 唐咨

【混乱・同討・収拾・鼓舞・水計・火矢】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。 

関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2 

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 唐咨

武力【武】61 知力【知】47 魅力【魅】50 政治【政】42

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値35950・勇名0

三国志5 武将 全端

全端(ぜんたん)

三国志5 武将 全端全 端(ぜん たん、生没年不詳)

叔父は全琮。従兄弟は全緒・全奇・全懌・全呉。従子は全禕・全静・全儀。

赤烏4年(241年)の芍陂の役において、孫権の命令で全琮の指揮下で魏の王淩と対戦した。

戦いは五営将の秦晃が戦死するなど劣勢であったが、全緒・全端ら全氏一族や張休・顧承が奮戦し軍を守りきり、反撃に転じる事ができたという。ところが、戦後の恩賞は張休・顧承に厚く、全氏一族に薄かった。全琮の次男である全寄が孫覇を支持し、皇太子孫和の廃位を目論むようになると、孫和の支持者である顧譚や張休らの勢力を削ぐ為、この時の恩賞の決定で顧承と張休が典軍の陳洵と結託し、不正を働いたと讒言した。これには全琮ら全氏一族も便乗した。

その結果、張休・顧譚・顧承・姚信らは罪を得て交州に流罪となった。建興元年(252年)、孫権の死に乗じ、魏が東興・南郡・武昌の三方面より侵攻してきた。

全端は留略と共に諸葛恪の命令で、東興の2つの城に1000人の兵士を率いて立て籠もった。

留略が東城、全端は西城であった。やがて魏の胡遵と諸葛誕が城に攻めかかって来たが、地勢が険しく落とす事はできなかった。

諸葛恪は留賛・呂拠・唐咨・丁奉を率いて、油断していた魏軍を攻撃しこれを破った(東興の戦い)。

孫亮の治世下、外戚である全氏一族は、侯に封じられたのが5人にのぼり、呉の要職の多くを占め、栄華を極めたという。太平2年(257年)、魏の諸葛誕が司馬昭の専横を憎んで寿春で反乱を起こす(諸葛誕の乱)と、孫綝の命令で全端は全懌やほとんどの全氏一族を引き連れて、文欽・唐咨と共にその救援軍を率い、魏の王基が敷いた包囲陣を突破し寿春に籠城した。

その後、司馬昭の増援軍が寿春を二重三重に包囲したため、孫綝からの援護は途絶え、全端らは孤立してしまった。丁度11月に、呉国内で内紛が勃発し、国内に残っていた全禕・全儀が魏に亡命するという事件が勃発した。魏の鍾会は全禕らを利用し、城内の全氏らに手紙を送り、呉の籠城軍諸将の家族が孫綝に降伏してしまったとする偽情報を流した。12月、偽情報に動揺した全懌は全端らを誘って魏に降伏した。

全端は全懌とともに列侯に封じられた。

 

小説『三国志演義』では、全琮の子で全禕の父という設定になっている。

史実『三国志』では、父の名は不詳。wikiより 

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覚える特殊能力

三国志5 武将 全端

【混乱・収拾・水計・乱射・速攻・水神】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。 

連弩  【無】 

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2 

連弩  【有】 

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2 

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 全端

武力【武】75 知力【知】60 魅力【魅】62 政治【政】31

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値16121・勇名1715

三国志5 武将 裴秀

裴秀(はいしゅう)

三国志5 武将 裴秀

裴 秀(はい しゅう、224年 – 271年)

西晋の政治家・地理学者。魏・西晋に仕えた。

『三国志』の裴潜の伝に引用された『文章叙録』にまとまった記述があり、『晋書』にも独立した伝がある。

子供の頃から学問を好んだ。当時叔父の名声が高く、裴秀は生母の身分が低かったため、父の正室である継母に母子ともに冷遇されていたが、生母が毅然と振る舞ったため、継母のいじめが止んだという。人々は裴秀が裴家の後継であると認識するようになった。

毌丘倹の推挙で曹爽に採り立てられた。

244年、父が亡くなると兄弟に財産を分け与え、父の爵位を継承した上で黄門侍郎となった。

249年、曹爽が処刑されると免職になったが、その後は司馬昭に採り立てられ散騎常侍に任命された。

裴秀は曹髦(高貴郷公)とも親しく、曹髦に「儒林丈人」と呼ばれ、学問での子弟関係の仲にあったと言われている。

曹髦は司馬望・裴秀・王沈・鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。諸葛誕の反乱鎮圧には、陳泰や鍾会と共に参謀として参加した。

司馬昭が後継を定めようとした時は、長男の司馬炎を推挙した。

司馬炎が曹奐(元帝)に帝位を禅譲させた時は、賈充・王沈・羊祜・荀勗らと共に協力している。晋の時代には文官として仕え、晋の礼法や官制の制定に功を挙げ、当時としては非常に精巧な地図である『禹貢地域図』十八篇『地域方丈図』などを作った。

また彼が考案した製図法「製図六体」は、製図の際の縮尺・距離・方位などの基本方針を定めたもので、中国の地理学史上に多大な貢献をもたらした。

後に司空となる。呉征伐に積極的であったが、晋の大陸統一を見ることのないまま、泰始7年(271年)、寒食散を服用した際、誤って熱燗ではなく冷酒を飲んだことがもとで死去。

同時代の皇甫謐が伝える記述によると、薬による不測の発作が生じ、何日も体温の高低が繰り返され、呼吸困難に加えて視線も定まらない状態が続いた。

左右の者は発作時の解毒法に従い、大量の冷水を飲ませ、さらに冷水浴を施したが回復せず、かえって体温を奪われて水中で絶命したという。

享年48。

裴濬が後継したが早くになくなったため、裴頠がその後を継いだ。

現在の中国では、優れた地図作品に贈られる「裴秀賞」なる賞がある。wikiより 

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 覚える特殊能力 

三国志5 武将 裴秀

【火計・混乱・同討・収拾・消化・落石】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。 

関連兵器なし 

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2 

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。 

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 裴秀

武力【武】69 知力【知】65 魅力【魅】68 政治【政】66

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値28997・勇名1325

三国志5 武将 樊建

樊建(はんけん)

三国志5 武将 樊建

樊 建(はん けん、生没年不詳)

『三国志』蜀志に独立した伝はないが、「諸葛亮伝」に記録がある。

 

諸葛亮の死後、董厥の後任として尚書令となった。

251年には校尉の地位であったが、このとき呉への使者として赴いた。

孫権は重病で樊建と直接対面することができなかったため、諸葛恪に対し樊建の人物を、かつて使者として呉を訪れた宗預と比較する形で尋ねた。

諸葛恪は「宗預に才能・見識では及ばないが、性質では優っている」と評した。

後に侍中・尚書令となった。261年に諸葛瞻と董厥が平尚書事になると、樊建と三名で国政を預かることとなった。

黄皓が政治の実権を握るようになっていたが、樊建らはお互いに庇い合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった。

ただし、樊建だけは黄皓と私的に親しくすることはなかったという。

263年、魏が蜀に侵攻し、劉禅は降伏した。

翌年春、劉禅が一家揃って洛陽へ移送されることになると、樊建は董厥と共に従った。洛陽に到着すると、旧蜀の群臣たちとともに列侯に封じられた(「後主伝」)。

その後、董厥と共に相国参軍となり、秋には董厥と共に散騎常侍を兼任した上で、蜀の民心鎮撫に努めたという。

西晋の給事中であったとき、司馬炎(武帝)に諸葛亮の治世について質問されると、これを賞賛して述べた。

司馬炎もこれを受けて諸葛亮を賞賛すると、先に成都において鍾会の讒言で冤罪で誅殺されていた鄧艾の罪の赦免を、平伏して嘆願した。司馬炎は笑ってこれを容認したという(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。

 

小説『三国志演義』では、諸葛亮に従い文官として北伐に参加している。諸葛亮から杖刑を受けた馬岱を慰める役目を果たした。wikiより

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覚える特殊能力

三国志5 武将 樊建

【火計・混乱・収拾・鼓舞・消化・激励】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。 

連弩  【無】 

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2 

連弩  【有】 

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。 

発石車  【無】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3 

発石車  【有】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 樊建

武力【武】29 知力【知】68 魅力【魅】68 政治【政】65

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値42039・勇名1650

三国志5 武将 楊済

 楊済(ようさい)

三国志5 武将 楊済

楊 済(よう さい、? – 291年)

才能があり、武芸に秀でていた。

司馬炎が軍事に力を入れるようになると、有望な外戚を重用しようと思い、楊済は武芸に長けていたので適任とされた。

276年10月、姪の楊芷が皇后に立てられると、楊芷の父楊駿は権勢を欲しいままにするようになった。

弟である楊済もまた恩恵を受けるようになり、楊駿・楊珧と共に天下三楊と称された。楊済は楊駿の地盤確立の為、王佑を河東郡太守に左遷し、諸侯王の世子を建立するなど謀略を巡らしたという。

290年4月、司馬炎が崩御すると、子の司馬衷が後を継いだ。

291年1月、恵帝の皇后賈南風は楊駿の権勢を妬み、

宦官の董猛・孟観・李肇と共に楊氏一派の誅殺の計画を練った。

3月、賈南風は楚王司馬瑋と結託して政変を起こすと、楊駿は殺害されてその三族及び側近の者は尽く捕らえられた。政変が鎮まって夕方になると、楊済は東宮へ召喚された。この時、楊済は裴楷へ「我はどうなるか」と問うと、裴楷は「保傅(皇族の子弟の教育係)となる為に東宮に向かうのだ」と、偽りの返答をしたという。

楊済は兵馬を長く管轄し、施しを好んだので、彼の400人の部下は皆楊済の助命を求めたが、嘆願は聞き入れられず処刑された。これを嘆かない者はいなかったという。

 

『三国志演義』第120回の呉征伐において晋の冠軍将軍として登場する。wikiより 

覚える特殊能力 

三国志5 武将 楊済

【火計・同討・鼓舞・消化・落石・奮迅】

陣形

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2 

 

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 楊済

武力【武】56 知力【知】61 魅力【魅】59 政治【政】43

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値12075・勇名0

三国志5 武将 全禕

全禕(ぜんい)

三国志5 武将 全禕

全 禕(ぜん い、? – ?)

全琮は孫権の娘の孫魯班(全公主)と婚姻し、呉皇室と姻戚関係となり、また、一族の全皇后が孫亮の后となった事から、全氏一族は大いに繁栄することとなった。孫亮の時代には、全皇后の父の全尚が太常・衛将軍・録尚書事・永平侯になったのをはじめ、全氏一族で侯に封ぜられたのが5人にのぼり、それぞれに兵馬を指揮し、その他の者も侍郎や騎都尉となり、皇帝の側近で警護の任に当たって、呉国が興って以来、外戚としてこれほど高位を占め盛んな勢力をもった一族は他に例がなかった。

太平2年(257年)、魏の諸葛誕が反乱を起こし、呉に援軍を要請した。呉の孫綝はそれに応え、文欽・唐咨・于詮・王祚らと、全端・全懌・全静・全翩・全緝ら全氏一族らが率いる約3万の援軍を派遣し、諸葛誕の籠る寿春へ入城させた。

その頃、全禕(全輝)・全儀は建業に残っていたが、一族の内で争いが起こり訴訟となったので、全禕・全儀は母と数十人の部下を引きつれて長江を渡り、司馬師の元へ帰順した。

鍾会は建策して、ひそかに全禕・全儀に命じて、「呉の内部では、全氏一族らの呉の援軍が寿春にて魏軍を破れないのに腹を立て、遠征している諸将の家族を全員処刑しようとしたので、呉から逃亡して魏に帰順した」という内容の文書を書かせ、全禕・全儀が身近で信用している人物を密かに寿春城内に送り込み、全懌らに渡した。全懌らは手紙の内容に恐れおののき、ついには全氏一族と部下数千人を率いて東の城門を開き、城を出て降伏した。全氏一族は全員魏の諸侯に封じられ恩寵を受けたという。

それが原因で寿春城内は混乱しまとまりがなくなり、ついには落城したという。

その後、全煕は誅殺され、太平3年(258年)、孫亮が廃位されるに及び、全尚は零陵に流罪され後に誅殺され、全紀も自害し、呉での全氏一族は衰退したという。wikiより 

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覚える特殊能力 

三国志5 武将 全禕

【火計・混乱・鼓舞・消化・水計・火矢】

陣形

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。 

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2 

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 全禕

武力【武】76 知力【知】62 魅力【魅】63 政治【政】35

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値16080・勇名1392

三国志5 武将 司馬攸

司馬攸(しばゆう)

三国志5 武将 司馬攸

司馬 攸(しば ゆう、正始7年(246年) 太康4年3月14日(283年4月27日))

司馬昭の三男で、伯父の司馬師の猶子でもあった。初代皇帝の司馬炎の同母弟。

他に同母兄の司馬定国(遼東悼恵王)と同母弟の司馬兆(城陽哀王)・司馬広徳(広漢殤王)らがいた。

しかし、みな早世してしまったために、 彼が長兄の司馬炎に次ぐ有力後継者になったという。

司馬攸は、物静かで穏やかな人柄で、賢士に親しみ人を慈しんだ。また、学問を愛して文章にも巧みであった。才能や人望は、兄の司馬炎に優っていたという。

 

武帝は荀勗の言葉を信じ、また馮紞の進言を容れて、太康3年(282年)に司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事に任命した。

司馬攸はこの措置に喜ばず、「私は、時代を正すには用済みとなってしまった」と言った。また、荀勗の予想通り、武帝の叔父である扶風王司馬駿や王渾・曹志(曹植の子)など多くの朝臣が武帝に対して次々と反対の意見を述べた。

これに対して武帝は「これは帝室内部、しかも兄弟間の問題であり他人にとやかく言われるものではない」と激怒した。

さらに諫言を成した者を最初は死刑にしようとしたが、夏侯駿らの反対で左遷・免官とした。太康4年(283年)、武帝は司馬攸の赴任のため盛大に文物を整えさせたが、司馬攸はこれが荀勗たちの策謀であることを知ると、怒りのあまり病を発した。

亡き母后の陵を守ること(=官を退く)を望んだが、武帝は許さなかった。

しかも、武帝が派遣した典医たちは、武帝の意におもねって「王に病気はない」と偽って報告していたため、司馬攸の病は悪化する一方であったのに、進行を強いられ続けた。司馬攸は無理をして威儀を整え、病で苦しんでいても日常と変わらぬかのように振舞った。

このため、かえって武帝は、病ではないのではないかと疑った。

それから間もなく(封国に出立の2日後)、司馬攸は宿所で血を吐いて、38歳で亡くなった。さすがに気が咎めたのか慟哭する武帝に、馮紞は言った「斉王は名が実に過ぎたのに、天下の心が帰しておりました。今、王が自滅してくれたのは国家の幸いであって、陛下が悲しまれることではございません」。

そこで、武帝は泣くのをやめてしまった。

また、司馬攸の子の司馬冏が、武帝に「父の病は医師どもが誣告していたものです。

詔で誅して下さい」と訴えると、武帝は要求を聞き入れて典医たちを誅殺した。wikiより

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覚える特殊能力

三国志5 武将 司馬攸

【混乱・収拾・鼓舞・激励・沈着・陣立】

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。 

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。 

発石車  【無】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3 

発石車  【有】 

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 司馬攸

武力【武】30 知力【知】81 魅力【魅】78 政治【政】63

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値12050・勇名0