曹髦(そうぼう)
曹 髦(そう ぼう)は、三国時代の魏の第4代皇帝。
生年 正始2年9月25日(241年11月15日)没年 甘露5年5月7日(260年6月2日)
曹丕の次男
曹髦の才能は幼い頃から抜きん出ていた。
司馬師が密かに人物評を鍾会に訊ね、鍾会は「才能は陳思王と同じほど、武勇は太祖に似ておられます」と評した。
『晋書』華表伝によると、石苞は曹髦を盛んに褒め立て、やはり魏武(魏の武帝=曹操)の生まれ変わりだと絶賛したが、周囲の者は石苞の態度に冷や汗をかいていたという。コレは流石にお世辞なのかも知れませんね
傅暢の『晋諸公賛』によると、曹髦はよく王沈(曹髦に「文籍先生」と呼ばれた)・裴秀(曹髦に「儒林丈人」と呼ばれた)・司馬望・鍾会(この二人も号を持っていたが、伝わっていない)らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。曹髦はせっかちな性格で、人を召集する時にはすぐ来ることを望んだ。他の側近と違い、司馬望は宮中の職ではなかったので、すぐに来ることができなかった。そこで、特別に追鋒車と虎賁の兵卒5人を与え、集会があるたびに、司馬望は車を勢いよく走らせてやって来た。
甘露5年(260年)5月7日、曹髦は側近の王業・王沈・王経に「司馬昭の心は、道行く人でも皆知っている(司馬昭之心、路人皆知也)。
朕はこのまま廃位の恥辱を受ける事はできない。今日こそ卿らと共に打って出よう」と打ち明けた。王経は、司馬氏が強大になって久しく、皇帝の宿衛(近衛兵)の欠員も埋まらない状況での無謀さを諫めたが、曹髦は自ら剣を手に、李昭・焦伯ら数百人の召使いを率いて挙兵した。
しかし、王業・王沈が密告したため、既に司馬昭の懐刀である賈充が、軍勢と共に待ち受けていた。しかし、誰も天子を畏れて斬りかかろうとしなかった。
賈充は部下たちに「司馬公がお前たちを養ってこられたのは、まさに今日のためである」と叱咤し、罪に問わないと約束した上で曹髦を殺害させた。
『晋書』文帝紀では「太子舎人成済、戈を抽きて蹕(さきばらい)を犯し、之を刺すに、刃は背より出で、天子は車中に崩ず」とある。
結局、司馬昭は実行犯の成済に全責任を押しつけ、一族諸共処刑してしまった。
成済は処刑直前、門の屋根に登り司馬昭や賈充を罵ったという話も伝わる。
また、ただ一人密告しなかった王経も、老母共々処刑された。一方、賈充は全く罪に問われなかった。
wikiより
覚える特殊能力
【火計・混乱・収拾・鼓舞・消化・激励】
陣形
【箕形の陣】(きけいのじん)
平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2
【方円の陣】(ほうえんの陣)
平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。
発石車 【無】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3
発石車 【有】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3
【雁行の陣】(がんこうのじん)
平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。
関連兵器なし
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】61 知力【知】34 魅力【魅】57 政治【政】30
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値28863・勇名950