唐咨(とうし)
唐 咨(とう し、生没年不詳)
魏で反乱を起こしたが失敗し、呉に仕えた。呉では厚遇を受け武官として出世した。諸葛誕の反乱の援軍に派遣されたが敗れて降伏し、魏に再び帰参した。
魏の曹丕(文帝)の時代である黄初年間、利城郡において反乱が起き、太守が殺害された後に唐咨が反乱の指導者として祭り上げられた。
しかし、曹丕が派遣した追討軍により反乱は鎮圧されてしまった。このため唐咨は船で海中に逃走し、呉の孫権を頼って落ち延びた。
その後頑張って出世する。
唐咨は孫綝の命令を受け文欽と共に呂拠を攻撃し、これを滅ぼした。呉においては左将軍にまで出世。
甘露2年(258年)5月、魏に対し反乱を起こした諸葛誕への援軍の将の1人として、文欽らと共に寿春に籠城し魏軍と戦ったが、魏の包囲陣の前に呉の後続の援軍が断れたため、城中に孤立した(諸葛誕の乱)。
甘露3年(259年)3月、寿春が落城し唐咨は捕虜となった。
魏の司馬昭は諸葛誕・文欽・唐咨を三人の謀反人と呼び、魏の人達も唐咨が捕虜になったことを嘲笑した。
しかし、司馬昭が唐咨を赦免し安遠将軍に任じるなど、厚遇を与えたため、人々は司馬昭の徳を賞賛したという。
なお、他の呉からの降伏者も同様に厚遇を受けたため、呉側も彼等の家族を処刑するようなことはしなかったという。
景元3年(262年)冬、司馬昭は腹心の鍾会を仮節・都督関中諸軍事・鎮西将軍に任命し、蜀漢攻撃の準備をすすめる一方で、東方の州に船の建造を命じた。
さらに唐咨に命じて大型の海上船を建造させ、表向きは呉攻撃の準備に見せかけようとしたという。以後の事績は不詳である。
小説『三国志演義』でも、諸葛誕の反乱における援軍の将として登場し、魏軍に敗れて呉に戻ろうとするが、孫綝に処刑されることを恐れ、司馬昭に投降したことにされている。
なお、呉に残していた家族は孫綝によって処刑されてしまう。後の蜀討伐にも参加している。wikiより
覚える特殊能力
【混乱・同討・収拾・鼓舞・水計・火矢】
陣形
【箕形の陣】(きけいのじん)
平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2
【水陣】(すいじん)
水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。
新兵器『楼船』を開発・【無】
攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2
新兵器『楼船』を開発・【有】
攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】61 知力【知】47 魅力【魅】50 政治【政】42
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値35950・勇名0