三国志5 武将 陳羣

陳羣(ちんぐん)

三国志5 武将  陳羣

陳 羣(ちん ぐん、? – 237年)

魏国の法制度の整備に従事し、政略面で活躍した。特に九品官人法は、隋代に科挙が本格的に施行されるまで、各王朝の人材登用の基本方式となった。

清流派に属する名家に生まれ、祖父・父・叔父ともに皆名声が高かった。

陳羣は幼いころから祖父に認められ、将来において一族を盛んにする人物であろうと期待された。

孔融は自身より年長の陳紀と友人であったため、年少の陳羣の才能を認め、陳紀に改めて挨拶をしたという。このことから陳羣は世間に名を知られるようになった。若い頃は、辛毗・杜襲・趙儼と並んで名が知られていたという(「趙儼伝」)。

ただし、禰衡には認められなかった。

当時、故郷の刺史だった劉備に登用され、州吏の筆頭である別駕となった。

194年、劉備が陶謙死後の混乱する徐州を領有しようとした際は、「南に袁術、西から呂布が徐州を狙うなか、危険である」として反対したが聞き入れられなかった。

まもなく劉備は、袁術と交戦状態になった隙を呂布に衝かれ領地を失ったため、陳羣の言葉を用いなかったことを後悔した。

陳羣は茂才に推挙され、柘(しゃ)県県令に任命されたが、就任せず父と共に徐州へ避難した。

198年、曹操が呂布を滅ぼしたとき、陳羣は平伏し降伏者としてこれを出迎えたという(「袁渙伝」)。

陳羣は曹操に対し、帝位へ就くようほのめかしたことがあったが、曹操には拒絶された(「武帝紀」が引く『魏略』)。

220年、曹丕が王位に就くと、陳羣は昌武亭侯に封じられ、尚書に任命された。

このとき、九品官人法を建議し制定させた。

曹丕が禅譲により即位し(文帝)、魏が成立した際には、群臣達と共に尽力したため(「文帝紀」が引く『献帝伝』)、その功績から重用された。

尚書僕射に昇進し、侍中を加官された後、尚書令に転任となり、潁郷侯に爵位を進めた。

236年に没し、靖侯と諡された。

子が跡を継ぎ、領邑が分割され列侯に封じられたという。243年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。

その中には陳羣も含まれている(「斉王紀」)。

陳寿には「名誉と徳義により行動し、高潔な人柄と高い声望を持っていた」と賞讃されている。wikiより

 覚える特殊能力

三国志5 武将  陳羣

【火計・混乱・収拾・鼓舞・激励・沈着】

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。 

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2 

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。 

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将  陳羣武力【武】35 知力【知】93 魅力【魅】80 政治【政】98

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値37000・勇名2590