張魯(ちょうろ)
張 魯(ちょう ろ、? – 建安21年(216年)
祖父は巴蜀(現在の四川省)の道教教団(五斗米道)の創始者であり、道術で人々を惑わし、道術を学ぼうとする者から5斗の米を受け取ったことから「米賊」とも呼ばれた。その死後は父が継いだ。
父が亡くなると張魯が後を継いだが、父亡き後の巴蜀では、巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発になっていった。
建安16年(211年)、曹操軍の鍾繇が張魯征伐を名目に軍を動かしたところ、関中の有力者の韓遂・馬超らが自分達を攻撃するつもりではないかと疑心暗鬼になり、これに立ちはだかった(潼関の戦い)。曹操は両者を破り、関中を平定したが、張魯にまで攻撃の手をのばさなかった。
建安21年(216年)に死去
小説『三国志演義』では、益州を奪い取ろうとしたり、自ら漢寧王の位を望んだりと、強欲な教祖として描かれている。
馬超が劉璋救援の名目で出陣した時には、張魯は腹心の楊柏(『正史』の楊白に相当)を目付として監察させる。張魯が漢寧王を望んでいたことが理由により、諸葛亮の策略で部下の楊松が買収され馬超と仲違いさせられ、馬超が離反し劉備に帰順してしまう。その時に馬超は部下の楊柏を斬り捨てている。
以後、曹操に漢中を侵攻され、最初は夏侯淵らを撃退していたものの、夏侯淵の奮戦により巻き返され陽平関と多数の兵を失うが、病気で馬超に同行しなかった龐徳と曹操軍が対峙し、一進一退の激戦となる。
曹操はそれを打開すべく、またしても部下の楊松を買収、やむなく龐徳は曹操に帰順している。龐徳を失い戦力が無くなった張魯は、正史同様に城内の貯蔵庫を封印して逃亡。その後、曹操に降伏したが曹操から感服され鎮南将軍に任じられる。なお楊松は君主を売った佞臣として処刑されている。wikiより
覚える特殊能力
【収拾・鼓舞・治療・雨乞・天変・土砂】
陣形
【魚鱗の陣】
平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。
関連兵器なし
攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2
【雁行の陣】(がんこうのじん)
平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。
関連兵器なし
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】62 知力【知】83 魅力【魅】93 政治【政】71
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値50000・勇名5800