歩騭(ほしつ)
歩 騭(ほ しつ、? – 247年)
中央の戦乱を逃れて江東に移った。
貧しかったため、瓜を植えて生活費を稼ぎ、昼は肉体労働に精を出し、若い頃に昼は瓜を売って生計を成し、夜は経書やその解釈をして勉強をした。
このときに行動を共にしたのが広陵の衛旌という人物であった。
あるとき生計を図るために、会稽の焦矯という豪族に取り入らざるを得なくなった。
焦矯が歩騭達を見下してぞんざいに扱ったため、衛旌が屈辱に憤慨したものの、歩騭は平然と応対したという。
孫権が討虜将軍となり将軍府を開府すると、歩騭は召し出され主記・海塩県令となった。
赤烏8年(245年)に陸遜が没すると、翌赤烏9年(246年)その後を受けて丞相に就任した。丞相になっても質素な生活を送り、自身の勉強と子弟の教育に没頭したが、妻子には贅沢をさせていたため批判されたという。
また、西陵での駐屯期間は20年にも達し、その威信は蜀からも敬意を払われたという。赤烏10年(247年)に死去した。
子の歩協が継ぎ、その後は孫の歩璣が継いだ。
しかし軍事的な職務の継承は子の歩闡が務め、引き続き西陵の軍事を任された。
鳳凰元年(272年)、歩闡は孫晧の暴政に不安を感じ晋に降伏し、呉に対して反乱を起こした。
歩闡は数カ月に亘って籠城したが、頼みにしていた晋の援軍が陸抗によって大敗したため、結局鎮圧された。
このため人質として晋に渡っていた孫の歩璿を除いて、一族皆殺しとなった。
小説『三国志演義』では、謀略家の一面を垣間見せたり、孫権が招いた家臣の一人として名前が挙がる。
赤壁の戦いの際の降伏派の家臣の一人として登場するが、諸葛亮に論破・罵倒されている。wikiより
覚える特殊能力
【火計・混乱・同討・鼓舞・消火・陣立】
陣形
【方円の陣】(ほうえんの陣)
平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。
発石車 【無】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3
発石車 【有】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3
【雁行の陣】(がんこうのじん)
平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。
関連兵器なし
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】25 知力【知】83 魅力【魅】71 政治【政】76
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値51000・勇名1900