諸葛恪(しょかつかく)
諸葛 恪(しょかつ かく203年~253年)
父・諸葛瑾や叔父の諸葛亮と正反対な性格だが、才能は若い頃からあった。
諸葛瑾は常に「息子は頭が良過ぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもまたこの子だろう」と嘆いていた。
東興の戦い(とうこうのたたかい)で勝利し、国内の軍事全般の指揮を任されることになり、『建康実録』によると丞相に昇進する。
建興2年(253年)、前年の戦いの勝利に気をよくした諸葛恪は周りの諫めを無視して、大軍を指揮して魏に侵攻し、4月、合肥新城を包囲した。(合肥新城の戦い)
司馬師は毌丘倹・文欽・張特に持久戦を命じた。
彼らは2ヶ月間城を防衛するが、城内では兵の半分が戦死したり病にかかったりして、合肥新城も呉軍に攻め落とされた。
張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守ればその将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた。
諸葛恪はこの言葉を信じ、城への攻撃を中止した。
張特は密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。
諸葛恪はこれに激怒して城を攻めた。
合肥新城は100日経っても攻め落とせなかった。
同年7月、魏の太尉の司馬孚が東征して合肥新城の救援に赴くと、呉軍内部で疫病が流行り始めたこともあり、諸葛恪の軍は撤退し8月に呉に帰還した。
諸葛恪はこの戦の失敗と相次ぐ独断専行のため人望を失ってしまう。
そして同年10月、孫峻らのクーデターにより殺され、諸葛瑾の心配した通り諸葛恪と弟の諸葛融の一族は皆殺しにされてしまう。
諸葛恪の死体は葦のむしろに巻かれ、丘陵地帯に投げ捨てられた。
後に諸葛恪の元部下達が諸葛恪の遺体を回収して埋葬した。wikiより
覚える特殊能力
【鼓舞・雨乞・消火・占卜・激励・水計】
陣形
【魚鱗の陣】
平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。
しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。
関連兵器なし
攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2
【偃月の陣】(えんげつ)
平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。
関連兵器はなし
攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2
【水陣】(すいじん)
水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。
新兵器『楼船』を開発・【無】
攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2
新兵器『楼船』を開発・【有】
攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】53 知力【知】93 魅力【魅】74 政治【政】80
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値33039・勇名2320