三国志5 武将 張繡

張繡(ちょうしゅう)

三国志5 武将 張繡張 繡(ちょう しゅう、2世紀頃? – 建安11年(207年))

建安元年(196年)、季父が南陽郡の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死したために、その軍勢を張繡が継ぐ事となった。

その後、新たに参謀として加わった賈詡は、張繡に対し「将軍(張繡)は軍才に優れておられるが、曹操には及ばない」と語ったと言われる。

張繡は賈詡の進言に従い、賈詡を派遣して劉表と同盟を結んだ。

張繡は宛に駐屯し、劉表軍と合流した。

建安2年(197年)春、曹操が南陽郡に侵攻し淯水に陣営を置くと、張繡は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。

ところが、曹操が亡き季父の張済の妻であった未亡人を側妾にしたために、張繡は恨みを抱くようになった。

曹操は張繡が恨んでいる事を知ると、密かに張繡を殺害する計画を立てた。

しかし張繡はこの計画に気づくと、賈詡の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。

この奇襲で張繡は、曹昂・曹安民・典韋などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。

曹操が舞陰に撤退すると、張繡は騎兵を引き連れて舞陰を攻めたが、撃退された。

このため張繡は再び劉表と同盟を結び、穣に駐屯した。

曹操が許昌に帰ると、南陽郡の諸県は曹操に反逆し、再び張繡に味方する事になった。その後も、張繡・劉表は曹操と抗争を続けた。

建安3年(198年)に曹操が穣に攻め寄せた時は、劉表の派遣した援軍のおかげで、張繡は勝利した。

曹操は張繡に退路を絶たれたので、撤退すらままならなくなったが、伏兵を用いて張繡軍を大いに破った。

曹操軍の荀攸によれば、張繡軍はまるで劉表軍の遊撃隊のようであり、また劉表に食料を頼っていたという。

建安4年(199年)11月、当初張繡は袁紹からの同盟の誘いを受けるつもりであったが、賈詡から「大勢力たる袁紹との戦いを控えた今の曹操は、味方になる勢力を必ず厚遇するでしょう」と進言され、これに従って曹操に帰順し列侯に封じられた。

帰順後、張繡の娘は曹均の妻として迎えられている。

建安5年(200年)、官渡の戦いで武功を挙げ破羌将軍に昇進した。

また曹操に従い袁譚を破ったため、加増を受けて領邑が合計2,000戸になった。

しかし建安12年(207年)、柳城の烏桓征伐中に陣中で病死した。

 

小説『三国志演義』にも登場し、ほぼ正史通りの活躍を演じているが、曹操に降伏した後は登場しない。賈詡の進言を良く聞く人物として描かれている。wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 張繡【火計・伏兵・激励・火矢・奮迅・速攻】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 張繡武力【武】75 知力【知】69 魅力【魅】79 政治【政】58

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値30000・勇名4600