喬玄(きょうげん)
橋 玄(きょう げん、永初3年(109年) – 光和6年(183年))
若くして県の功曹となった。時の豫州刺史周景が梁国に至ったとき、橋玄は周景に面会すると地に伏して陳国相羊昌の罪悪を申し述べ、自分を陳国従事に任命して徹底的に取り調べさせてくれるように乞うた。
周景は橋玄の決意を壮として、従事に任じると陳国へ派遣した。
橋玄は羊昌の賓客をことごとく収監し、臧罪(贈収賄罪)の罪状で取り調べた。
大将軍梁冀は日ごろから羊昌と親交があり、檄を発して橋玄を召喚しようとしたが、橋玄は取調べをますます厳しくして、遂に羊昌を檻車で洛陽へ送った。
この一件で橋玄は世に名を著した。
病により光和6年(183年)に死去。享年75。
橋玄が死ぬと家には生業が無くなり、喪中に殯も行われなかった。
橋玄は、洛陽に召されて間もなく無名の曹操の訪問を受けてその様子に感嘆し、「私は天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった。君は善く自らを持せよ。私は老いた、願わくば妻子を託したいものだ」と語っている。
このため曹操の名は知れ渡ることになった。建安7年(202年)、曹操が軍を率いて橋玄の墓の傍を通ったとき、人をやって太牢の儀礼でもって橋玄を祀り、自ら祭祀の文を奉げている。
小説『三国志演義』には、喬玄の名前で第一回に唯一登場する。
曹操の才能をほめたたえている。
四十四回で、「江東の二喬」(大喬、小喬)の父親として、喬公と呼ばれる人物が登場する。大喬は孫策の妻に、小喬は水軍大都督・周瑜の妻になったため、喬国老とも呼ばれる。呉を訪れた劉備の人品に感嘆し、孫権との対立を避けるため孫権の腹違いの妹・孫夫人を劉備に嫁がせるのに協力した。
この喬公の本名は明確に語られない。
前文の喬玄とは関係が不明であり、諸葛亮は二喬は民間の女子だと言っている。しかし、同作中で曹操が「かつて喬公と契りを交わした」と述べて二喬を自分のものとする理由の一つにしており、設定が矛盾している。wikiより
覚える特殊能力
【火計・混乱・同討・鼓舞・消火・激励】
陣形
【箕形の陣】(きけいのじん)
平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2
【方円の陣】(ほうえんの陣)
平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。
発石車 【無】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3
発石車 【有】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】30 知力【知】52 魅力【魅】77 政治【政】70
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値60000・勇名2600