三国志5 武将 張遼

張遼(ちょうりょう)

三国志5 武将 張遼張 遼(ちょう りょう、165年または169年 – 222年)

後漢末の動乱期に丁原・董卓・呂布に仕えた後、曹操の配下となる。

 

若い頃に郡吏となり、武力が常人を越えていることから并州刺史の丁原に見出され、従事に採り立てられた。

後に兵士を連れて洛陽に上り、何進の命で河北に赴き、募兵で1000人を集めて帰還した。しかしその時には、既に何進は宦官に殺害されていた。

張遼は兵を率いたまま、丁原らを排除して実権を掌握した董卓の配下となり、董卓が王允と呂布に暗殺されると、呂布の配下となった。

 

呂布が下邳で曹操に敗れて処刑されると、張遼は麾下の将兵と共に曹操に降伏。

 

黄初2年(221年)張遼は雍丘に駐屯し、病気に罹った。

 

黄初3年(222年)、再び反乱を起こした孫権を討つため、曹丕は張遼に命令し、曹休と共に海陵に行き、長江の畔に布陣する事を命令した。

張遼は病身であったが、孫権は「張遼、病むと雖も当るべからず(「張遼伝」)。これを慎め(張遼が病んでいるのだとしても、軽々しく挑んではならず、これには危機感を持って当たらなければならない)」と言い。

張遼は曹休や臧覇と共に呂範を破った。

後に呉軍は臧覇を反撃して破り、尹魯を討ち取ったが、曹休と張遼などが呉軍に打ち破られ、その後、病が重くなり江都で死去した。

曹丕は涙を流しその死を悼んだ。剛侯と諡され、子の張虎が爵位を継いだ。

 

小説『三国志演義』の第十一回に呂布の武将の「八健将」として登場する。

 

呂布が曹操に破れた際に(下邳落城の場面)、劉備に「かかる誠の士こそ取り立てて然るべき」と止め、関羽も「それがし、文遠殿が忠義知る者。

命を懸けてお引き受けいたします」と助命を懇願したことで、曹操も「戯(ざ)れてみただけだ」と戦袍(せんほう、ひたたれ)を張遼に与え、これに感激した張遼は降伏の意を示し、以後、曹操の配下となる。

曹丕の呉征伐の親征に徐晃と共に従い、徐盛の偽城の計略に驚いた曹丕が退却するのを護衛する最中、兵を伏せていた丁奉の矢を腰に受け、その傷が原因で死去している。wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 張遼【同討・火矢・速攻・遠矢・沈着・応射】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 張遼武力【武】95 知力【知】88 魅力【魅】85 政治【政】68

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値33000・勇名7070