三国志5 武将 太史慈

太史慈(たいしじ)

三国志5 武将 太史慈太史 慈(たいし じ、166年 – 206年)

若くして学問を好んだ。身の丈は七尺七寸(約177cm)で武勇に優れ、美鬚美髯で、弓を扱えば百発百中の名手であった。

 

太史慈が遼東郡に逃走し、この留守の間、彼の母の面倒を孔融が見たという。

その恩に報いるため、孔融が黄巾軍の残党である管亥に攻められた時、太史慈は救援に駆けつけた。

 

救出された孔融は、以前にも増して太史慈を尊重し「あなたは我が若き友だ」と称揚した。

一連の事態が収まると太史慈は母親にこのことを報告した。

母親も「あなたが孔融殿に恩返しできたことを嬉しく思います」と太史慈を讃えた。

 

孔融を助けた後、太史慈は同郷の揚州刺史であった劉繇に目通りする。

 

孫策が軍勢が攻めて来た。

 

太史慈を大将軍に任命して当たらせれば、と進言する者もいたが、劉繇は「子義(太史慈)殿を使ったりすれば、許子将殿が私の事を笑ったりされないだろうか」と心配し、太史慈には偵察任務だけを与えた。

太史慈がただ1騎で孫策軍を偵察していると、韓当、宋謙、黄蓋ら13騎を従えた孫策に遭遇した。太史慈は刀を前に構え、孫策に正面から打ちかかった。

孫策は太史慈の馬を刺し、太史慈がうなじに巻いていた手戟を掴み取ると、太史慈は孫策の兜を取った。

このとき両軍の騎兵が殺到すると2人は軍とともに引き下がった。

 

劉繇は孫策に敗れ劉繇は敗走し、太史慈は自ら兵士をまとめ抵抗したが孫策に捕らえられ、彼の武勇を認めていた孫策は、太史慈の縄を自ら解き、呉郡に戻ると兵を預けた。

 

劉繇が病死したことを知ると、太史慈は「残兵を掻き集めてくる」と言って孫策の下から離れた。

 

太史慈は約束通り残党兵を掻き集めて戻った。

 

孫策・孫権から重用された。

曹操が太史慈の噂を聞いて、是非家臣に迎えたいと考え、「当帰」という薬草を贈り好条件で誘った(「当帰」は「故郷(青州)に帰るべし」という意味を含んでおり、当時曹操が既に青州も勢力下においていたので、つまり「私の元に来い」という暗示だった)が、太史慈は孫権への忠義を選んで拒絶したという。

 

正史では、赤壁の戦い前の206年に41歳で死去した。

 

小説『三国志演義』では、赤壁の戦いでも存命して大いに活躍している。

また翌年には合肥の戦いで張遼と一騎打ちを演じ、引き分けた。

つぎに太史慈が部下の戈定を潜り込ませ、魏軍の混乱を引き起こそうとするも、逆に張遼の計にかかり誘いこまれて矢傷を受ける。

陸遜、董襲に救われて辛くも撤退するも、その矢傷がもとで死去している。wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 太史慈【水計・火矢・乱射・速攻・無双・遠矢】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 太史慈武力【武】96 知力【知】67 魅力【魅】72 政治【政】39

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値28859・勇名 3889