諸葛亮(しょかつりょう)
諸葛 亮(しょかつ りょう、181年 – 234年)
祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊。
父の諸葛珪は泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。
年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾(異母兄説がある)、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均。
まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に叔父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。
『三国志』本伝では劉表の元に身を寄せたとなっている。
これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。
その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで『梁父吟』を歌っていたという。
この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平(太尉・崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。
この時期の他の学友に石韜や孟建がいる。
また、この時期に地元の名士の黄承彦の娘を娶ったようである。
晴耕雨読(せいこううどく)
晴れた日には外に出て田畑を耕し、雨の日には家にこもって読書をすること。
三顧の礼で劉備が諸葛亮を登用。
赤壁の戦いで呉と同盟を組み勝利する。
入蜀、夷陵の戦いで劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に崩御した。
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯、開府治事、益州刺史を兼ね、政治の全権を担った。
馬謖を死罪に陥れた説もある。
劉備の没後、益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしていたが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡をことごとく平定した。
この地方の異民族に漢代を通じて始めて税を課す事に成功して財物を軍事に充て、蜀の財政は大いに潤った。
北伐
建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。
諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。
諸葛亮は病に倒れ、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。
享年54。
諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点はある。
wikiより
覚える特殊能力
【火計・天変・落石・占卜・沈着・反計】
陣形
【鶴翼の陣】(かくよく)
平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2
【魚鱗の陣】
平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。
関連兵器なし
攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2
【雁行の陣】(がんこうのじん)
平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。
関連兵器なし
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
【水陣】(すいじん)
水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。
新兵器『楼船』を開発・【無】
攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2
新兵器『楼船』を開発・【有】
攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】60 知力【知】100 魅力【魅】97 政治【政】96
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値30050・勇名4684