龐徳(ほうとく)
龐 徳(ほう とく、170年? – 219年8月)
馬騰・馬超父子の配下で、曹操に敗れた馬超が漢中の張魯に身を寄せた時もこれに従ったが、そこで馬超と袂を分かち曹操に仕えた。
211年、馬超が渭南で曹操に敗れると、馬超に従って漢陽へ逃げ込み、冀城に入った。後に、再び反乱を起こして敗れた馬超に従い、漢中へ落ち延び張魯に従った。
馬超は更に出奔し劉備に仕えたが、龐徳はそのまま張魯の下に留まった。
215年、曹操が漢中郡を平定した時、張魯と共に曹操に降伏し、その家臣となった。
曹操は龐徳の勇猛さを知っていたため、立義将軍に任命して関門亭侯に封じ、所領数を300戸とした。
関羽と戦って矢をその額に命中させた。
当時、龐徳が白馬に乗るのを常としていたため、関羽の軍勢は龐徳を白馬将軍と呼んで畏れた。
関羽軍に対して苛烈な抵抗を続けながら小舟に乗り、決して諦めずに曹仁の元に帰還しようとした。しかし、水の勢いで龐徳の小舟が転覆してしまったところを、ついに捕縛された。
降伏を勧めたが、龐徳は「我は国家の亡霊となったとしても、賊将などにはならぬ」と述べ関羽によって首を討たれた。
曹操は、龐徳の最期の言葉を聞いて涙を流して悲しんだという。
またこの時に、宿将の于禁が関羽に降伏してしまった事と、龐徳の死に様を対比し「わしが于禁を知ってから30年になる。
危機を前にし困難に遭って、(忠義を貫いた)新参の龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」とも語ったという(「于禁伝」)。
小説『三国志演義』においては馬騰が謀殺された後、曹操への報復の兵を挙げた馬超軍の部将の1人として登場し、馬岱と共に馬超に忠実につき従い、しばしば参謀役としても進言している。
張魯に身を寄せた馬超が劉備との戦いのために益州に出陣した時は、病気により同行できなかったため、馬超が劉備に降った後も張魯の元に留まる事になる。
陳武を激しい一騎討ちの末に討ち取る。
関羽征討戦では、新参ということで将軍が于禁、副将が龐徳となるものの、両者の折り合いは険悪で、意思の疎通を欠いてしまう。
初め龐徳が関羽の左腕に矢を命中させるなど、戦局を優位に進めていたが、于禁は功を焦ったのか撤退命令を出している。
このため関羽にこの隙を突かれ、水攻めを喰らって大敗し、于禁・龐徳共に生け捕られる事になる。
この時、龐徳を水の中で捕らえたのは周倉という事にされている。
その後は史実同様、龐徳は忠義を貫き通し関羽の手によって処刑されている。
于禁は命乞いして降伏し、後に呉により本国に送り返される事となる。
wikiより
覚える特殊能力
【奮迅・乱射・速攻・無双・強行・騎射】
陣形
【偃月の陣】(えんげつ)
平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。
関連兵器はなし
攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2
【鋒矢の陣】(ほうし)
山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。
新兵器『戦車』を開発・【無】
攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2
新兵器『戦車』を開発・【有】
攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2
【長蛇の陣】(ちょうだ)
山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。
新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】
攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】97 知力【知】70 魅力【魅】72 政治【政】41
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値29373・勇名2665