三国志5 武将 袁紹

袁紹(えんしょう)

三国志5 武将 袁紹袁 紹(えん しょう、? – 建安7年5月21日〈202年6月28日〉)

後漢時代に4代にわたって三公を輩出した名門汝南袁氏の出身で、袁逢・袁隗の次の世代の人物。

 

何進の掾(属官)【事務処理機構の長官】に召される官吏の職務に就く。

 

189年5月霊帝が崩御し、十常侍ら宦官勢力の一掃を袁術と図り袁紹は、董卓ら諸侯の軍勢を洛陽に召集する。

 

この策は何進に採用される。

 

これが後に董卓と諸侯の権力闘争につながる。

 

何進は袁紹を司隷校尉に任じて、兵権を与え洛陽の武官の取りまとめを任せ、また虎賁中郎将の袁術に命じて宦官から武力を取り上げようとした。

 

しかし、時機を逸した上に秘密が漏れ、逆に何進は宦官に暗殺された。

 

そして、袁紹は宮中に兵を進め、宦官を老若の区別なく皆殺しにした。

 

董卓が混乱に乗じて洛陽に入り、武力を背景に朝廷の実権を握ると、袁紹と董卓の間に確執が生じる。

 

董卓が少帝の廃立を諸侯に提議すると、袁紹はこれに反対して席を立ち、そのまま冀州に逃亡した。

 

初平元年(190年)正月、橋瑁の呼びかけ、各地の刺史や太守が打倒董卓の兵を挙げた。

 

袁紹は同盟軍(反董卓連合軍)の盟主に推薦される。

 

だが、袁紹は董卓軍の強さを恐れ、果敢に洛陽を攻めようとはしなかった。

 

そのため、決戦を主張する曹操らから批判された。

(この辺から曹操は袁紹を見限っていたと思われる。)

 

袁紹らの挙兵を受け、董卓は2月に長安へ都をうつし、洛陽に火を放った。

 

袁隗・袁基ら袁氏一門はことごとく処刑された。

 

これに対し袁紹は、董卓が和睦のために送った使者を捕らえ、執金吾の胡毋班らを殺している。

 

191年4月、陽人の戦いの後、敗れた董卓は洛陽を捨てて長安に撤退。

 

洛陽は焦土と化し、また諸侯の間で内紛も起こり、最終的に連合軍は散らばり。

 

挙兵の大義を失った諸侯はそれぞれの根拠地へ戻り、自衛や勢力拡張のため相争うようになる。

 

こうして後漢は、各地に群雄が割拠する内乱の時代に入った。

 

董卓征討軍が解散した後、袁紹は同じ袁家の出身で、勢力を誇る袁術と対立を深める。

(元々、袁術と袁紹は仲が悪かったのかもしれない。)

 

その後、群雄割拠で董卓が呂布に暗殺される。

 

袁紹は公孫瓚を滅ぼし、曹操は呂布を倒し領土を拡大し、中原の二大勢力となる。

(袁紹の領地が【華北】辺り、曹操の領地が【中原】辺り)

 

199年、劉備が徐州にて曹操に反乱を起こし、袁紹に救援を求めてきたが

 

子供(袁尚)の病を理由に断った。

 

200年、官渡の戦い。

 

緒戦こそ白馬・延津で顔良・文醜らが討ち取られるなど出鼻を挫かれたものの、兵力・物資で勝る袁紹軍はじりじりと曹操陣営を圧迫た。

 

陽武から官渡へと曹操軍を破って進軍した。

 

だが、話を戻せば、これは関羽は一時的に曹操に降り、顔良を討ち取った。

 

初めから、劉備の援軍を断らなけでば、勇将を失わず勝てたかもしれない。

 

文醜は荀攸の策略で戦死。

 

荀彧は、上記の孔融に対し「どれだけの武勇であろうと、顔良と文醜は所詮は匹夫の勇。一戦にして生け捕れます」と述べた。

 

秋になり、曹操軍の兵糧の枯渇で兵が疲弊して、袁紹に投降を考えて内通する者が続出した。

曹操は一時的な退却を考え、荀彧に相談していた。

 

袁紹は眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡の四将を淳于瓊に指揮させ、輸送された食糧を備蓄した兵糧庫を守備させようとした。

 

このときに沮授は、淳于瓊に加えて蔣奇に別働隊を指揮させて守備を万全にすることを袁紹に進言したが、またしても受け入れられなかった。

 

これより以前、袁紹は沮授の軍権を削って郭図と淳于瓊に分け与えるなど、袁紹軍の内部は対立が深刻化していた。

 

10月、袁紹陣営の許攸は膠着した戦線を打開するべく、軽装兵を用いて許都を襲撃することを説いたが袁紹に受け入れられず、また家族が罪を犯して審配に逮捕されたことで嫌気がさし、曹操陣営に投降した。

 

許攸は淳于瓊が守る烏巣の兵糧庫の所在を暴露。

 

烏巣の兵糧庫は炎上陥落し、淳于瓊は敗死した。これが大きな打撃となり、さらに曹操の本陣を攻撃していた高覧・張郃らの寝返りなどもあり、袁紹は冀州に敗走した。

 

201年4月、倉亭を守備していた袁紹配下の軍が、曹操軍に破られた(倉亭の戦い)。

 

曹操も袁紹の存命中は河北に侵攻しなかった。

 

建安7年(202年)5月、袁紹は発病し、苦悶の内に血を吐いて死去した。

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 袁紹【混乱・収拾・鼓舞・伏兵・激励・強行】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 袁紹武力【武】81 知力【知】77 魅力【魅】92 政治【政】49

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値46297・勇名6700

三国志5 武将 許攸

許攸(きょゆう)

三国志5 武将 許攸許 攸(きょ ゆう、? – 建安9年(204年))

 

弱年の頃は袁紹や張邈と「奔走の友(心を許しあい危難に駆けつける仲間)」の交わりを結んだという。

 

袁紹配下となった。

建安4年(199年)、田豊・荀諶と並び称されるほどの袁紹陣営の参謀となる。

 

だが、朝廷に対して造反を画策したこと、性格的に金銭への強欲な癖があったことなどから、進言が袁紹に容れられることはほとんどなかった。

 

建安5年(200年)、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠許都と兵站路を襲撃し、曹操軍の死命を制する戦略を進言したが、受け入れられなかった。

 

また、ほぼ時を同じくして、許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されてしまった。

 

曹操軍の荀彧は「許攸は貪欲で身持ちが修まらない」、「審配と逢紀は、許攸の家族の犯罪を見過ごせない」と指摘していた。

 

そして、袁紹を見限り曹操に寝返った。

 

許攸の強い物欲を袁紹が満足させることが出来なかったので、許攸は袁紹を裏切ったとある。

(『三国志』魏書武帝紀)

 

曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言した。

 

成功して烏巣は陥落し、楽進が淳于瓊を斬った(『三国志』魏書楽進伝)。

 

『三国志』魏書武帝紀注に引く「曹瞞伝」によると、鼻を削がれ捕えられながらも潔さを保つ淳于瓊を、曹操は性格を惜しんで処刑することを躊躇した。

 

しかし許攸が「鏡を見れば我々を恨みますぞ」と進言したため、曹操は淳于瓊を処刑したとされる。

 

ただし、「曹瞞伝」は史料としての信憑性に難があることを考慮する必要がある。

 

烏巣攻撃により、曹操軍の勝利は決定的となった。

 

しかし許攸はその功績に驕り、また旧知(少年期の親友であったという)であったことから曹操に馴れなれしい態度を取った。

 

しかも、自分が曹操に味方しなければ冀州攻略はできなかったといつも自慢したため、曹操は内心その態度を嫌悪した。

 

建安9年(204年)、曹操は鄴を攻め落とし審配を斬った。

 

許攸は鄴の東門を通った時、またしても「この男(曹操)はわしを手に入れられなかったら、この門を出入りできなかっただろう」と左右の者に自慢した。

 

この発言を曹操に密告され、処刑される。

 

 

『三国志演義』でも史実通り曹操に寝返っており、死因は、曹操が史実と異なり許攸の自慢を笑って聞き流しているものの、代わりに腹を立てた許褚に殺害されている。

 

つまり、曹操にとって許攸は最早、官渡の勝利のためだけに利用した用無しの存在であり、部将たちもその意図を知った上で、口うるさいだけの許攸を殺害したのだということになっている。

wikiより

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覚える特殊能力

三国志5 武将 許攸【混乱・収拾・鼓舞・消火・落石・激励】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 許攸武力【武】42 知力【知】66 魅力【魅】47 政治【政】78

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値32038・勇名1250

三国志5 武将 公孫瓚

公孫瓚(こうそんさん)

三国志5 武将 公孫瓚公孫 瓚(こうそん さん、 建安4年3月(199年4月))

 

先祖代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、あまり厚遇されなかった。

 

若い頃に、遼西郡の門下書佐に任命された。聡明で、声が大きく、容姿が優れていたという。弁舌さわやかで頭の回転も速く、物事の説明も巧みであったという(『典略』)。

 

太守の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となる。

 

そして侯氏の援助で涿郡の盧植の下で経書・兵学を学んだ。

 

このときの学友に劉備と高誘がいる(蜀志「先主伝」など)。

 

同時に劉寛のもとでも学問を習った。

 

公孫瓚は孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史となった。

数十騎の小勢を率いて城外に出て辺境の砦を巡察したとき、数百騎を率いた鮮卑族の一団を見かけた。これを自ら突撃して半数の手勢を失うも撃退した。

鮮卑はこの後、国境を侵すことは稀になったという。公孫瓚は涿県の令となった。

 

公孫瓚はさらに袁術に密使を送って同盟を結び、劉虞の軍の強奪に加担しようとした。このことがあって、劉虞とは不和となったという。

 

公孫瓚は冀州の住民が袁紹に靡くことに不安を持っていたが、趙雲が義勇兵を引き連れて自分の元を訪れると喜んで歓待したという(蜀志「趙雲伝」が引く『趙雲別伝』)。

 

劉虞は丘力居に対し、懐柔策を用いて張純との離間を謀った。

 

元来、劉虞が徳厚く信望を集める人柄であり、烏桓の間でも人望が厚かったため、丘力居は同年早々に劉虞の下へ帰順した。

 

この劉虞の懐柔による反乱平定の際に、公孫瓚は自身の功績を劉虞に奪われることを恐れ、劉虞と烏桓族の交渉を妨害した。

 

この反乱の経緯から、公孫瓚と劉虞の対立が始まり、それが後に大きな動乱を招く一因となった。

 

やがて劉虞は公孫瓚が乱を起こすことを警戒し、異民族らと連携し数万余の大軍を集め公孫瓚を攻撃した。

 

しかし、劉虞の幕僚である公孫紀が侵攻作戦の詳細を公孫瓚に流すと、公孫瓚は精鋭騎兵数100を選りすぐり、戦闘による被害の拡大の防止に気を取られていた劉虞に対して奇襲をかけて散々に打ち破り、劉虞が居庸に逃れた後も執拗に追撃をかけ、遂に劉虞を捕らえ、薊に連れて帰った(魏志「公孫瓚伝」、『後漢書』「劉虞伝」、「公孫瓚伝」)。

 

この頃、董卓が死去し、長安の朝廷は劉虞に六州を任せようとし使者の段訓を派遣した。

 

公孫瓚もこのとき前将軍・易侯に封じられたが、公孫瓚はさらに段訓を脅迫して劉虞が皇帝を僭称しようとしたと誣告し、劉虞を一族もろとも処刑し、上書して段訓を代わりの幽州刺史とした。

 

公孫瓚は驕り高ぶり、他人の過ちを記憶し、善行を忘れたので、多くの者が害された。

 

劉虞の使者として長安に赴いていた田疇は、劉虞のために哭礼を行ったため公孫瓚に捕らえられたが、後に釈放されている(魏志「田疇伝」)。

 

袁紹は劉虞の子の劉和を擁立し、麴義に命令して鮮于輔らを支援し公孫瓚を攻撃した。

 

公孫瓚は鮑丘の戦いで敗れると、易京城に撤退して籠城することを余儀なくされた。

 

易京城は10年分の兵糧を蓄え、幾層もの城壁を備える堅城であった。

 

1年余りの対峙の末、食糧が尽きて撤退しようとする麴義と劉和の軍に公孫瓚は追撃しこれを大破した。

 

その後も袁紹の軍を防ぎ続けた。

 

袁紹は公孫瓚に降伏を勧告したが、公孫瓚は返事を書かずに軍備を増強し、

 

側近の関靖に自分の力を誇示した。

 

公孫瓚やその諸将はそれぞれが高い楼閣を築き、そこに居住したが、公孫瓚は側近を遠ざけ、下女や側室に囲まれて暮らし、公文書も下から吊り上げさせたという(『英雄記』)。

 

公孫瓚の別将で敵軍に包囲された者が居たが、公孫瓚は救援軍を送らなかった。

理由は「1人を救援すれば、後の大将達が救援を当てにして全力で戦わない様になってしまう。今、救援しない(で見殺しにする)ことで後の大将達は肝に銘じ自ら励む様になる筈だ」

 

これにより自軍の指揮官を殺害して自壊するか袁紹軍に撃破される、袁紹軍は真っ直ぐに易京の門に到達する。(『英雄記』)。

 

袁紹軍が大軍を率い攻め入り、公孫瓚の計画が漏れ、出撃しても伏兵にあい惨敗を喫した。

 

袁紹は地下道を掘って易京を攻め、公孫瓚らが居住する楼閣を突き崩した。

 

最期に公孫瓚は居城に火を放ち妻や子らを刺し殺し、自らも自害して果てた。

 

建安4年(199年)3月のことだった。

 

 

小説『三国志演義』では、反董卓連合の諸侯の1人として登場し、旧知の劉備をいろいろと援助する恩人として描かれている。

 

呂布と一騎討ちに及んで敗れたり、袁紹配下の武将の文醜や麴義に自慢の白馬義従を破られ逃げ回るなど窮地に陥ることが多いが、そのたびに劉備・関羽・張飛の三兄弟や趙雲に救われる。

 

曹操と劉備が英雄を論じた宴席の最中、河北の偵察に赴いた満寵が公孫瓚の敗死を知らせてきたため、劉備は公孫瓚の仇を討つという名目で、袁紹の弟の袁術を徐州で待ち受けることを願い出、曹操の許可を得て再び群雄として自立することになる。

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 公孫瓚【混乱・同討・火矢・速攻・強行・騎射】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 公孫瓚武力【武】86 知力【知】66 魅力【魅】70 政治【政】56

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値32154・勇名3000

三国志5 武将 郭嘉

郭嘉(かくか)

三国志5 武将 郭嘉郭 嘉(かく か、170年 – 207年9月)

 

郭嘉は袁紹の下を訪れたが、袁紹の人格に失望し、既に袁紹に仕えていた同郡の辛評・郭図に袁紹の欠点を警告した後、仕官せずに去った。

 

郭嘉の同郡出身に戯志才という人物がおり、曹操の策謀の相談役として尊重されていたが、早くに亡くなっていた。

 

曹操が戯志才の後継者を誰にすべきか、同じく潁川出身の荀彧に対し相談を持ちかけたところ、荀彧は曹操に郭嘉を推挙した。

 

曹操は、召しだされた郭嘉と天下のことを議論し「わしの大業を成就させるのは、必ずやこの者だ」と言った。

 

また郭嘉も退出するなり「真に我が主君だ」と言って喜んだ。

 

 

198年、曹操は呂布を討伐した際、曹操が退却を決意しかけた時、郭嘉は荀攸と共に(「荀攸伝」)攻囲を継続することを主張した。

思い留まった曹操は沂水と泗水の水を引き込み、下邳を陥落させた。

 

200年、南下を開始した袁紹と曹操は一大決戦に及んだ(官渡の戦い)。

郭嘉もこの戦いに従軍した。

 

曹操が袁紹と官渡で対峙している最中、孫策が許都を急襲する構えを見せたため、人々は戦々恐々となった。

 

だが郭嘉は孫策が江東制圧を急ぐあまり、苛烈な粛清を行ない多くの人間から恨みを買っており、それを警戒してもいないため、近いうちに暗殺されるだろうと予測した。

 

果たして孫策は、狩猟中にかつて殺害した許貢の食客に襲撃され重傷を負い、これがもとで命を落とした。

 

38歳の時、柳城から帰還の後、病を得てそのまま死去した。

 

建安13年(208年)、曹操は南征において疫病に苦しめられ、巴丘において孫権軍に敗戦した(赤壁の戦い)。

 

この時、曹操は「もし奉孝がいてくれたなら、このような負け戦はしなかったろうに」と嘆いている。

 

 

小説『三国志演義』では、荀攸や董昭ら他の軍師たちが正史よりも活躍を減らしている一方で、郭嘉は天才的な洞察力を持つ軍師として描かれており、魏の人物でありながら優遇されている。

 

曹操に仕える事になった経緯は、荀彧が程昱を推挙し、程昱が郭嘉を推挙するという形になっている。

 

そして郭嘉自身は劉曄を推挙している。

 

遺言により、公孫康が袁尚兄弟の首を送ってくることを予想している

(正史では、曹操自身が予想している(「武帝紀」))。

wikiより

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覚える特殊能力

三国志5 武将 郭嘉【火計・混乱・同討・速攻・沈着・反計】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 郭嘉武力【武】32 知力【知】98 魅力【魅】92 政治【政】91

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値24144・勇名4283

三国志5 武将 丁原

丁原(ていげん)

三国志5 武将 丁原丁 原(てい げん、140年? – 189年)

原は寒門の出身。人となりは粗略で、官吏としての能力は少なかったが、武勇に秀で騎射を得意とした。

 

命令を受ければ難を避けず、賊を追う際にはいつも先頭に立った。

 

南県の官吏を経て、并州刺史や騎都尉を務め、この頃に呂布を属僚に採り立てている。

 

霊帝の死後、宦官誅殺を目論む何進によって董卓・橋瑁らとともに洛陽に召し寄せられた。

 

何進は命令を偽り丁原に孟津へ兵を放たせ、賊徒「黒山伯」の仕業と称し、これをもとに宦官を誅殺するよう何太后に圧力を掛けた。

 

孟津が燃えさかる光景は洛陽城内まで届き、何太后は恐れ慄いたが、宦官を排除するには至らなかった。その後、執金吾となった。

 

何進と宦官勢力が立て続けに排除されると、丁原もまた董卓の手引きで呂布に殺害され、彼の配下の兵は呂布に従って董卓軍に吸収された。

 

また、当初董卓の兵は三千に過ぎなかったが、何進・何苗・丁原の兵を立て続けに吸収したことでその勢力は大いに膨らみ、以後朝廷の実権を掌握することにつながっていった。

 

『三国志演義』

呂布によって董卓を苦しめるが、史実と同じく李粛に唆されて内応した呂布によって殺害されてしまう。

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 丁原【収拾・激励・火矢・速攻・遠矢・強行】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 丁原武力【武】79 知力【知】55 魅力【魅】69 政治【政】48

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値45204・勇名5340

三国志5 武将 劉焉

劉焉(りゅうえん)

三国志5 武将 劉焉劉 焉(りゅう えん、? – 194年)

子に劉範・劉誕・劉瑁・劉璋。

前漢の魯恭王であった劉余(景帝の第4子)の末裔に当たる。

 

劉焉の先祖は、後漢の章帝時代の元和年間に中原から江夏郡に国替された一族のうち、江夏郡にそのまま移住した分家筋の家だという。

 

学問に励み、人々に学問を教えて名声を博した。(学問の師は祝公)

 

霊帝の時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響により、刺史や太守の支配力が弱体化しているという理由で州牧を設置し、清廉な人物を地方に派遣することを提案した。

 

劉焉は内心では中央の混乱を避けたいと考え、交州の牧に任命される事を期待していた。

しかし、侍中の董扶が益州に天子の気があると密かに告げたため、益州への派遣を望むようになった。

 

劉焉は、賈龍らに迎えられて益州に州牧として赴任し、綿竹県を拠点とした。

 

劉焉は離反した者達を手懐け迎え入れ、寛容と恩恵で住民を懐柔しながら、秘かに独立する構想を持ったという。

 

張魯という宗教指導者に目をつけ、その母を自分の家に行き来させる程の親密な関係を築いた。

さらに張魯を督義司馬に任命し、漢中に派遣して橋を切って道を遮断し、官吏を殺して中央と分断させた。

 

中央には張魯のせいで連絡が取れなくなったと報告をした。

 

その一方で、劉焉に反発した益州豪族らを弾圧し、王咸・李権(李福の父)ら十余人を殺害した。

 

この振る舞いに、かつて劉焉を迎えた賈龍と犍為太守の任岐ら現地の豪族は憤激して反乱を起こしたため、劉焉はこれを鎮圧し、賈龍と任岐を殺害した。

 

征西将軍の馬騰は郿に駐屯していたが、劉焉・劉範父子と手を組び、董卓没後に実力者となっていた李傕がいる長安を襲撃する計画を立てていた。

 

しかし、計画が洩れたため、劉範は槐里に逃亡した。長安を攻撃した馬騰の軍も敗北し、涼州に撤退した。

 

李傕は逃亡中の劉範を追撃し槐里でこれを討ち取り、弟の劉誕も捕虜にされて処刑された。

 

興平元年(194年)、劉焉は、子らの非業の死の悲しみや災害など、相次ぐ不幸が重なったため、その心痛から背中に悪性腫瘍を患い同年に死去してしまった。

 

小説『三国志演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守を務め、その時に劉備らと出会った事にされているが、正史では劉焉が幽州太守(刺史・州牧)に任命された事実は無い。

 

息子の劉璋が劉備を益州に迎え入れて、劉備を遠縁の親族として兄事する伏線となっている。

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 劉焉【火計・同討・収拾・鼓舞・消火・伏兵】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3 

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 劉焉武力【武】36 知力【知】75 魅力【魅】86 政治【政】82

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値48165・勇名4380

三国志5 武将 荀彧

荀彧(じゅんいく)

三国志5 武将 荀彧荀 彧(じゅん いく、163年(延熹6年) – 212年(建安17年))

名門荀家

祖父の荀淑(じゅんしゅく、字は季和)は荀子十一世の孫とされる、儒学に精通し、朗陵県令となったが、当時の朝廷を牛耳っていた梁冀一族を批判し、清廉な道を貫いたため、極めて名が高く「神君」と呼ばれ尊敬を集めた。

 

李固や李膺は、荀淑を師として交際した。

後漢の順帝から桓帝にかけてその名を知られていたという。

荀淑が死んだ時には村人が挙って彼の祠を建てたという。

荀淑には子が八人おり、上から荀倹(じゅんけん)・荀緄(じゅんこん)・荀靖(じゅんせい)・荀燾(じゅんとう)・荀汪(じゅんおう)・荀爽(じゅんそう)・荀粛(じゅんしゅく)・荀旉(じゅんふ)といった。彼らはいずれも評判がよく、「八龍」と称された。

 

荀彧の父は次男の荀緄である。

 

荀彧たちが冀州へ辿り着いたときには、韓馥は袁紹により冀州を奪われていた。

兄弟の荀諶、それに同郷の辛評や郭図は袁紹に仕え、荀彧も上賓の礼で迎えられたが、荀彧は袁紹は大業を成すことの出来ない人物だと判断した。

 

このころ、奮武将軍であった曹操が東郡にいたため、荀彧は袁紹の元を去って曹操の元に赴いた。

荀彧を迎えた曹操は「わが子房である」と大いに喜んだ。

子房とは前漢の張良の字であり、劉邦が智者の張良を幕下に加えて覇をなしたことになぞらえたのである。

初平2年(191年)、荀彧は29歳のときである。

 

清流派の名士であったその人脈や人物眼から、官僚の推挙や人材発掘(同郡の荀攸・荀悦・鍾繇・戯志才・郭嘉・陳羣・杜襲・辛毗・趙儼、他郡の司馬懿・郗慮・華歆・王朗・杜畿)にも力を発揮した。

登用した人材で大臣に昇る者は十数人を数えたという(『荀彧別伝』)。

 

荀彧は袁紹陣営の人物それぞれの弱点を事細かに説明した。

それすなわち、「袁紹軍は兵数は多いが軍法は整っていない。

顔良と文醜の二枚は勇と言うよりか暴に依る大将であり、策略を使えば一度の戦いで生け捕りにできる。

 

田豊は強情で上に逆らい、許攸は貪欲で身持ちが治まらない。

 

審配は独断的で計画性がなく、逢紀は向こう見ずで自分の判断だけで動く」。

 

実際に200年(建安5年)の官渡の戦いに於いて、荀彧が言った通りの経緯を示した。

 

顔良と文醜は荀攸の策にかかって敗れて殺された。

 

田豊は袁紹に気に入られずに本戦前に投獄され、許攸は栄達が望めなくなったので、情報を持って曹操に投降してきた。

 

審配と逢紀は軍内部の派閥争いを深刻化させ、大戦後に三男袁尚を擁立して、袁軍崩壊の直接の要因を作った。

 

荀彧自身は官渡の戦いにおいて、洛陽と許都の行政を仕切るために留守を勤め、後方支援に徹していた。

 

途中曹操が弱気になり、引き上げようかと婉曲に荀彧に諮ってきたことがあった。

 

荀彧はこれに対して、項羽と劉邦の兵糧不足の話を引き合いに出し、退却したい曹操の意図を理解しつつもそれに反対し、必ず袁紹軍に変事があって曹操が奇策を用いる時が来ると励ました。

 

曹操が濡須まで軍を進めようとした時、病気となり寿春に残留した。

そのまま憂悶の内に死去した。

50歳であった。

 

この死には謎が多く、自殺とも言われる。

最後は、曹操から空の箱が渡され、荀彧は用済みだと悟り、自害するといった説もある。

 

三国志演義でも曹操を助ける。

「二虎競食の計」「駆虎呑狼の計」といった奇計を編み出し、程昱・郭嘉・劉曄・満寵・呂虔・毛玠などの知識人を曹操に推挙した。

三国志Three Kingdoms68 中盤の【許都】の場面からも確認できる。

漢の忠臣だったのだから劉備についてれば良かったと思うが、正史では劉備が漢の直系の根拠はなかったとも言えるので、宦官からの曹家に従うのは名門荀家ならありえるのかもしれません。

覚える特殊能力

三国志5 武将 荀彧【火計・混乱・同討・落石・激励・沈着】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 荀彧武力【武】34 知力【知】98 魅力【魅】90 政治【政】95

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値28995・勇名4944

三国志5 武将 華陀

華陀(かだ)

三国志5 武将 華陀華 佗(か だ、? – 建安13年(208年))

中国後漢末期の薬学・鍼灸に非凡な才能を持つ伝説的な医師。

 

高き医徳を積みつつも権力に屈する事を拒んだ事から非業の死を遂げたとされる。

 

徐州で学問を志し、特に『経書』を学んだ。

陳珪により孝廉に推挙されたり、黄琬に招聘されたりしたが、出仕しなかった。

 

養性の術に通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳になるはずだとしたが、見たところは若々しかった。

 

また、華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したとされており、「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行なったという。

 

そのため、民衆から「神医」と呼ばれた。

 

また、屠蘇や「五禽戯」と呼ばれる体操による健康法(導引)の発明者とも言われている。

 

その評判を聴いた曹操の典医となり、持病であった頭痛や目眩の治療に当たっていた。

しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、医者としてしか見られていないことを残念に思っていた。

 

これは当時の医者の社会的地位が低かったためである。そこで、帰郷の念が募って、医書を取りに行くといって故郷に戻り、その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に戻って来ようとしなかった。

 

曹操は調べた結果、妻の病気が偽りと判明したので、これに怒って華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまった。

 

華佗は死ぬ直前に、持っていた1冊の医療書を牢番に与えようとしたが、罰を恐れた牢番が断ると自らの手で焼き捨ててしまった。

 

曹操は名医で頭痛を治せる唯一の人物であった華佗を殺してしまった事、またその事により、庶子ながらその才気煥発な面を愛していた曹沖を治療する事ができず夭折させてしまった事を、後々まで後悔したと言われている。

 

『三国志』華佗伝や『後漢書』方術伝には、彼の行なった数々の治療や診断の例が記録されている。

 

陳登を診察した際、陳登の好物だった膾から感染した寄生虫が胃に巣くっていると診断した。

治療として煎じ薬を2升作って半分ずつ飲ませ、寄生虫を吐き出させた。

 

華佗が3年後に再発すると言うと、果たしてその通りになったが、その時華佗やそれに代わる医者がいなかったため、陳登は死んでしまった。

 

李通の妻が重病にかかると、流産した胎児が残っているためと診断した。

 

李通は胎児がもう降りたと言った。

 

しかし華佗は、胎児は双子であり、もう一人残っているのが病因と診断した。

 

果たしてその通りだった。

 

県の役人の尹正は、手足が熱っぽく、口の中が乾いて、人の声を聞くと苛立ち、小便が通じない、という症状に悩まされていた。

 

華佗は、熱いものを食べ汗が出れば平癒するが、出なければ3日で泣きながら絶命すると診断した。

 

尹正は熱いものを食べたものの汗が出ず、果たして診断通りの死に方をした。

 

軍の役人の李成は、咳に苦しんで時に血膿を吐いていた。

 

診察した華佗は、病原は肺炎ではなく腸炎と診断し、さらに18年後にちょっとした再発があるからと、その分も合わせて粉薬を出した。

 

その5・6年後、李成の親類に同じ症状になった者がいたので、李成の親類は後で華佗から貰って来るからと李成に頼み、予備の薬を融通してもらった。

 

親類は治癒すると、約束通り華佗のいる譙に向かったが、丁度華佗が曹操に捕縛された後だったため、薬が手に入らなかった。

 

薬のない李成は、華佗の診察を受けた18年後に病が再発して死んでしまった。

 

重病に苦しむある郡太守の様子を診たところ、激怒させるのが最も効果的な治療法だと診断した。

 

華佗は高額の薬代を貰いながらも治療を行わず、ついには郡大守の悪口を書いた手紙を残し去って行った。

 

これに激怒した郡大守が数升の血を吐いたところ、すっかり病気が治ってしまった。

 

『三国志演義』での華陀

 

董襲の提案と虞翻の仲立ちにより孫策の元に現れ、宣城にて孫権を救い出すため重傷を負った周泰を治療したり、斬殺した許貢の食客に襲われた孫策を治療したりしている。

 

曹仁との戦闘で毒矢の傷を受けた関羽を治療するため、荊州に自らの意思で出向き、右腕の肘の骨を削ってトリカブトの毒を除いている。

 

この時、関羽は治療中には腕を柱に固定した方がよいとの華佗の提案を断り、酒を飲みながら平然と馬良を相手に碁を打っていたと描写されている。

 

華佗は関羽の強靭さに大いに驚き、関羽もまた黄金百両の礼を申し出たが、華佗は「私がここに来たのは将軍の仁義を慕っての事」と告げ、それを断り去っていった。

 

正史の「関羽伝」にも同様の逸話があるものの、治療した医者が華佗とは書かれていない。

 

また実際の年代から言うと、この事件は既に華佗が没した後の、建安24年(219年)にあたる。

 

その後の第78回で、神木を切った後に頭痛に苦しむようになった曹操に召し出される。

華佗は病根が脳中にあるため、薬の治療は効かないと診断し「まず麻肺湯を飲み、その後に斧をもって脳を切り開き、風涎を取り出して根を除きます」と治療法を告げる。

 

このため曹操が華佗に対し「お前はわしを殺す気か」と怒るが、華佗は関羽が肘の骨を削られても動じなかった事を引合いに出す。

 

しかし曹操は「脳を切り開く治療法など聞いた事がない。お前は関羽と親しかったな。

治療を口実に関羽の仇討ちをしに来たか」とさらに怒り、華佗を投獄して拷問にかけた末に殺してしまう。

 

この時、荀彧が既に死んでいたため、命乞いした人物は賈詡に代えられている。

 

華佗は医書である「青嚢書」を残し、毎日華佗の世話をしていた呉という姓の獄吏(周囲から「呉押獄」と呼ばれている)に死の直前に渡している。

 

しかし獄吏の妻は「たとえ華佗のように医術を極めても、結局は獄死するのでは何もならない」といい、夫の身を案じて焼き捨ててしまう。

 

僅かに焼け残った箇所は、鶏や豚の去勢術などという有り様になっている。

 

華陀の手術については、『三国志』と『後漢書』に記載がある。

 

彼は腹部を開いて患部を切除し、腹腔を洗浄し、切開部を縫合し、薬草の軟膏を塗って傷口の治癒を促した。

 

また、麻沸散とよばれる粉末の麻酔薬を考案し、手術の前にブドウ酒とともに投与して、患者の意識を失わせたとある。

 

その処方の詳細は現代に残っていないが、チョウセンアサガオ・アコニット根・シャクナゲ・ジャスミン根を含んでいたと考えられる。

 

著書は多かったが残っていない。

 

中国では近代までにおいて、手術は儒教の教えに反するとされたため、西洋の医師により考えが導入されるまで行われなかった。

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 華陀【収拾・仙術・鼓舞・治療・占卜・激励】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

 【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。

 関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 華陀武力【武】17 知力【知】96 魅力【魅】79 政治【政】73

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値60000・勇名200

三国志5 武将 車冑

車冑(しゃちゅう)

三国志5 武将 車冑車 冑(しゃ ちゅう、? – 199年)

劉備が曹操の下から離れたとき、徐州刺史の地位にあった。

 

袁術自滅後、劉備が曹操に反旗を翻すと、劉備の襲撃を受けて殺害され、徐州を奪われた。

 

小説『三国志演義』では、曹操から劉備殺害を命じられる。

 

しかしそれを事前に察知した陳登が、関羽・張飛に報告したため、関羽・張飛に曹操軍に成り済まされて車冑軍へ潜り込まれてしまう。

 

このことに気付かなかった車冑は、部下と共に皆殺しとなっている。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 車冑【火計・鼓舞・消火・伏兵・激励・火矢】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 車冑武力【武】72 知力【知】61 魅力【魅】58 政治【政】62

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値29039・勇名630

三国志5 武将 高幹

高幹(こうかん)

三国志5 武将 高幹高 幹(こう かん、? – 206年)

初平2年(191年)、袁紹の命により、荀諶・張導・郭図らと共に使者として冀州牧韓馥の下に赴き、冀州を袁紹に譲らせた。

 

建安7年(202年)に袁紹が死去し、同年9月に曹操が袁譚・袁尚兄弟を攻撃すると、袁尚は高幹と郭援に命令して河東へ進攻させた。

 

高幹・郭援は、密かに関中の馬騰・韓遂と結んだ上で匈奴単于呼廚泉とも合流し、その軍勢を数万にまで膨れ上がらせた。

 

しかし、関中方面を担当する曹操配下の鍾繇が、張既らを馬騰の下に派遣し、馬騰を説得して曹操陣営に引き戻してしまう。

 

このため高幹・郭援の并州軍は、馬騰が鍾繇の援軍として派遣した馬超・龐徳率いる関中軍と、平陽で汾水を挟んで決戦を迎える事となった。

 

鍾繇の予測通り、油断して渡河した郭援が龐徳に討ち取られ、高幹は窮地に陥る事になった。建安9年(204年)8月、曹操が鄴を陥落させると、高幹は呼廚泉と共に并州を挙げて曹操に降伏した。

 

曹操は高幹を処刑せず、そのまま并州の統治を任せており、その後しばらくは曹操に臣従した。

 

建安10年(205年)8月、曹操が幽州の烏桓を討伐する隙を突いて高幹は反逆し、上党太守を捕虜として壷関を閉鎖した。

 

高幹は袁尚が同盟の使者として遣わした牽招を拒否し殺そうとしており、袁氏とは別個の独立活動だった事が窺える。

 

高幹は鄴へ奇襲軍を送り込み、さらに河東郡の衛固、弘農郡の張琰、黒山賊の張白騎(張晟)らが高幹に呼応して諸郡を占領するなど、河北から関中までを巻き込む大規模な作戦を展開した。

 

しかし鄴を守る監軍校尉荀衍は奇襲軍を察知し、全て誅殺した。

 

別働隊の楽進・李典が北道から迂回して高幹の背後を脅かしたので、高幹は敗北して壷関に籠城した。

 

鍾繇・張既・杜畿・賈逵らは、巧みな政略を駆使して衛固・張琰・張白騎らを撃破し、諸郡を奪回した。翌年1月、曹操が自ら大軍を率いて攻めて来ると、高幹は呼廚泉を頼ったが、この時は援軍を送ってもらえなかった。

 

三か月後に曹仁の策で壷関が陥落すると、高幹は荊州の劉表を頼って落ち延びようとしたが、その途中で上洛都尉王琰に殺害され、首級を曹操に献上された。

 

『三国志演義』では、正史での派手な活躍に比べると、かなり地味な役回りでしかない。

 

史実のように関西を衝いたり、一時降伏して再び叛旗を翻したりといった過程が、完全に欠落しているためである。

 

上党で曹操軍相手に懸命に防戦したが、曹操に寝返った呂曠・呂翔の偽降にかかって敗北し、最期は史実通りとなっている。

 

なお呂曠と呂翔は、史実においては高幹と何の接点もない。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 高幹【収拾・鼓舞・消火・伏兵・火矢・速攻】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 高幹武力【武】61 知力【知】61 魅力【魅】70 政治【政】27

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値30137・勇名5825