夏侯尚(かこうしょう)
夏侯 尚(かこう しょう、生年不詳 – 226年)
若いころから計略・智謀に優れていたため、曹丕から高く評価され、親友として身分を越えた付き合いをしたという(『魏書』)。
杜襲は「夏侯尚は人を益しない友人である」と評し、曹操に訴えて夏侯尚を遠ざけようとしたが、曹丕からの寵愛は変わらなかった。
曹丕の皇帝即位後は平陵郷侯に昇格し、征南将軍・荊州刺史・仮節・都督南方諸軍事となった。
この頃、上庸は蜀の勢力下にあったが、宜都太守の孟達は劉封と対立し、孟達が魏に降伏するという事件が発生していた。
夏侯尚は上庸を奇襲することを提案し、孟達・徐晃と共に劉封と太守申耽らを撃破。
上庸・西城・房陵の3郡9県を魏の版図に収め、征南大将軍に昇進した(蜀志「劉封伝」)。
222年、曹丕が自ら宛に行幸し、呉を三方面から攻めようとすると、夏侯尚は諸軍を統括し曹真・張郃と共に江陵を包囲、夏侯尚は呉の諸葛瑾と対峙した。
長江の中州を中心に水陸両軍を展開させた呉軍に対し、夏侯尚は歩騎兵1万を率い下流から密かに長江を渡り夜襲をかけ、併せて敵の水軍を火攻めし、大いにこれを破った。
朱然は江陵城を堅守し(呉志「朱然伝」)、魏軍内で疫病が流行したため、夏侯尚は詔勅により退却せざるを得なかった(『魏志』「董昭伝」)。
224年、夏侯尚は愛妾がいたため、正妻に目をかけなかった。
正妻は宗室の出身であったため、不快に思った曹丕は人をやって妾を殺させた。
すると夏侯尚は悲嘆のあまり精神を病み、埋葬した愛妾を懐かしがって墓を掘り起こすことまでした。
これを聞いた曹丕は腹を立て「杜襲の言葉はもっともであった」と言ったが、やがて後悔して元通り夏侯尚を厚遇した。
225年、病が重くなり洛陽に帰還した。
226年、曹丕は夏侯尚の病床を何度か見舞って、手を握り流涕した。
しかし間もなく没し、悼侯と諡された。
子の夏侯玄が後を嗣いだ。
また、甥の夏侯奉は夏侯尚の所領のうち300戸を分け与えられ、関内侯を賜った。曹丕は詔勅を出して夏侯尚の死を惜しみ、征南大将軍・昌陵郷侯の印綬を送ったという(『魏書』)。
小説『三国志演義』では、曹操と劉備の漢中を巡る戦いにおいて、夏侯淵の武将の一人として登場する。
劉備軍の黄忠と戦って捕らえられ、敵将の陳式との捕虜交換時に、背後から黄忠に矢を射られ重傷を負う。
また兄として夏侯徳が登場している。
その後、上庸の孟達が謀反を起こすと史実通りそれを救援し、劉封を撃退している。
wikiより
覚える特殊能力
【火計・混乱・鼓舞・消火・伏兵・激励】
陣形
【鈎行の陣】(こうこうの陣)
山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。
連弩 【無】
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2
連弩 【有】
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
【箕形の陣】(きけいのじん)
平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】69 知力【知】66 魅力【魅】61 政治【政】52
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値25176・勇名800