公孫瓚(こうそんさん)
公孫 瓚(こうそん さん、 建安4年3月(199年4月))
先祖代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、あまり厚遇されなかった。
若い頃に、遼西郡の門下書佐に任命された。聡明で、声が大きく、容姿が優れていたという。弁舌さわやかで頭の回転も速く、物事の説明も巧みであったという(『典略』)。
太守の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となる。
そして侯氏の援助で涿郡の盧植の下で経書・兵学を学んだ。
このときの学友に劉備と高誘がいる(蜀志「先主伝」など)。
同時に劉寛のもとでも学問を習った。
公孫瓚は孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史となった。
数十騎の小勢を率いて城外に出て辺境の砦を巡察したとき、数百騎を率いた鮮卑族の一団を見かけた。これを自ら突撃して半数の手勢を失うも撃退した。
鮮卑はこの後、国境を侵すことは稀になったという。公孫瓚は涿県の令となった。
公孫瓚はさらに袁術に密使を送って同盟を結び、劉虞の軍の強奪に加担しようとした。このことがあって、劉虞とは不和となったという。
公孫瓚は冀州の住民が袁紹に靡くことに不安を持っていたが、趙雲が義勇兵を引き連れて自分の元を訪れると喜んで歓待したという(蜀志「趙雲伝」が引く『趙雲別伝』)。
劉虞は丘力居に対し、懐柔策を用いて張純との離間を謀った。
元来、劉虞が徳厚く信望を集める人柄であり、烏桓の間でも人望が厚かったため、丘力居は同年早々に劉虞の下へ帰順した。
この劉虞の懐柔による反乱平定の際に、公孫瓚は自身の功績を劉虞に奪われることを恐れ、劉虞と烏桓族の交渉を妨害した。
この反乱の経緯から、公孫瓚と劉虞の対立が始まり、それが後に大きな動乱を招く一因となった。
やがて劉虞は公孫瓚が乱を起こすことを警戒し、異民族らと連携し数万余の大軍を集め公孫瓚を攻撃した。
しかし、劉虞の幕僚である公孫紀が侵攻作戦の詳細を公孫瓚に流すと、公孫瓚は精鋭騎兵数100を選りすぐり、戦闘による被害の拡大の防止に気を取られていた劉虞に対して奇襲をかけて散々に打ち破り、劉虞が居庸に逃れた後も執拗に追撃をかけ、遂に劉虞を捕らえ、薊に連れて帰った(魏志「公孫瓚伝」、『後漢書』「劉虞伝」、「公孫瓚伝」)。
この頃、董卓が死去し、長安の朝廷は劉虞に六州を任せようとし使者の段訓を派遣した。
公孫瓚もこのとき前将軍・易侯に封じられたが、公孫瓚はさらに段訓を脅迫して劉虞が皇帝を僭称しようとしたと誣告し、劉虞を一族もろとも処刑し、上書して段訓を代わりの幽州刺史とした。
公孫瓚は驕り高ぶり、他人の過ちを記憶し、善行を忘れたので、多くの者が害された。
劉虞の使者として長安に赴いていた田疇は、劉虞のために哭礼を行ったため公孫瓚に捕らえられたが、後に釈放されている(魏志「田疇伝」)。
袁紹は劉虞の子の劉和を擁立し、麴義に命令して鮮于輔らを支援し公孫瓚を攻撃した。
公孫瓚は鮑丘の戦いで敗れると、易京城に撤退して籠城することを余儀なくされた。
易京城は10年分の兵糧を蓄え、幾層もの城壁を備える堅城であった。
1年余りの対峙の末、食糧が尽きて撤退しようとする麴義と劉和の軍に公孫瓚は追撃しこれを大破した。
その後も袁紹の軍を防ぎ続けた。
袁紹は公孫瓚に降伏を勧告したが、公孫瓚は返事を書かずに軍備を増強し、
側近の関靖に自分の力を誇示した。
公孫瓚やその諸将はそれぞれが高い楼閣を築き、そこに居住したが、公孫瓚は側近を遠ざけ、下女や側室に囲まれて暮らし、公文書も下から吊り上げさせたという(『英雄記』)。
公孫瓚の別将で敵軍に包囲された者が居たが、公孫瓚は救援軍を送らなかった。
理由は「1人を救援すれば、後の大将達が救援を当てにして全力で戦わない様になってしまう。今、救援しない(で見殺しにする)ことで後の大将達は肝に銘じ自ら励む様になる筈だ」
これにより自軍の指揮官を殺害して自壊するか袁紹軍に撃破される、袁紹軍は真っ直ぐに易京の門に到達する。(『英雄記』)。
袁紹軍が大軍を率い攻め入り、公孫瓚の計画が漏れ、出撃しても伏兵にあい惨敗を喫した。
袁紹は地下道を掘って易京を攻め、公孫瓚らが居住する楼閣を突き崩した。
最期に公孫瓚は居城に火を放ち妻や子らを刺し殺し、自らも自害して果てた。
建安4年(199年)3月のことだった。
小説『三国志演義』では、反董卓連合の諸侯の1人として登場し、旧知の劉備をいろいろと援助する恩人として描かれている。
呂布と一騎討ちに及んで敗れたり、袁紹配下の武将の文醜や麴義に自慢の白馬義従を破られ逃げ回るなど窮地に陥ることが多いが、そのたびに劉備・関羽・張飛の三兄弟や趙雲に救われる。
曹操と劉備が英雄を論じた宴席の最中、河北の偵察に赴いた満寵が公孫瓚の敗死を知らせてきたため、劉備は公孫瓚の仇を討つという名目で、袁紹の弟の袁術を徐州で待ち受けることを願い出、曹操の許可を得て再び群雄として自立することになる。
wikiより
覚える特殊能力
【混乱・同討・火矢・速攻・強行・騎射】
陣形
【錐行の陣】
平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。
強化騎兵 【無】
攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
強化騎兵 【有】
攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
【鋒矢の陣】(ほうし)
山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。
新兵器『戦車』を開発・【無】
攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2
新兵器『戦車』を開発・【有】
攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】86 知力【知】66 魅力【魅】70 政治【政】56
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値32154・勇名3000