三国志5 武将 陶謙

陶謙(とうけん)

三国志5 武将 陶謙陶 謙(とう けん、陽嘉元年(132年) – 興平元年(194年))

幼い頃から好んで学問に励み、やがて太学(官吏養成のための最高学府)に行った。

 

地方に戻ると郡・州の役人となり、やがて茂才に推挙された。

 

盧県県令に任命されたのを皮切りに、幽州刺史に昇進した。

 

中平2年(185年)、中央に召還され議郎となり、韓遂らを討伐するため張温の指揮下で涼州に派遣された。

 

徐州で黄巾党の残党が蜂起したため、徐州刺史に任命され、その討伐にあたった。

 

董卓の死後、李傕・郭汜が長安の朝廷を牛耳るようになると、陶謙は朱儁に太師となることを勧め、諸侯同盟の復活を目論んだが、孔融・鄭玄など一部の太守や学者の賛同しか得られず、まもなく朱儁本人が長安の朝廷への帰順を決めたため、 陶謙の目論見は頓挫した。

 

関東の諸侯が互いに争う中で、陶謙の推挙した王朗が会稽太守に任命されるなど、陶謙は揚州にもその勢力圏を伸ばすようになった。

 

この頃の徐州は豊かな土地であり、流民が戦乱を避けて身を寄せるほどだったといわれる。

 

だが、陶謙は次第に道義へ背くようになり、感情に任せて行動するようになっていった。

 

袁紹・曹操と袁術・公孫瓚が争うようになると、陶謙は公孫瓚に呼応して発干に出陣。

 

だが曹操に敗れる。

 

初平4年(193年)

 

闕宣を殺害しその軍勢を吸収。

 

曹操の父の曹嵩が、陶謙の勢力圏内で殺害されるという事件が起きた。

 

一説には陶謙が殺害したともいわれ、陶謙は兗州を治めていた曹操の仇敵となった。

 

陶謙は曹操の侵攻により領内の十数城を奪われる。

 

陶謙は郯の地でようやく侵攻を押し留めたという。

 

一方の曹操は兵糧を切らしたため撤退した。

 

曹操は各地で男女合わせ数十万人規模の住民を殺戮し、さらに犬や鶏まで残らず殺したため、泗水の流れが堰き止められるほどであったという。

 

これによって、中央の戦乱からの避難民で豊かとなっていた徐州は、壊滅的な打撃を受けた。

 

また、この頃陶謙の配下であった笮融が徐州の経済的中心である下邳・広陵・彭城をもって半ば自立をしたため、陶謙軍が苦境に立たされたとする見方もある。

 

公孫瓚軍の田楷・劉備が陶謙側の援軍に来ていた。

陶謙は劉備を引き留め、豫州刺史に推挙し小沛に駐屯させ、丹陽兵4,000人を与えるなど厚遇した。

 

陶謙は病で重篤に陥り、糜竺に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。享年63。

 

『三国志演義』では、徐州を自分の子ではなく劉備に譲ったことから思慮深い善人として描写されている。

曹操の徐州侵攻を招いた曹嵩殺しについては、曹嵩の財産に目が眩んだ張闓の独断だったとする「呉書」の記述を採用しており、陶謙は被害者として描写されている。

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 陶謙【火計・混乱・同討・収拾・消火・激励】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 陶謙武力【武】31 知力【知】60 魅力【魅】75 政治【政】65

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値48106・勇名4270

三国志5 武将 劉封

劉封(りゅうほう)

三国志5 武将 劉封劉 封(りゅう ほう、? – 220年)

父は寇氏、母は不明。劉備の養子。

元々は寇氏の子で、長沙劉氏の甥であった。

劉備に実子劉禅が生まれる207年以前、当時荊州に滞在し、未だ世継ぎのなかった劉備から養子に迎えられた。

 

212年、劉備が益州攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、諸葛亮・張飛らと共にこの戦いに参加し、随所で武功を挙げた。

 

219年、孟達は劉備に命じられ、房陵を攻略した。

 

孟達は続いて上庸に進軍したが、孟達1人では心許ないと思った劉備は、劉封を漢中から派遣して上庸で合流させ、孟達の軍を統率させた。

 

劉封と孟達は申耽を降伏させ、劉封は副軍将軍に昇進した。

 

同年に樊城で曹仁を包囲した関羽から何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、これを拒否した。

 

その結果、曹仁に援軍を要請された曹操が派遣した徐晃と趙儼と、孫権が派遣した呂蒙の挟撃を受けて関羽は大敗し、後に潘璋配下の馬忠に捕らわれて処刑された。

 

劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。

 

また、劉封は孟達とも対立しており、後に彼の軍楽隊を接収した。

 

220年7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は魏に出奔。

 

魏は孟達を建武将軍・新城太守に任じ、夏侯尚・徐晃と共に劉封を攻めさせた。

 

その際、孟達は劉封の立場の危うさを指摘し、魏に帰順することを促す手紙を送ったが、劉封は従わなかった。

 

しかし、申耽の弟の申儀などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、成都への敗走を余儀なくされた。

 

劉備は、劉封が孟達を魏に奔らせたこと、関羽を救わなかったことを責めた。

 

諸葛亮はこれに乗じて、劉封の剛勇さは次代の劉禅では制御し難くなるという理由から、劉封を除くように進言した。

 

かくして劉封は死を賜る事になった。

 

自決の際、劉封は「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」と嘆いた。

 

これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。

 

『三国志演義』では、樊城県令劉泌の甥で、劉封の器量に惚れた劉備の養子となり、劉禅が生まれた以降に養子に迎えられた設定。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 劉封【火計・混乱・同討・鼓舞・伏兵・火矢】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 劉封武力【武】70 知力【知】61 魅力【魅】70 政治【政】38

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値47106・勇名5848

三国志5 武将 潘濬

潘濬(はんしゅん)

三国志5 武将 潘濬潘 濬(はん しゅん、? – 239年)

劉表・劉備に仕え、両者から有能だと評価された。その後は呉に仕え、孫権からは特に信任され重く用いられた。『三国志』呉志 に伝がある。

 

20歳前後の時、宋忠から学問を学んだ。『呉書』によると、聡明な資質を持ち、人との応対は機敏で、その言葉は理論立っていたとされ、王粲に高く評価されたのを機に、荊州の人士の間で名声を得た。

 

30歳以前の時、劉表に召し出され江夏郡の従事となった。

 

劉備が荊州を治めるようになると、その配下となり荊州の従事を務めた。

 

劉備が益州に入ると荊州に留められ、州の事務を一任される事になった。

 

劉備には信任されていたが、関羽は親交を結ぼうとはしなかったという。

 

建安24年(219年)、荊州は糜芳・士仁が寝返って、孫権に占領された。

 

荊州にいた劉備配下の部将や役人のほとんどが孫権に帰順したが、潘濬だけは自宅に退き出頭しなかった。

 

そのため孫権は潘濬を寝台に括り付けて自分の下に連行させ、自ら親しくその説得に当たり、心服させた。

 

潘濬は輔軍中郎将に任じられ、荊州の軍事を委任された。

 

赤烏2年(239年)死去。

覚える特殊能力

三国志5 武将 潘濬【同討・収拾・鼓舞・消火・伏兵・激励】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 潘濬

武力【武】12 知力【知】67 魅力【魅】40 政治【政】73

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値42200・勇名500

三国志5 武将 麋竺

麋竺 (びじく)

三国志5 武将 麋竺糜 竺(び じく、2世紀頃 - 221年)

妹は糜夫人(劉備の夫人)。弟は糜芳。子は糜威。孫は糜照。

 

糜竺の先祖は代々利殖に励み、家は非常に裕福であった。

 

蓄財を重ねた結果、下僕1万人を抱え、巨億の資産を有していたという。

 

陶謙に招かれ、別駕従事の職にあった。

 

194年、陶謙の死後に遺命を奉じて、小沛に駐屯していた劉備を徐州牧に迎えた。

 

196年、劉備が袁術と抗争し出陣した際、劉備の留守につけ込んだ呂布は下邳を奪い、劉備の妻子を捕虜にした。

 

劉備は広陵に軍を移動させていたが、糜竺は妹を劉備の夫人として差し出すとともに、自らの財産から下僕2千人と金銀貨幣を割いて劉備に与えた。

 

劉備はこのお蔭で再び勢力を盛り返すことができた。

 

劉備が曹操を頼った時、糜竺は曹操に評価され、上奏により嬴郡太守の地位を与えられた。

 

また、糜芳にも彭城の相の地位が授けられた。

 

しかし劉備が曹操に叛くと、糜竺兄弟もそれに従い各地を流浪した。

 

劉備はやがて荊州の劉表を頼ることを考え、糜竺を挨拶の使者に赴かせている。

 

糜竺は左将軍従事中郎に任命された。

 

劉備が益州を得ると安漢将軍に任命されたが、これは当時の諸葛亮を上回る席次の官位だった。

 

劉備に古くから付き従った家臣である孫乾や簡雍よりも上位であったという。

 

柿沼陽平は、先に自らの下僕や財産を提供して窮地の劉備を救ったことが、劉備の寵愛を受けた理由であろうと推測している。

 

糜芳は関羽とともに荊州を任されていたが、219年、職務怠慢を詰られたことから呉に内通し、その軍を迎え入れた。

 

このため荊州に呉軍が侵攻し、関羽は敗死してしまった。

 

糜竺は処罰を請うため自身に縄を打って出頭した。

 

兄弟の罪に連座することはないと劉備に宥められたが、剛直な彼の怒りは収まることがなく、そのまま発病して1年程で亡くなったという。

 

温和で誠実・善良な人柄であったが、人を御するのには長じていなかったため、高く礼遇されたものの一度も軍を率いることはなかった。

 

一方で弓馬に長け、子や孫まで皆がその道の達人だったという。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 麋竺【火計・混乱・同討・鼓舞・消火・落石】

陣形

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 麋竺武力【武】30 知力【知】66 魅力【魅】81 政治【政】79

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値51161・勇名220

三国志5 武将 糜芳

糜芳(びぼう)

三国志5 武将 糜芳糜 芳(び ほう、生没年不詳)

兄は糜竺。妹は糜夫人(劉備の夫人)

はじめは兄と共に陶謙に仕え、次いで劉備に仕えた。

 

なぜ関羽を裏切り呉に寝返ったのか?

 

劉備が益州に入った後、関羽は荊州総督となった。

 

糜芳は南郡太守に任じられ、公安を守る士仁と共に荊州の防衛を任された。

 

しかし関羽が彼らを軽んじていたこともあり、かねてから折り合いが悪かった。

 

219年、関羽が北上して樊城攻略を開始すると、糜芳と士仁は物資補給などを行なうだけで、全力で支援しようとしなかった。

 

また、南郡城内で火事が発生し、軍器を多数焼失したことがあった。

 

これらの不始末を聞いた関羽は「帰ったら処罰してやる」と、糜芳を激しく咎めた。

 

これ以降、糜芳は関羽を恐れるようになり、内心不安になったという。

 

このことを聞いた孫権が糜芳に誘いをかけると、糜芳は孫権と内通するようになった。糜芳は使者をだして孫権の兵を迎え入れた。

 

糜芳は城を守っていたが、先に降伏した士仁が呂蒙と一緒にいるのを見ると、降伏したとの記録もある。

 

降伏、内通の経緯ついては諸説あり、『三国志』関羽伝、呂蒙伝、虞翻伝はそれぞれ内通、降伏に関する記述が若干異なる。

 

これ以後、糜芳は孫権の将軍となり、呉に仕えることになった。

 

蜀→呉→魏に寝返ってました。

 

「呉書」賀斉伝によると、孫権の命で賀斉配下の武将となり、呉から魏に寝返って反乱を起こした晋宗を討伐したという記述がある。

 

『季漢輔臣賛』によると糜芳らは蜀呉二カ国で裏切り者として笑いものになったという。 

 

虞翻と船ですれ違ったことがあった。糜芳の部下が「将軍の船のお通りだ」と言うと、虞翻は「(旧主の劉備に対して)忠信(節義)を守れなかった者が、何によって主君に仕えるというのか。

 

二城(南郡・公安)を任されながらそれを失った者が、将軍を名乗ってよいと思っておるのか」と罵倒した。

 

糜芳は姿を見せず返答もしなかったが、急いで虞翻の船を避けさせた。

 

小説『三国志演義』でも、兄と共に劉備配下として活躍する一方、長坂の戦いでは劉備の家族を取り戻そうと敵中に入った趙雲の行為を、裏切りと早合点し劉備に讒言している。

 

劉備が呉討伐を開始した時、自分と傅士仁を殺して蜀に戻ろうとする荊州出身の兵士を恐れ、劉備の親戚であるから処刑されないと考え、傅士仁と共に馬忠を殺し、その首を手土産にして蜀軍に戻る。

 

しかし、関羽を裏切ったことへの劉備の怒りは収まらず、劉備自らの手で傅士仁と共に斬り殺されている。

 

wikiより

糜芳は三国志 Three Kingdomsでも古参でちょくちょく登場してましたね

覚える特殊能力

三国志5 武将 糜芳【火計・同討・消火・水計・速攻・遠矢】

陣形

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 糜芳武力【武】68 知力【知】40 魅力【魅】22 政治【政】16

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値42009・勇名4380

三国志5 武将 孫乾

孫乾(そんけん)

三国志5 武将 孫乾孫 乾(そん けん、生没年不詳)

陶謙の跡を継いだ劉備の補佐役が、孫乾

 

214年、劉備が益州を領有すると、従事中郎から秉忠将軍に昇進し、糜竺に次ぐ簡雍と同等の待遇を受けたが、間もなく死去した。

 

小説『三国志演義』では、陶謙が臨終時に徐州を劉備に譲ることを決めたとき、劉備を輔佐する人材として孫乾を推挙したことになっている。

 

劉備の文官・外交官として正史以上の活躍を見せるとともに、関羽・趙雲・張飛の助言役として活躍することもあったように描かれている。

 

『三国志演義』よりも古い『三国志平話』では、簡雍に次ぐ古参の1人として劉備の黄巾軍討伐に従っている描写もある。

wikiより

三国志 Three Kingdomsでは張飛が文官の服を着たとき孫乾が冗談を言っていたましたね

覚える特殊能力

三国志5 武将 孫乾【火計・収拾・消火・激励・強行・沈着】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 孫乾武力【武】33 知力【知】75 魅力【魅】90 政治【政】79

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値45000・勇名0

三国志5 武将 徐晃

徐晃(じょこう)

三国志5 武将 徐晃徐 晃(じょ こう、169年 – 227年)

 

元々は楊奉配下の武将だが曹操に帰順する。

 

樊城の戦いでは曹操にこういわせている。

「樊城における状況は、燕が斉の莒・即墨を包囲した時以上に困難なものであった。将軍の功績は孫武・司馬穰苴にも勝る。」

 

太和元年(227年)に病死。

「普段着のまま葬ってくれ」と遺言した。

 

『三国志演義』では、武器は大斧使用する。

白馬・延津の戦いでは、袁紹軍の武将である顔良・文醜の武勇に圧倒されるが、関羽に救われている。

 

毛宗崗は「張遼と徐晃は皆大将の才があり、故に関公(関羽)と親友であった」

 

荊州の戦いでは関平と打ちあって三、四合で敗走させ、関羽と一騎討ちに及んでいる。この時、徐晃は「関羽殿には昔から随分色々と教えてもらっています、恩義は忘れたことがありません。しかし私(わたくし)の恩義と公(おおやけ)の主君の命とは別でござる」といい、八十余合も打ちあった末、怪我をしていたとはいえ関羽を一騎討ちで退けている。

 

最期は、正史三国志で病死した翌年、かつて蜀臣だった孟達が再び帰参する動きを見せたために、司馬懿がその討伐に当たった時、偶々遭遇して同行したが、緒戦で孟達が放った矢が額を貫き、大量出血で絶命するという設定になっている。

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 徐晃【火矢・消火・火矢・乱射・無双・遠矢】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 徐晃武力【武】93 知力【知】68 魅力【魅】63 政治【政】57

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値45124・勇名1965

三国志5 武将 孟達

孟達(もうたつ)

三国志5 武将 孟達孟 達(もう たつ、? – 228年)

父は宦官の張譲に賄賂を贈り、涼州刺史を得た人物として記述が残る。

 

孟達は故郷にいたが、飢饉が起きたため同郷の法正と共に故郷を離れ、益州の劉璋の元に身をよせた。才能・弁舌に優れていたという。

 

荊州を守備していた関羽が北上し樊城を包囲すると、上庸の劉封と孟達も援軍を出すよう求められたが、これに応じなかった。

 

後に、劉封と孟達は劉備に恨まれる。

 

そして孟達は魏に投降する。

 

曹丕の没後に曹叡(明帝)が後を継ぎ、親友の桓階・夏侯尚も亡くなると、降将であった孟達は不安になり、今度は呉と通じようとしていたといわれる。

 

孟達は司馬懿の征伐軍に敗れ斬られた。

 

 

三国志演義では字は子慶とある。

 

劉封に積極的に関羽を見殺しにするよう進言する。

 

(魏)曹丕に付く。

 

更に魏に反逆し司馬懿に城を囲まれ、徐晃を弓で射殺している。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 孟達【混乱・同討・収拾・伏兵・火矢・遠矢】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 孟達武力【武】73 知力【知】72 魅力【魅】44 政治【政】51

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値32100・勇名0

三国志5 武将 劉琮

劉琮(りゅうそう)

三国志5 武将 劉琮劉 琮(りゅう そう、生没年不詳)

劉表伝には、劉表と後妻の蔡夫人に寵愛され、蔡瑁・張允の一派が兄の劉琦を排除して彼を後継者に擁立しようとしたため、劉琦との仲が悪化した。

 

建安13年(208年)の劉表の死後、蔡瑁らの政治工作もあって、兄の劉琦を差し置いて後継者となった。

 

進攻する曹操の軍勢に対抗して荊州を保全する策を配下に尋ねたが、蔡瑁・蒯越・傅巽・韓嵩・王粲らの進言に従い曹操に降伏した。降伏の後は、蔡瑁・蒯越らと共に厚遇され、曹操により青州刺史に任ぜられ、同時に列侯に封ぜられた。

 

後に諫議大夫・参同軍事となった。

 

『三国志演義』では、劉琮は蔡夫人の子で、劉琦の異母弟で、劉表が死亡した時には14歳の若年ながら聡明だったという設定になっている。

 

父の劉表の死の隙を突いて曹操が南下を開始すると、傅巽が降伏を主張し、劉琮は最初これに抵抗するが、蒯越・王粲らの説得に従い降伏を決意する。

 

降伏後の劉琮は、曹操によって青州に刺史として向かう途上で于禁に殺害されている。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 劉琮【火計・収拾・鼓舞・消火・落石・激励】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2  

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 劉琮武力【武】30 知力【知】60 魅力【魅】78 政治【政】61

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値24200・勇名0

三国志5 武将 陳登

陳登(ちんとう)

三国志5 武将 陳登陳 登(ちん とう、生没年不明)

字は元龍。

誠実であり思慮深く、文学的才能にも秀でていたため、25歳で孝廉に推挙され、東陽県長となった。

 

老人を労わり、孤児を養育するなど、民衆のためになる統治を行なった。

 

その後、飢饉が勃発すると、陶謙に推挙されて典農校尉となり、どのような作物がその土地に育つのかよく調べ、堀を造り灌漑を整備したので、稲が豊かに実り貯えられた。

 

陶謙の死後は劉備に仕えた。このとき、陶謙の後継となることを躊躇する劉備に対し、積極的に徐州の主となるよう勧めたという(「先主伝」)。

後に、徐州が呂布によって奪取されると呂布に仕えた。

しかし、陳登は父と同じく密かに呂布を嫌っていたという。

 

袁術が呂布と縁組を結ぼうと韓胤を遣わして来た時、当初は乗り気であった呂布を父が説得し、袁術と絶縁させた。

 

韓胤を捕らえて曹操の下へ送り、斬らせている。

 

陳登は呂布に曹操と結ぶよう勧めた。呂布は乗り気ではなかったが、曹操が朝廷に働きかけ呂布を左将軍に任じさせると、喜んで使者の派遣に同意した。

 

使者として赴いた陳登は、曹操に対し「呂布を早く滅ぼすべき」と進言した。

 

これを聞いた曹操は陳珪父子に信頼を寄せるようになり、陳登を広陵太守に任命し、密かに徐州の安定を委ねた。

 

呂布は、自身が徐州牧に任じられることを期待していたが、陳登だけが官職を得て戻ってきたことから不審を抱いた。しかし陳登は呂布を鷹に例えて誉めそやし、気持ちを抑えさせたという。

 

陳登の統治下、広陵の治安が安定したため、陳登は人々に畏怖・敬愛された。

 

曹操が呂布を攻めて下邳まで進軍してきた時、陳登は曹操に帰順して呂布討伐の先駆けを務めた。

呂布が籠る下邳城には陳登の弟3人がおり、呂布は彼等を人質として利用し陳登に圧力をかけた。

しかし陳登は屈することなく、呂布への包囲を次第に狭めていった。

 

まもなく城内から裏切り者が出て、陳登の弟らを連れて脱出した。

 

呂布が滅亡すると、その功績により伏波将軍となった。

 

呂布討伐後、陳登は長江・淮水流域で非常に人望が厚かったので、江南を併合する野望を抱くようになったという。

 

その後、東城太守に転任したが、広陵の民衆が陳登を慕い付いて行こうとしたため、陳登はこれを立ち戻らせたという。39歳で死去した。

 

時期は不明だが、まだ広陵太守であったころ、陳登は魚の膾を食し、それゆえ胃に寄生虫が湧いてしまったことがあった。

 

このときは華佗の投薬によって一度は治癒したが、華佗は3年後にこの病気が再発することを予言し、良い医者を側におくよう忠告した。

 

それから3年後、果たして病気が再発したが、そのとき既に華佗が不在であったため、陳登は病死してしまったという(「方技伝」)。

 

小説『三国志演義』では一貫して親劉備の人物として描かれる。

 

陶謙配下の一人として劉備を後継に迎えようと尽力し、以後も父とともに劉備に忠義を尽くし続け、劉備の敵である袁術や呂布を徐州から排除するために策略を巡らす。

 

曹操の任命した車冑の殺害にも協力するが、曹操が劉備らを徐州から駆逐すると降伏している。

 

その後は、華佗の患者の一人として名だけが登場する。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 陳登【火計・同討・収拾・消火・伏兵・沈着】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 陳登武力【武】40 知力【知】71 魅力【魅】73 政治【政】70

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値32148・勇名200