袁術(えんじゅつ)
袁 術(永寿元年(155年)- 建安4年6月(199年7月)
青年期は侠人として知られ、仲間達と放蕩な生活を行っていたが、後に改心した。
同族の袁紹が自身より声望が高いことを妬み、袁紹の出自の低さをたびたび持ち出して中傷、さらに袁紹と交際する何顒らを憎悪した。
孝廉に推挙される。
中平6年(189年)の霊帝崩御後、大将軍の何進による宦官皆殺し計画に袁紹や曹操と共に参加。何進が十常侍により暗殺されると、袁隗や袁紹と共に宮中に乱入し、宦官数千名を誅殺した。
董卓の入京後に後将軍へ任じられた。
当初は袁隗・袁基ら袁家一門と共に董卓政権に参加していたため、曹操が洛陽から逃亡した後、曹操の夫人卞氏に曹操の情報を伝えに行ったりしている。
後に害が及ぶのを怖れて荊州の南陽へ逃れた。
袁術はその後任として南陽郡を支配するも南陽郡は人口が多く豊かであったが、袁術が奢侈な生活を追求し、過酷な徴税を行ったために民衆は苦しんだという。
建安3年(198年)、袁術は呂布と再び同盟を結んだ。
呂布は曹操が荊州の張繡に攻勢をかけた隙をついて曹操に攻撃をしかけたが、反転した曹操の攻勢の前に連戦連敗し、下邳において包囲され孤立無援となった。
呂布は援軍を袁術に求めたが、以前の背信を思い起こした袁術は積極的に援軍を送ることはなかった。
呂布は籠城を続けたものの、水攻めをされて滅ぼされた。
袁術を皇帝とする「仲」は敗戦と悪政、それに飢饉のために衰えていたが、袁術は天下の情勢を分析し、曹操と袁紹がいずれ決戦するであろうと予期し、寡兵かつ連戦で疲弊しきった曹操が袁紹に勝つ見込みは少ないであろうと考えた。
袁術は突然病にかかり、建安4年(199年)6月、病死した。
死の経緯について、袁術は灊山(せんざん)にいる部下の雷薄・陳蘭を頼ったが受け入れを拒絶され、3日間滞在するうちに兵士の食糧が底をついたため、寿春から80里ほどにある江亭に滞在した。
既に食糧は麦のくずが30石ほどしか残されていなかった。
袁術は夏の暑さのため、蜂蜜入りの飲物を所望したが、そのための蜂蜜も無い状況であった。
袁術は寝台に腰を下ろしてため息をついた後、「この袁術ともあろう者がこのざまか!」と怒鳴り、寝台の下にうつぶせとなって、一斗(当時は約1.98リットル)余りの吐血をして死んだと伝えられる(『呉書』)。
三国志演義でも最後は蜜水を持ってくるよう料理人に命じたところ「ただ血水があるだけです。蜜水などどこで得られましょう」と言われ、絶望して血を吐いて死んだという描写になっている。
孫策から「伝国の玉璽」を得る。
wikiより
覚える特殊能力
【火計・混乱・同討・鼓舞・激励・土砂】
陣形
【鶴翼の陣】(かくよく)
平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2
【偃月の陣】(えんげつ)
平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。
関連兵器はなし
攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】71 知力【知】69 魅力【魅】83 政治【政】14
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値45162・勇名4912