三国志5 武将 関羽

関羽(かんう)

三国志5 武将 関羽関 羽( ? ‐建安24年12月(220年1月))

黄巾の乱が起きると、義勇兵を挙げた劉備・張飛と出会い、張飛とともに劉備の護衛官を務めた。

 

建安5年(200年)、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受けて敗れ、下邳に撤退せず北上し袁紹の元に逃げると、関羽は一時的に曹操に降り賓客として遇された。

 

曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したという。

曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。

 

関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺殺し、その首を持ち帰った。

 

この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという(白馬の戦い)。

 

顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。

 

関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。

 

建安13年(208年)、劉備が襄陽の名士の諸葛亮を三顧の礼で迎え重用するようになると、張飛と共に不満を覚えたが、劉備は自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものである(水魚の交わり)と述べたという

 

建安23年(218年)子の関平・都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍の指揮を執っていた于禁が駆けつけたが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没した。

 

関羽は船団を指揮して攻撃をかけ、于禁と彼が指揮を執っていた3万の兵を降伏させ、さらに樊城の北に駐屯していた龐徳を斬った。

 

曹操はこの事態に狼狽し遷都まで考えるほどであったが、曹操の配下の司馬懿と蔣済は于禁を弁護し、これ以前に和議を結んでいた孫権を利用して、長江南を領有することを条件に関羽を背後から攻撃させる策を提案し、曹操は孫権と密約を結んだ。

 

于禁ら降伏した曹操軍の捕虜3万を養う為に孫権軍の軍需物資を強奪したこともあった。

 

孫権は呂蒙・陸遜らに命じて関羽への攻撃を開始した。

劉備は糜芳に南郡を、士仁に公安を守備させていたが、両者は関羽との仲に隙があり、其処に着目した呂蒙は両者に誘いをかけ寝返らせ、関羽の拠点たる江陵・公安を奪った。

 

その後も陸遜らの働きで荊州の劉備領は次々に攻略されていった。関羽は襄陽・樊城を落とせぬまま、徐晃に攻撃を受けて敗れ樊城の包囲を解いた。

 

その後逃げ続けるが219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首された。

 

小説『三国志演義』では

董卓配下の猛将華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話張遼に説得され曹操へと投降する際に3つの条件を出す。

 

曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に手形がなかったことから見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話(五関突破)

 

孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話など、講談や元曲・京劇(戯曲)などでの創作が、積極的に取り入れられている。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 関羽【水計・奮迅・無双・沈着・陣立・反計】

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 関羽

武力【武】99 知力【知】83 魅力【魅】96 政治【政】64

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値45105・勇名3666