三国志5 武将 麋竺

麋竺 (びじく)

三国志5 武将 麋竺糜 竺(び じく、2世紀頃 - 221年)

妹は糜夫人(劉備の夫人)。弟は糜芳。子は糜威。孫は糜照。

 

糜竺の先祖は代々利殖に励み、家は非常に裕福であった。

 

蓄財を重ねた結果、下僕1万人を抱え、巨億の資産を有していたという。

 

陶謙に招かれ、別駕従事の職にあった。

 

194年、陶謙の死後に遺命を奉じて、小沛に駐屯していた劉備を徐州牧に迎えた。

 

196年、劉備が袁術と抗争し出陣した際、劉備の留守につけ込んだ呂布は下邳を奪い、劉備の妻子を捕虜にした。

 

劉備は広陵に軍を移動させていたが、糜竺は妹を劉備の夫人として差し出すとともに、自らの財産から下僕2千人と金銀貨幣を割いて劉備に与えた。

 

劉備はこのお蔭で再び勢力を盛り返すことができた。

 

劉備が曹操を頼った時、糜竺は曹操に評価され、上奏により嬴郡太守の地位を与えられた。

 

また、糜芳にも彭城の相の地位が授けられた。

 

しかし劉備が曹操に叛くと、糜竺兄弟もそれに従い各地を流浪した。

 

劉備はやがて荊州の劉表を頼ることを考え、糜竺を挨拶の使者に赴かせている。

 

糜竺は左将軍従事中郎に任命された。

 

劉備が益州を得ると安漢将軍に任命されたが、これは当時の諸葛亮を上回る席次の官位だった。

 

劉備に古くから付き従った家臣である孫乾や簡雍よりも上位であったという。

 

柿沼陽平は、先に自らの下僕や財産を提供して窮地の劉備を救ったことが、劉備の寵愛を受けた理由であろうと推測している。

 

糜芳は関羽とともに荊州を任されていたが、219年、職務怠慢を詰られたことから呉に内通し、その軍を迎え入れた。

 

このため荊州に呉軍が侵攻し、関羽は敗死してしまった。

 

糜竺は処罰を請うため自身に縄を打って出頭した。

 

兄弟の罪に連座することはないと劉備に宥められたが、剛直な彼の怒りは収まることがなく、そのまま発病して1年程で亡くなったという。

 

温和で誠実・善良な人柄であったが、人を御するのには長じていなかったため、高く礼遇されたものの一度も軍を率いることはなかった。

 

一方で弓馬に長け、子や孫まで皆がその道の達人だったという。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 麋竺【火計・混乱・同討・鼓舞・消火・落石】

陣形

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 麋竺武力【武】30 知力【知】66 魅力【魅】81 政治【政】79

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値51161・勇名220