三国志5 武将 劉封

劉封(りゅうほう)

三国志5 武将 劉封劉 封(りゅう ほう、? – 220年)

父は寇氏、母は不明。劉備の養子。

元々は寇氏の子で、長沙劉氏の甥であった。

劉備に実子劉禅が生まれる207年以前、当時荊州に滞在し、未だ世継ぎのなかった劉備から養子に迎えられた。

 

212年、劉備が益州攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、諸葛亮・張飛らと共にこの戦いに参加し、随所で武功を挙げた。

 

219年、孟達は劉備に命じられ、房陵を攻略した。

 

孟達は続いて上庸に進軍したが、孟達1人では心許ないと思った劉備は、劉封を漢中から派遣して上庸で合流させ、孟達の軍を統率させた。

 

劉封と孟達は申耽を降伏させ、劉封は副軍将軍に昇進した。

 

同年に樊城で曹仁を包囲した関羽から何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、これを拒否した。

 

その結果、曹仁に援軍を要請された曹操が派遣した徐晃と趙儼と、孫権が派遣した呂蒙の挟撃を受けて関羽は大敗し、後に潘璋配下の馬忠に捕らわれて処刑された。

 

劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。

 

また、劉封は孟達とも対立しており、後に彼の軍楽隊を接収した。

 

220年7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は魏に出奔。

 

魏は孟達を建武将軍・新城太守に任じ、夏侯尚・徐晃と共に劉封を攻めさせた。

 

その際、孟達は劉封の立場の危うさを指摘し、魏に帰順することを促す手紙を送ったが、劉封は従わなかった。

 

しかし、申耽の弟の申儀などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、成都への敗走を余儀なくされた。

 

劉備は、劉封が孟達を魏に奔らせたこと、関羽を救わなかったことを責めた。

 

諸葛亮はこれに乗じて、劉封の剛勇さは次代の劉禅では制御し難くなるという理由から、劉封を除くように進言した。

 

かくして劉封は死を賜る事になった。

 

自決の際、劉封は「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」と嘆いた。

 

これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。

 

『三国志演義』では、樊城県令劉泌の甥で、劉封の器量に惚れた劉備の養子となり、劉禅が生まれた以降に養子に迎えられた設定。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 劉封【火計・混乱・同討・鼓舞・伏兵・火矢】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 劉封武力【武】70 知力【知】61 魅力【魅】70 政治【政】38

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値47106・勇名5848