三国志5 武将 呂威璜

呂威璜(りょいこう)

三国志5 武将 呂威璜呂 威璜(りょ いこう、?-200年)

『三国志』「武帝紀」が引く『曹瞞伝』に名前がある。

 

「武帝紀」本文や「袁紹伝」には名は見えない。

 

「楽進伝」や「張郃伝」にも名はない。

 

「武帝紀」が引く『献帝起居注』に、曹操が淳于瓊ら袁紹の将8名を斬ったという記述があるが、やはり呂威璜の名はない。

 

袁紹と曹操が華北の覇権をかけて争った官渡の戦いの最中、輸送隊長の淳于瓊をはじめ、督将の眭元進、騎督の韓猛・趙叡と共に騎督として兵糧輸送の要である烏巣の守備を担っていた。

 

袁紹から離反した許攸の情報により、烏巣の守備が手薄であることを知った曹操は、淳于瓊の軍に夜襲をかけた。

 

曹操軍は、袁紹からの援軍を装い淳于瓊らを油断させ、陣営に到着すると正体を現し、屯営を包囲し火を放ったという。

 

袁紹軍は混乱し、糧穀宝物はことごとく焼き払われた。

 

督将の呂威璜は眭元進・趙叡等と共に皆斬られ、淳于瓊は鼻を削がれた上で、後に許攸のすすめにより処刑された。

 

士卒1000人ほども殺害され、皆鼻を削がれている。

 

牛や馬の舌や唇も切り取られ、見せしめとされたという。

 

小説『三国志演義』では、淳于瓊らと共に史実とほぼ同様の最期を遂げている。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 呂威璜【混乱・同討・収拾・消火・火矢・遠矢】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 呂威璜武力【武】66 知力【知】49 魅力【魅】42 政治【政】25

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値32026・勇名4458

三国志5 武将 鞏志

鞏志(きょうし)

三国志5 武将 鞏志鞏 志(きょう し)

小説『三国志演義』に登場する架空の武将。

 

後漢末期の武陵郡太守金旋配下の従事として登場。

 

劉備の部将張飛が攻めてきた際、金旋に降伏を進言する。

 

しかし、金旋は怒りだしてこれを処刑しようとするが、他の部下の諌めで思いとどまる。

 

結局、張飛に敗北して逃げ戻ってきた金旋に対し、鞏志は無駄に兵士を死なせたとしてこれを射殺し、首級を張飛に献上して降伏。

 

鞏志は劉備から武陵太守に任ぜられるが、その後は登場していない。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 鞏志【火計・鼓舞・伏兵・火矢・速攻・遠矢】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 鞏志武力【武】46 知力【知】64 魅力【魅】49 政治【政】58

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値45250・勇名3540

三国志5 武将 曹真

曹真(そうしん)

曹 真(そう しん、? – 231年5月(太和5年3月))

初平元年(190年)、父の曹邵は曹操が挙兵した時に一族として呼応した。

しかし、董卓方だった黄琬と悶着を起こして曹邵は殺害されてしまった。

 

曹操は曹真が年少の身で父を失ったことを憐れみ、自らが引き取って他の子と同じように養い、曹丕と起居を共にさせた。

 

猟をしていたら、虎らに襲われ馬上から後ろ向きに矢を放ち、虎を倒した。

 

曹操が漢中一帯を巡り劉備と争うと、偏将軍として兵の指揮を執り、族父の曹洪に従って下弁で呉蘭らを破り(「曹休伝」)、中堅将軍に任命された。

 

曹操に従軍して長安に至り、中領軍を領した。

 

夏侯淵が陽安で戦死すると(定軍山の戦い)、曹操から征蜀護軍に任じられ徐晃らを指揮し、陽安で劉備軍の高翔を破った。

 

曹操が自ら漢中に出向き諸軍を救援したが、曹真は武都に赴いて曹洪の軍を迎えとり、張郃と共に(「張郃伝」)陳倉に駐屯した。

 

黄初元年(220年)、曹丕(文帝)が禅譲により魏帝国を興し即位すると、鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事となって、東郷侯に封じられた。

 

酒泉の張進が反乱すると、費曜を派遣しこれを鎮圧させた。

 

また、張郃・郭淮・楊秋らを指揮して安定の盧水胡と東羌を討伐した(「張郃伝」「郭淮伝」)。

 

事あるごとに諸軍を指揮して、雍州・涼州の反乱を鎮圧した。

 

 

曹真は諸葛亮が敗戦の反省を踏まえて、次は矛先を変えて陳倉に侵入してくるだろうと予測し、郝昭・王生に陳倉の守備を固めさせ、城を修治させた。

 

同年冬、曹真の予測が的中し、諸葛亮が攻めて来て陳倉を包囲した。

 

郝昭はわずかな兵で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に防衛した。

 

このため曹真は費曜らを援軍として派遣した。

 

諸葛亮は陳倉を落とせないまま兵糧が底を突き、張郃の援軍も駆け付けたので撤退した(陳倉の戦い)。

 

その後、2900戸まで封地を加増された。

 

太和4年(230年)、洛陽に朝見して大司馬となる。

 

大司馬となった曹真は曹叡に対し、蜀を征伐することの必要性を説き、これを認められた。

 

同年8月、長安を出発し子午谷より蜀に攻め入った。

 

この作戦は、荊州方面の司馬懿に漢水を遡って漢中の南鄭を攻撃させるなど、斜谷道や武威といったいくつかのルートから一斉に侵攻する大規模なものであったが、秋の長雨が30日続き、桟道が一部崩壊するなどしたため失敗した。

 

曹叡は曹真に命令し撤退させた(子午の役)。

 

洛陽に戻った曹真は間もなく重病となり、曹叡が自ら見舞ったが病状は好転せず、翌年春3月に死去した。

 

跡は子の曹爽が継いだ。

 

曹叡は生前の曹真が厚遇を受けた身でありながら、寛容かつ謙虚であったとして元侯の諡号を送った。

 

 

曹真は肥満だったという逸話はある。

 

自らの財産を与えるなど、曹真は将兵からの人望が厚く、指揮する軍の団結力も強固なものだった。

 

wikiより

 

『三国志演義』では、司馬懿と争う嫌な同僚といった感じで、諸葛亮に散々やられる噛ませ犬的な立ち位置で、司馬懿の引き立て役として散々な扱いな曹真。

諸葛亮の罵言が書いてある書状を読み、憤死する。

曹真は肥満であったことは確かなようだが、史実とは全く違った扱いになっている。

映画レッドクリフの魯粛のような扱いですね

 

覚える特殊能力

【混乱・収拾・激励・水計・火矢・速攻】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

武力【武】79 知力【知】68 魅力【魅】74 政治【政】55

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値25881・勇名4416

三国志5 武将 郝昭

郝昭(かくしょう)

三国志5 武将 郝昭郝 昭(かく しょう、生没年不詳)

子(嫡子)は郝凱。

 

若い頃から軍人として曹操に仕えた。

 

勇猛果敢で、武功を立て、雑号将軍となった。

 

220年、西平の麹演が反乱を起こし、酒泉の黄華と張掖の張進がこれに呼応して太守を殺害すると、武威の異民族もこれに呼応した。

 

魏平と共に以前から金城に駐屯していた郝昭は、詔勅を受けていたものの動けずにいたが、蘇則の助けにより進軍し、蘇則や毌丘興(毌丘倹の父)と協力してこれを鎮圧した(「蘇則伝」)。

 

227年、西平の麹英が反乱を起こすと、郝昭は鹿磐と共に鎮圧に派遣され、麹英を斬った(「明帝紀」)。

 

河西を鎮守すること十年余り、民も異民族も畏服したという。

 

228年、曹真は蜀漢の諸葛亮が陳倉を攻めて来ることを予測し、郝昭と王生を派遣して城を修治させ、守りを固めた。

 

諸葛亮が侵攻し陳倉を包囲した。

 

諸葛亮は郝昭の同郷である靳詳を派遣して何度も降伏を呼びかけたが、郝昭は自身は必死の決意で事に当たっていること述べこれを帰らせた。

 

守備を任されていた郝昭は曹真の命を厳格に守り、数千程度のわずかな軍隊で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず防衛する。

 

諸葛亮はまず雲梯(梯子車)や衝車(破城槌)を用いたが郝昭は火矢と石臼でこれを破壊した。

 

次に井闌(攻城櫓)を使って城中に矢を射掛けさせた。

 

これには城内に防御用の塀を作って防いだ。

 

さらに地下に坑道を掘って城裏に出ようとした。

 

郝昭は城から横穴を掘ってこれを妨害した。

 

結局攻防戦が二十余日にも及んだため、諸葛亮は陳倉を落とせないまま兵糧が底をついてしまい、魏の援軍も迫ったので撤退した(陳倉の戦い)。

 

洛陽に凱旋した郝昭は曹叡(明帝)からその戦功を褒め称えられ、列侯の爵位を与えられた。

 

しかし、曹叡が郝昭を要職に抜擢しようとすると、程なく病に倒れた。

 

彼は臨終の際、子に対し「わしは将軍であったから、将軍など大したものでないことを知っておる。また陵墓を暴いて、その木を使い武器を作ったこともあるから、手厚い葬式など死者には無用のものであることも知っておる。お前は必ずわしが今着ている服のまま埋葬せよ。ただ生者にのみ居場所があるのであり、死後に居場所などあるはずがあろうか。ここは元の先祖代々の地からは遠い。東西南北お前の都合のいいところに埋葬するがよかろう」と言い遺した。

 

没後、子が後を継いだ。

 

 

『三国志演義』では「雑覇将軍」という設定になっている。

 

また、蜀側では郝昭が重病に倒れた隙を突いた諸葛亮が、陳倉城を急襲して落としたことにしており、さらに魏側では既に郝昭が病死したため、陳倉の防備を放棄したということにされている。

 

wikiより

 

三国志 Three Kingdoms 第88話では、王双に半数の兵を取られた後、蜀軍に攻められ

最後、郝昭は自決している。

 

三国志5 武将 郝昭

画像は三国志 Three Kingdoms 第90話より

覚える特殊能力

三国志5 武将 郝昭【収拾・火矢・遠矢・沈着・反計・応射】

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 郝昭武力【武】84 知力【知】89 魅力【魅】85 政治【政】80

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値36824・勇名7429

三国志5 武将 趙範

趙範(ちょうはん)

三国志5 武将 趙範趙 範(ちょう はん、生没年不詳)

209年の時点では桂陽郡の太守であり、韓玄・金旋・劉度と同じく、侵攻してきた劉備に降伏する。

 

「趙雲別伝」によると、上記の降伏後に趙範に代わって太守に就いたのは劉備軍の趙雲であり、趙範は趙雲に取り入るため、亡き兄の妻の樊氏と結婚させようとした。

 

しかし、趙雲は「趙範の兄も趙姓で自分と同姓であるから」と断り、周りの者になおも勧められると「趙範は追い詰められて降伏しただけで、まだ何を考えているか分らない。

(彼女を選ばなくても)天下に女は少なくない」と言って拒否した。

 

後に趙範は逃亡した。

 

『三国志演義』においては、趙雲との関係で様々な脚色がなされている。趙雲と遠縁で、同じ常山郡真定県の出身ということにされている。

 

荊州南部4郡の占拠を狙う劉備軍に対し、鮑隆・陳応の二人の将軍を差し向け一旦は対抗したものの、大敗し降伏する。

 

このためその後、同姓の誼ということを利用して趙雲と義兄弟の契りを結び、親交を深めるため自分の嫂(あによめ。樊氏のことか)を譲ろうとしたが、逆にそれが元で関係が険悪となり、趙雲から袋叩きにされてしまう。

 

これに怒った趙範はついに趙雲の寝首を掻こうとしたが、裏をかいた趙雲に敗れ再び降伏する(前述の二将は酔い潰されて処断される)ことになっている。

 

降伏以後の出番はないが、後の長沙征伐の際に、あくまで韓玄との引き合いではあるが、思慮深い人物という評価を諸葛亮が関羽に対して伝える場面がある。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 趙範【火計・混乱・同討・収拾・鼓舞・消火】

陣形

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 趙範武力【武】38 知力【知】63 魅力【魅】45 政治【政】58

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値45200・勇名3340

三国志5 武将 張郃

張郃(ちょうこう)

三国志5 武将 張郃張 郃(ちょう こう、生年不詳 – 231年(太和5年))

儁乂(しゅんがい)

 

黄巾討伐の募兵に応じ、軍司馬として韓馥に属し韓馥が敗れると、張郃は自らの兵とともに袁紹に帰順した。

 

官渡の戦いの前、沮授や田豊と同じく曹操と直接対決することの不利を説いたが、袁紹には受け容れられなかった。

 

張郃の予測通り曹洪が守る官渡は落ちず、烏巣の淳于瓊は曹操に敗北し、袁紹軍は潰走した。

 

張郃は高覧と共に曹洪に降伏。

 

張郃は于禁・張遼・楽進・徐晃と共に名将と謳われた。

 

228年、蜀の諸葛亮が祁山に出兵してくると(北伐)、張郃は特進の位を与えられ、対蜀の前線に再度赴くことになった。

 

街亭の戦いで馬謖を敗走させる。

 

231年の第四次北伐で諸葛亮が指揮を執る蜀軍がまたも祁山に進出し、張郃は詔により諸将を督し略陽に到着すると、諸葛亮は祁山を保持するために軍を還した。

 

張郃はこれを追い木門に至ったところで諸葛亮軍と交戦になり、矢を右膝に受けて戦死した。

 

『三国志演義』では、官渡の戦いの際に登場し、史実と同様の顛末で曹操に投降している。

 

剣閣道にて姜維の弓兵に射殺されている。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 張郃【伏兵・火矢・奮迅・速攻・無双・遠矢】

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 張郃武力【武】93 知力【知】67 魅力【魅】69 政治【政】54

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値48403・勇名9570

三国志5 武将 厳顔

厳顔(げんがん)

三国志5 武将 厳顔厳 顔(げん がん、生没年不詳)

 

劉焉→劉璋に仕え、巴郡太守だった趙筰の部将であった。

 

211年、劉備が劉璋の招きで入蜀すると、「一人で奥山に座し、猛虎を放って我が身を守るようなものだ」と嘆息したという。

 

212年、劉備が益州を奪い取ろうと攻めて来た時にも巴郡を守っていたが、劉備軍の張飛の攻撃に遭って捕らえられた。

 

捕虜になったのだから自分に跪けと言う張飛に対し、「お前達は無礼にも、我が州を侵略した。我が州に断頭将軍 (首を刎ねられる将軍)はいても、降伏する将軍はいない。早く首を斬れ」と堂々と言い放った。

 

張飛は腹を立てたが、厳顔はさらに「匹夫め、さっさと斬れ。怒るだけ無駄だ」と言い放った。

 

この事で張飛は感嘆し、厳顔の縄を自ら解き、厚く持て成したといわれている。

 

このため厳顔も降伏し、以後は劉備の家臣となった。

 

類似した逸話は由利維平にも存在し、捕虜の身でありながら「運尽きて囚人と為るは、勇士の常」と堂々とした態度で梶原景時の無礼をたしなめ、畠山重忠が礼を尽くすと尋問に応じた。

 

それを見ていた源頼朝も「勇敢の誉れ有るに依って」罪を許した。

 

正史において厳顔の記述は少なく、生没年も不詳で、『三国志演義』で描かれるような老将という表現も無い。

 

張飛に言い放った言葉だけは明確に記述されている。

 

『三国志演義』で厳顔は老将の設定だが、正史で老将なのは張任である。

 

張飛に降伏した後、自ら他の守将に降伏勧告を行なっている。

 

その後は黄忠と共に老将コンビを結成して漢中攻略の際には大いに活躍している。

 

南宋末期の右丞相文天祥が作った詩「正気の歌」にも、蘇武・張巡ら歴代の忠臣義士と並んで厳顔が登場する。

 

生没年も不明で、最終的には帰順した人物が張良・諸葛亮・蘇武といった顔触れとともに登場するのも、ひとえに張飛に言い放った言葉の強い印象故と言えよう。

 

重慶市忠県で三国時代の墓が発見された際、地元の言い伝えを根拠に厳顔の墓であると主張された事があった。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 厳顔【混乱・同討・火矢・速攻・遠矢・応射】

陣形

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 厳顔武力【武】88 知力【知】70 魅力【魅】79 政治【政】63

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値51396・勇名8070

三国志5 武将 曹仁

曹仁(そうじん)

三国志5 武将 曹仁曹 仁(そう じん、建寧元年(168年) – 黄初4年3月19日(223年5月6日))

 従兄は曹操。弟は曹純。

 

弓術・馬術・狩猟を好み、曹操の配下となる。

 

袁術との戦いでは敵を打ち取り、陶謙との戦いでは先鋒となり陶謙の部将である呂由を破る。

 

呂布との戦いでも呂布の部将の劉何を捕虜し、黄巾賊を討伐でも功績を立てる。

 

張繡との戦いでも打ち破る。

 

200年、曹操と袁紹が決戦のときも、鶏洛山で韓猛を大破し史渙らと共に袁紹の兵糧車を襲撃し、焼き払う。

 

208年、荊州の南郡攻防戦で曹仁は行征南将軍として江陵を守り、孫権軍の都督周瑜と戦った。

 

周瑜が数万の兵を率いて来襲すると、曹仁は部将の牛金に300の兵を与え、周瑜軍の先鋒の6000騎の軍勢と戦わせるが、牛金は包囲された。

 

これを見た長吏の陳矯らは青ざめたが、曹仁は激怒し、陳矯の制止を振り切って直属の勇士数十騎を引き連れ出城した。

 

堀を渡ってそのまま敵陣に突入し、果敢に牛金を救助した後、取り残された兵がいたので再び敵陣に突入して救出した。

 

敵軍は後退し、陳矯らは曹仁の勇敢さを「将軍は真に天人也」と称賛し、三軍は心服した。

 

戦いは1年余り続き(「呉主伝」)、曹仁は周瑜に傷を負わせるなど善戦したが、結局は周瑜らに敗れ江陵を失った(「周瑜伝」)。

 

江陵の北道を関羽が絶ち切っていたが、汝南から駆け付けた李通が関羽を攻撃し、自ら包囲に突入して曹仁を救出した(「李通伝」)。

 

211年3月潼関の戦いで馬超を渭南で破る。

 

218年10月侯音・衛開らが謀反を起こし、関羽と連合して近県を略奪した。

 

曹仁は龐徳ら諸軍の指揮を執ってこれを討伐し、放逐された東里袞と合流した。

 

翌219年正月、宛城を陥落させて侯音らを処刑し、樊城に帰還した。

 

関羽との荊州争奪戦では、連日の悪天豪雨によって漢水が氾濫し、樊城の外に駐屯していた龐徳は水没して関羽に斬られた。

 

援軍の于禁ら七軍も水没し、関羽に降伏した。

 

関羽は船を並べて水没した樊城を包囲し、曹仁の手元には数千の人馬しか残りがなく、満寵と共に徐晃の援軍到達まで軍規を徹底し、兵を鼓舞してよく守り、その猛攻を防ぎ切った。

 

徐晃が外部から関羽を攻撃すると、曹仁も城から出て関羽を攻撃し、関羽を撤退させた(樊城の戦い)。

 

220年、曹丕(文帝)が魏王つく

 

222年秋9月濡須に進軍。

 

223年3月19日、病死。56歳であった。

 

233年(曹叡の代)5月、曹仁は夏侯惇・程昱と共に曹操の廟庭に祭られた。

 

『三国志演義』では、反董卓連合の際に曹操の元に曹洪と共に馳せ参じた。

 

新野の劉備軍との戦いでは、李典の助言を悉く退け、単福(徐庶)に「八門金鎖の陣」を破られて大敗し、曹操自ら荊州に攻め入った際には曹洪と前陣を務めるが、無人の新野城に入城して諸葛亮の火計に敗れる。

 

関羽が指揮を執る荊州軍との戦いでは、満寵の意見を聞かずに苦戦したが、樊城陥落の危機には満寵の諌めで奮起し、関羽に矢傷を負わせ、徐晃の救援と呉が荊州を奪った事で盛り返し、ついには荊州軍を撃退した。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 曹仁【同討・火矢・速攻・無双・遠矢・沈着】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 曹仁武力【武】85 知力【知】68 魅力【魅】71 政治【政】60

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値34000・勇名6080

三国志5 武将 侯成

侯成(こうせい)

三国志5 武将 侯成侯 成(こう せい、生没年不詳)

呂布配下の将。

史書の記述は断片的で、『後漢書』呂布伝や、『三国志』魏書呂布伝の注で引用されている『九州春秋』などに散見される。

 

侯成の食客が侯成の所有する15頭の馬を奪い、小沛の劉備のもとに逃げる事件があった。

 

これを聞いた侯成は追いかけて馬を奪い返し、同僚たちから祝賀された。

 

またあるとき、侯成は5、6石の酒を醸造し、さらに狩猟して10頭余の猪を捕獲した。

 

彼はそれらを同僚に振る舞おうとを考え、先に呂布へ猪5頭と醸造した酒五斗を献上し「将軍のおかげで、私の馬を取り戻すことができ、諸将が私を祝いました。酒を醸造し、狩りをして猪を捕獲しました。まだ飲食はしておりませんので、将軍に献上した次第でございます」と、その許可を得ようとした。

 

呂布は禁酒中であったため激怒し「わし自らが禁酒令を出しているというのに、汝は勝手に醸造し、諸将とともに飲食して義兄弟の契りを結び、共謀して反乱を起こすつもりなのか」と、侯成を面罵した。

 

これに恐怖と憤懣を抱き、疑心暗鬼に陥った侯成は、そのまま退出するなり酒と猪肉を処分し、諸将からの贈り物を返した。

 

建安3年(198年)、呂布が曹操に包囲され下邳城に立て籠ったとき、同僚の魏続・宋憲と共に反乱を起こし、陳宮を捕縛して曹操軍へ寝返った。

 

これが原因で、魏続・宋憲に捕縛された呂布は曹操によって処刑された。

 

その後は、史書に記述が見当たらない。

 

『三国志演義』では、呂布配下の八健将の1人(序列第8位)として登場。

 

曹操との戦いでは、曹操を後一歩まで追い詰めるものの、曹操軍の典韋に撃退される。

 

呂布に酒肉を献上するくだりは史実と同様だが、さらに呂布から罰棒50回の刑を加えられている。

 

その後、呂布の赤兎馬を盗んで曹操に降り、魏続・宋憲と協力し、呂布・陳宮・高順を生け捕りにしたことになっている。

 

その後は登場しない。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 侯成【混乱・収拾・鼓舞・消火・伏兵・乱射】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 侯成武力【武】68 知力【知】39 魅力【魅】41 政治【政】40

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値45514・勇名5680

三国志5 武将 高沛

高沛(こうはい)

三国志5 武将 高沛高 沛(こう はい、? – 212年)

劉璋配下。高沛は楊懐と共に劉璋配下の名将であり、強力な軍勢を擁し白水関を守備していた(蜀書龐統伝)。

 

また劉璋に文書を送り、劉備を荊州に撤退させるよう諌めていた。

 

劉備の英名には服していたという。

 

建安17年(212年)、劉璋の要請による張魯討伐のため、すでに招聘されていた劉備は葭萌に駐屯した。

 

劉備は張魯を討伐するよりも住民たちの人心収攬に勤め、益州平定に向けて準備を整えた。

 

龐統は劉備に「(劉備が)荊州へ戻るとの知らせを受けた高沛は、楊懐と共に喜んで自分から会いに来るだろうから、そこで2人を捕えればよい」との趣旨の策を進言した。

 

荊州帰還の知らせを聞いた高沛は、楊懐とともに拝礼のため訪れたが、捕えられて斬られ、その軍勢を奪われてしまった。

 

劉備はこれを機に、成都へ向け進軍を開始した(蜀書龐統伝)。

 

『三国志演義』でも登場し、楊懐と共に涪水関を守備している。

 

『演義』では劉備暗殺までも謀る役回りにされ、荊州へ帰るという劉備を見送る際に決行しようとする。

 

機先を制した劉封・関平に取り押さえられ、龐統の命令により楊懐共々斬首されている。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 高沛【混乱・収拾・鼓舞・伏兵・激励・火矢】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鋒矢の陣】(ほうし)

山岳型戦闘で『突撃』が実行可能で攻撃的陣、山や森林の地形では機動力がるだが、防御には弱い、だが研究で新兵器『戦車』を開発すれば少しは弱点を補える。  

新兵器『戦車』を開発・【無】

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・A 射程2  

新兵器『戦車』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・C 機動力・A 射程2

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 高沛武力【武】61 知力【知】35 魅力【魅】49 政治【政】44

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値25150・勇名400