王朗(おうろう)
王 朗(おう ろう、? – 太和2年(228年))
経書に通じており、郎中を経て甾丘県長となった。
楊賜を師と仰いでおり、楊賜が死去すると官を棄てて故郷に戻り喪に服した。
孝廉に推挙され、三公の府へ招聘されたが、出仕しなかった。
その後、刺史の陶謙に茂才として推挙された。
やがて治中に採り立てられ、別駕の趙昱と共に陶謙を補佐した。当時、献帝は長安におり、関東は兵乱で混れていた。
王朗と趙昱は陶謙に対して、朝廷へ使者を派遣し勤皇の姿勢を示すべきだと勧めた。
初平4年(193年)、献帝はこの忠誠を賀して、王朗を揚州の会稽太守に任命した。
王朗の『家伝』によると、当時の会稽には秦の始皇帝を古来より祭る風習があったが、始皇帝は徳のない君主だからという理由でこれを廃止させている。
会稽太守として勤務した4年間で、民を慈しんだという。
建安元年(196年)、劉繇を破った孫策が、会稽に進出して来た。
功曹の虞翻が逃亡を進言したが、王朗はこれを却下し、元の丹陽太守の周昕の協力も得て、固陵で孫策の進撃を防いだ。
「孫静伝」によると、王朗は固く守って孫策を苦戦させたが、孫静の策によって査瀆に誘き出されると、孫策軍に大敗した。
周昕は斬られた。
王朗は城を放棄し船で東冶に逃れたが、孫策が追撃し大敗する。
王朗は孫策に投降し、降伏が遅れたことを謝罪した。
孫策も王朗が儒学教養豊かで、謙虚な人物であったため処刑せずに許した。
建安3年(198年)、王朗は曹操に召し出されたため曲阿から出発し、長江や海を往来しながら数年かけて都に辿り着いた。
孔融は王朗が到着に時間を要していることを心配し、手紙を送って慰労した。
都に到着後、曹操から諫議大夫・参司空軍事に任命された。
延康元年(220年)2月、曹操が亡くなり曹丕が魏王の位を継ぐと、王朗は御史大夫へ昇進し、安陵亭侯に封じられた。
鍾繇・華歆・王朗という曹操以来の名臣が三公となっており、曹丕は「この三公は一代の偉人であり、後世でこれを継ぐことは難しいだろう」と言った(「鍾繇伝」)。
黄初7年(226年)5月、曹丕が亡くなり曹叡(明帝)が即位すると、王朗は蘭陵侯に昇進する。
王朗は儒学に通じ、『易経』・『春秋』・『孝経』・『周礼』の伝(注釈)を著した。
このため上奏や議論などの著述の全てが世に伝わった。
蜀にいた旧知の許靖に手紙を送り、諸葛亮に臣従を促すよう依頼しようとしたが、許靖が既に死去していたため返答はなかった。
後に諸葛亮は、陳羣ら他の魏の高官からの降伏勧告の手紙とまとめ、『正議』と題して反論を公表している。
太和2年(228年)11月に死去。
王沈の『魏書』では「才能と学識はずば抜けており、性質も厳格で、礼儀正しく慎ましく、施しを良くし、弱者を哀れまない強者を批判した」と評されている。
小説『三国志演義』では、厳白虎と共に孫策に敵対するも敗れるという、凡庸な太守の一人として登場する。
その際、部下の虞翻から孫策と和平を結ぶべきと言われ激怒したため、虞翻に時代遅れと言われ去られてしまう。
後に曹操の家臣の一人として登場し、華歆と共に簒奪に加担する。
また、諸葛亮の北伐で敗れた夏侯楙の代わりに曹真を推挙。
そして曹真の軍師として76歳の高齢を押して出陣し、諸葛亮に論戦を挑むも敗北する。
その際、簒奪者に加担した過去を厳しく咎められたため、その恥と衝撃から憤死してしまっている。
wikiより
三国志スリーキングダムでは、王朗 憤死 がYou Tubeで見れますが三国志演義の王朗が定着されるが、実際の王朗は司馬氏へ接近し司馬昭に娘(王元姫)を嫁がせている。
覚える特殊能力
【火計・混乱・同討・落石・水計・反計】
陣形
【錐行の陣】
平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。
強化騎兵 【無】
攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
強化騎兵 【有】
攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
【鈎行の陣】(こうこうの陣)
山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。
連弩 【無】
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2
連弩 【有】
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】50 知力【知】61 魅力【魅】63 政治【政】62
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値60000・勇名1200