曹仁(そうじん)
曹 仁(そう じん、建寧元年(168年) – 黄初4年3月19日(223年5月6日))
従兄は曹操。弟は曹純。
弓術・馬術・狩猟を好み、曹操の配下となる。
袁術との戦いでは敵を打ち取り、陶謙との戦いでは先鋒となり陶謙の部将である呂由を破る。
呂布との戦いでも呂布の部将の劉何を捕虜し、黄巾賊を討伐でも功績を立てる。
張繡との戦いでも打ち破る。
200年、曹操と袁紹が決戦のときも、鶏洛山で韓猛を大破し史渙らと共に袁紹の兵糧車を襲撃し、焼き払う。
208年、荊州の南郡攻防戦で曹仁は行征南将軍として江陵を守り、孫権軍の都督周瑜と戦った。
周瑜が数万の兵を率いて来襲すると、曹仁は部将の牛金に300の兵を与え、周瑜軍の先鋒の6000騎の軍勢と戦わせるが、牛金は包囲された。
これを見た長吏の陳矯らは青ざめたが、曹仁は激怒し、陳矯の制止を振り切って直属の勇士数十騎を引き連れ出城した。
堀を渡ってそのまま敵陣に突入し、果敢に牛金を救助した後、取り残された兵がいたので再び敵陣に突入して救出した。
敵軍は後退し、陳矯らは曹仁の勇敢さを「将軍は真に天人也」と称賛し、三軍は心服した。
戦いは1年余り続き(「呉主伝」)、曹仁は周瑜に傷を負わせるなど善戦したが、結局は周瑜らに敗れ江陵を失った(「周瑜伝」)。
江陵の北道を関羽が絶ち切っていたが、汝南から駆け付けた李通が関羽を攻撃し、自ら包囲に突入して曹仁を救出した(「李通伝」)。
211年3月潼関の戦いで馬超を渭南で破る。
218年10月侯音・衛開らが謀反を起こし、関羽と連合して近県を略奪した。
曹仁は龐徳ら諸軍の指揮を執ってこれを討伐し、放逐された東里袞と合流した。
翌219年正月、宛城を陥落させて侯音らを処刑し、樊城に帰還した。
関羽との荊州争奪戦では、連日の悪天豪雨によって漢水が氾濫し、樊城の外に駐屯していた龐徳は水没して関羽に斬られた。
援軍の于禁ら七軍も水没し、関羽に降伏した。
関羽は船を並べて水没した樊城を包囲し、曹仁の手元には数千の人馬しか残りがなく、満寵と共に徐晃の援軍到達まで軍規を徹底し、兵を鼓舞してよく守り、その猛攻を防ぎ切った。
徐晃が外部から関羽を攻撃すると、曹仁も城から出て関羽を攻撃し、関羽を撤退させた(樊城の戦い)。
220年、曹丕(文帝)が魏王つく
222年秋9月濡須に進軍。
223年3月19日、病死。56歳であった。
233年(曹叡の代)5月、曹仁は夏侯惇・程昱と共に曹操の廟庭に祭られた。
『三国志演義』では、反董卓連合の際に曹操の元に曹洪と共に馳せ参じた。
新野の劉備軍との戦いでは、李典の助言を悉く退け、単福(徐庶)に「八門金鎖の陣」を破られて大敗し、曹操自ら荊州に攻め入った際には曹洪と前陣を務めるが、無人の新野城に入城して諸葛亮の火計に敗れる。
関羽が指揮を執る荊州軍との戦いでは、満寵の意見を聞かずに苦戦したが、樊城陥落の危機には満寵の諌めで奮起し、関羽に矢傷を負わせ、徐晃の救援と呉が荊州を奪った事で盛り返し、ついには荊州軍を撃退した。
wikiより
覚える特殊能力
【同討・火矢・速攻・無双・遠矢・沈着】
陣形
【錐行の陣】
平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。
強化騎兵 【無】
攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
強化騎兵 【有】
攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
【鈎行の陣】(こうこうの陣)
山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。
連弩 【無】
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2
連弩 【有】
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
【雁行の陣】(がんこうのじん)
平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。
関連兵器なし
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】85 知力【知】68 魅力【魅】71 政治【政】60
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値34000・勇名6080