曹真(そうしん)
曹 真(そう しん、? – 231年5月(太和5年3月))
初平元年(190年)、父の曹邵は曹操が挙兵した時に一族として呼応した。
しかし、董卓方だった黄琬と悶着を起こして曹邵は殺害されてしまった。
曹操は曹真が年少の身で父を失ったことを憐れみ、自らが引き取って他の子と同じように養い、曹丕と起居を共にさせた。
猟をしていたら、虎らに襲われ馬上から後ろ向きに矢を放ち、虎を倒した。
曹操が漢中一帯を巡り劉備と争うと、偏将軍として兵の指揮を執り、族父の曹洪に従って下弁で呉蘭らを破り(「曹休伝」)、中堅将軍に任命された。
曹操に従軍して長安に至り、中領軍を領した。
夏侯淵が陽安で戦死すると(定軍山の戦い)、曹操から征蜀護軍に任じられ徐晃らを指揮し、陽安で劉備軍の高翔を破った。
曹操が自ら漢中に出向き諸軍を救援したが、曹真は武都に赴いて曹洪の軍を迎えとり、張郃と共に(「張郃伝」)陳倉に駐屯した。
黄初元年(220年)、曹丕(文帝)が禅譲により魏帝国を興し即位すると、鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事となって、東郷侯に封じられた。
酒泉の張進が反乱すると、費曜を派遣しこれを鎮圧させた。
また、張郃・郭淮・楊秋らを指揮して安定の盧水胡と東羌を討伐した(「張郃伝」「郭淮伝」)。
事あるごとに諸軍を指揮して、雍州・涼州の反乱を鎮圧した。
曹真は諸葛亮が敗戦の反省を踏まえて、次は矛先を変えて陳倉に侵入してくるだろうと予測し、郝昭・王生に陳倉の守備を固めさせ、城を修治させた。
同年冬、曹真の予測が的中し、諸葛亮が攻めて来て陳倉を包囲した。
郝昭はわずかな兵で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に防衛した。
このため曹真は費曜らを援軍として派遣した。
諸葛亮は陳倉を落とせないまま兵糧が底を突き、張郃の援軍も駆け付けたので撤退した(陳倉の戦い)。
その後、2900戸まで封地を加増された。
太和4年(230年)、洛陽に朝見して大司馬となる。
大司馬となった曹真は曹叡に対し、蜀を征伐することの必要性を説き、これを認められた。
同年8月、長安を出発し子午谷より蜀に攻め入った。
この作戦は、荊州方面の司馬懿に漢水を遡って漢中の南鄭を攻撃させるなど、斜谷道や武威といったいくつかのルートから一斉に侵攻する大規模なものであったが、秋の長雨が30日続き、桟道が一部崩壊するなどしたため失敗した。
曹叡は曹真に命令し撤退させた(子午の役)。
洛陽に戻った曹真は間もなく重病となり、曹叡が自ら見舞ったが病状は好転せず、翌年春3月に死去した。
跡は子の曹爽が継いだ。
曹叡は生前の曹真が厚遇を受けた身でありながら、寛容かつ謙虚であったとして元侯の諡号を送った。
曹真は肥満だったという逸話はある。
自らの財産を与えるなど、曹真は将兵からの人望が厚く、指揮する軍の団結力も強固なものだった。
wikiより
『三国志演義』では、司馬懿と争う嫌な同僚といった感じで、諸葛亮に散々やられる噛ませ犬的な立ち位置で、司馬懿の引き立て役として散々な扱いな曹真。
諸葛亮の罵言が書いてある書状を読み、憤死する。
曹真は肥満であったことは確かなようだが、史実とは全く違った扱いになっている。
映画レッドクリフの魯粛のような扱いですね
覚える特殊能力
【混乱・収拾・激励・水計・火矢・速攻】
陣形
【鈎行の陣】(こうこうの陣)
山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。
連弩 【無】
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2
連弩 【有】
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
【魚鱗の陣】
平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。
関連兵器なし
攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2
【方円の陣】(ほうえんの陣)
平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。
発石車 【無】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3
発石車 【有】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】79 知力【知】68 魅力【魅】74 政治【政】55
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値25881・勇名4416