三国志5 武将 閻圃

閻圃(えんほ)

三国志5 武将 閻圃閻 圃(えん ほ、生没年不詳)

後漢末に漢中郡を支配した張魯の功曹を務めた。

 

住民が張魯に玉印を献上すると、張魯は漢寧王を名乗ろうとしたが、閻圃は「今も漢中で独立した勢力を維持し、財力も豊かで人民もよく我々の支配のもと、無事に生活しております。あえて王になることもありません」と諫めた。

 

建安20年(215年)、曹操が漢中に攻め込み、陽安関を陥落させた。

 

張魯は降伏しようとするが、閻圃は抗戦を主張。

 

ただしそれは勝算があってのことではなく、一度も戦わずに降伏すれば、曹操から軽く見られるという判断からであった。

 

張魯はこれを受け入れ巴中へ逃れ、その後、南鄭へ入城した曹操が使者を派遣してくると、閻圃と共に降伏した。

 

これらの閻圃の実績は曹操から高く評価され、張魯の子らと共に列侯に封じられた。

 

同時に馬超の妾であった董氏を与えられた。

 

延康元年(220年)、曹丕の家臣団が曹丕に対し、後漢からの禅譲を受けるよう勧めた『魏公卿上尊号奏』に、閻圃は建節将軍・平楽郷侯として名を連ねている。

 

黄初年間にはさらに爵位・領地を加増され、朝議の席で礼遇される身分になったという。

 

その後10年余りで死去したとあるため、没年は230年代前半と推測される。

 

その後も閻圃の一族は栄えた。

 

『三国志演義』でも閻圃は張魯の幕僚として登場。

しかし史実とは逆に、劉璋を倒した上で張魯に王位へつくよう進言している。

 

曹操が漢中に進攻し、張魯に防衛の将として龐徳の起用を進言するが、同僚の楊松の讒言で張魯は龐徳を斬ろうとする。

 

讒言(ざんげん)事実をまげ、いつわって人を悪く言うこと。

 

閻圃は弁護し曹操に降伏し列侯に封じられるところは、史実と同様。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 閻圃【火計・混乱・火矢・奮迅・乱射・速攻】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【偃月の陣】(えんげつ)

平地型の陣形クリティカルヒット(攻撃力が2倍)発生確率が上がる陣形で、クリティカルヒットは武将の勇名な高いほど発生しやすく、勇名が高い武将にこの陣形を使わせると効果的。  

関連兵器はなし

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・C 機動力・D 射程2

 

【衡軛の陣】(こうやく)

山岳型山や森林で高い防御力を誇る陣形。横からの攻撃に対しても防御力が落ちないので、高山など、進入不可能な地形を背に戦えば、敵に囲まれてもかなりの間持ちこたえることができる。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 閻圃武力【武】31 知力【知】80 魅力【魅】77 政治【政】86

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値51046・勇名3574