三国志5 武将 張勲

張勲(ちょうくん)

三国志5 武将 張勲張 勲(ちょう くん、生没年不詳)

袁術配下。

『三国志』呉書孫策伝によると、孫策が袁術に身を寄せていた時、張勲はまだ20歳前後の孫策を高く評価し、心惹かれていたという。

 

初平4年(193年)3月、袁術が揚州刺史の陳温を殺害し(陳温については病死とする記録あり)、陳瑀を追放して揚州に拠点を移すと、橋蕤と共に大将軍に任じられたとされる。

 

建安2年(197年)春、袁術が帝位を僭称した際にも、これに従った。

 

袁術の皇帝僭称後まもなく、張勲は袁術の命令で橋蕤と共に徐州の呂布を攻撃した。

 

陳珪の離間策により友軍の楊奉・韓暹に裏切られ、橋蕤を生け捕られるという大敗を喫した。

 

同年9月、張勲は袁術に従って陳国に侵攻し、陳愍王の劉寵(明帝の後裔)とその相の駱俊を殺した。

 

曹操が自ら袁術討伐に来ると、袁術は橋蕤ら諸将をその場に留まらせ、自分だけ淮南へ逃げ帰ってしまった。

 

『後漢書』袁術伝によると、張勲もやはり橋蕤らと共に陳国に残留したとされる。

 

いずれにしても、橋蕤らが曹操軍を迎撃して尽く討ち取られたが、張勲だけは何とか袁術の下に逃げ帰った。

 

建安4年(199年)6月、袁術が没落して死亡した後、張勲は楊弘らとともに以前仲のよかった孫策の下に逃れようとした。

 

その道中で、袁術の元部下であった廬江太守の劉勲に攻撃されて捕らえられた。

 

その後の彼についての記述は『三国志』にも『後漢書』にも残されていない。

 

『正史 三国志 6』(ちくま学芸文庫)では、建安4年に孫策が廬江を攻略した際、張勲が曹操に降ったとしているが、『三国志』呉書孫策伝の原文と照合すれば明らかなように、これは上記の劉勲の誤りである。

 

文庫版の記述によるのか、いくつかの三国志を基にしている創作物では、張勲が曹操の部下になったという事跡が採用されている。

 

『三国志演義』では都督として登場する。

 

呂布との戦いでは、第1路担当の大将軍として20万の大軍の指揮を執ったが、呂布軍の猛攻を受け敗走している。

 

その後は作中から姿を消す。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 張勲【同討・収拾・消火・奮迅・速攻・強行】

陣形

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【水陣】(すいじん)

水上型唯一の水上専用陣形。陸上では防御力が激減するので役に立たないが水上では無敵の陣形に変身する。新兵器の『楼船』(ろうせん)があれば攻撃・防御・弓防御が上がる。

新兵器『楼船』を開発・【無】

攻撃力・B 防御力・B 弓攻撃力・C 弓防御力・B 機動力・A 射程2

新兵器『楼船』を開発・【有】

攻撃力・A 防御力・A 弓攻撃力・C 弓防御力・A 機動力・A 射程2

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 張勲武力【武】67 知力【知】61 魅力【魅】61 政治【政】41

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値42594・勇名3472