荀攸(じゅんゆう)
荀 攸(じゅん ゆう、永寿3年(157年) – 建安19年(214年))
曹操軍の筆頭軍師。
荀彧の従子(おい)にして彼より年長である。
『三国志』魏志「荀彧荀攸賈詡伝」に伝がある。
荀攸が8歳の頃、叔父の荀衢が酔っ払い、誤って荀攸の耳を傷つけた事があった。
ところが荀攸は部屋を出たり入ったりして遊び回るとき、 いつも耳を隠して叔父の目に止まらないようにしていた。
叔父は後になってこの事を聞き知り、そこで初めて驚き謝罪し、高く評価した(『魏書』)。
荀攸は孝廉に推挙され、南陽の陰修が潁川太守であった時代に荀彧・郭図・鍾繇らとともに官吏として登用された。
大将軍何進は政治の実権を握ると、海内の名士20名を招聘したが、荀攸もその中に含まれていた。
荀攸は何進の求めに応じ、黄門侍郎となった。
何進死後、董卓が政治の実権を握ると、荀攸はその専横を見て憤り、議郎の鄭泰・何顒・侍中の种輯・越騎校尉の伍瓊らと共に董卓の暗殺を図る。
事前に発覚して、荀攸は何顒と共に董卓に投獄され、死刑が決められた。
何顒は憂いのあまり獄死してしまったが、荀攸は言葉も食事も泰然自若していた。
その死刑執行前に董卓が王允らに暗殺されたため、荀攸は助け出された。
優秀な成績で推挙され、任城国の相となったが辞退し、自ら望んで蜀郡太守となった。
益州において独立を画策していた益州牧の劉焉が、既に交通路を断っていた為、任地まで辿り着くことができず荊州に留まった。
建安元年(196年)、長安から脱出した献帝をその本拠である許に迎えた曹操は、荀彧から荀攸の評判を聞き(「荀彧伝」)、書状を送り、荀攸を召しだした。
曹操は荀攸の名声を聞いていたが、実際に会ってみて大変満足し、荀彧と鍾繇に対し「公達は並々ならぬ人物だ。 彼がいれば天下に何の憂いがあろうか」と語り、彼を軍師とした。
建安3年(198年)、荀攸は宛の張繡征伐に随行した。
建安5年(200年)、曹操が袁紹と決戦した一連の戦い(官渡の戦い)で荀攸は大いに活躍している。
荀攸は曹操に策を進言し顔良と文醜を討ち取る。
烏巣の戦いで奇襲も荀攸は賈詡と共に許攸の意見を支持し曹操は荀攸らの意見を汲み取り、即座に行動を起こす。
張郃・高覧らが離反し、留守を守っていた曹洪に降伏を申し入れてきた。
曹洪は疑ったが、荀攸は張郃が降伏を決意した事情を分析し、信じて受け入れるように勧めた。
建安19年(214年)、曹操の孫権討伐に従軍しているときに病に倒れて、まもなく陣中で死去した。
58歳であった(『魏書』)。
曹操は荀攸の話をする度に涙を流したという。
また荀彧とは違い、曹操との関係は終始良好であった。
『三国志演義』では、正史に記されるような活躍はしておらず、荀彧や郭嘉に軍師としての功績を奪われている。
曹操が魏王に昇ろうとするのを反対し、それが曹操の怒りを買い、荀攸はまもなく苦悶の内に病死した事になっているが、正史では曹操が王になることに反対した事実はない。
wikiより
覚える特殊能力
【火矢・同討・収拾・伏兵・激励・沈着】
陣形
【鶴翼の陣】(かくよく)
平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2
【魚鱗の陣】
平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。
関連兵器なし
攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2
【雁行の陣】(がんこうのじん)
平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。
関連兵器なし
攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】49 知力【知】95 魅力【魅】82 政治【政】90
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値42001・勇名1938