三国志2 武将データ 王楷

三国志2 武将データ 王楷

三国志2 武将データ 王楷

王楷(おうかい)

ぶりょく【武力】31 ちりょく【知力】58 みりょく【魅力】24

 

王 楷(おう かい、生没年不詳)

 

最初は曹操配下で、従事中郎に任命されていた。

 

興平元年(194年)、曹操は陶謙を討伐するため徐州に出征した。

 

王楷はこの隙をつき、張邈・張超・陳宮・許汜らと共に、呂布を迎え入れ曹操に叛旗を翻した。

 

兗州のほぼ全域が呂布一派に制圧されている。

 

これ以降、王楷は呂布配下として活動することになった。

 

建安3年(198年)冬、呂布は曹操に敗退し下邳城内に追い詰められた。

 

このため王楷と許汜は、袁術の元へ救援要請の使者として赴いた。

 

前年の呂布との対立経緯から、袁術は援軍を拒絶する姿勢を示した。

 

王楷と許汜は、呂布が滅びれば次は袁術が攻められる番であると説き伏せ、呂布の娘を送るという条件で、何とか袁術に救援を受諾させることに成功した。

 

呂布は曹操軍の包囲を突破できる状況になく、実際には袁術の救援を得ることができなかった。

 

呂布滅亡後、王楷の名は史書に見当らない。

 

呂布と命運を共にしたか、あるいは許汜の様に他の諸侯を頼ったかも不明である。

 

『三国志演義』でも、許汜とともに曹操軍の包囲を突破し袁術に救援を求めている。

 

経緯も結末も、ほぼ史実に沿ったものとなっている。

 

wikiより

 

三国志5では登場してません。

 

曹操→呂布に付いて武将で張邈・張超・陳宮・許汜らと共に、呂布を迎え入れ曹操に叛旗を翻した。とる

 

やっぱりリーダーいないとスグ滅亡するんだろうな、でも呂布に関しては別物だろう。

 

呂布は曹操に敗退し下邳城内に追い詰めらたとき王楷と許汜は、袁術の元へ救援要請の使者として赴いたとある。

 

袁紹と呂布が合う訳がない、董卓配下だったころ戦っている。

 

十八路諸侯の集結し、呂布は袁紹を罵っていたドラマ三国志を見るに袁紹は臆病者とか言っていましたね

 

後々、袁紹滅亡の原因は既に董卓を洛陽に呼び寄せた頃から袁紹の吉凶は出ていた。

 

呂布には陳宮がいたので何とかもったのだろう、陳宮のイメージと言うと蒼天航路のイメージが強いです。

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最後は陳宮も曹操に捕らえられやむなく処刑する。

 

再度仲間に取り込もうとするが、陳宮は断り処刑を望んだアニメがありましたね、だが呂布は命乞いあげるが、曹操は処刑した。

蒼天航路だと最終的に劉備の言葉で処刑した感じでしたね、何にせよあの場で散って良かったのかもしれないですね、話は王楷に戻るが、袁紹に援軍を断られた後に、歴史から名前を消している。

山に逃げたのか、どうかはわからない。

三国志2 武将データ 淳于瓊

三国志2 武将データ 淳于瓊

淳于瓊(じゅんうけい)

ぶりょく【武力】76 ちりょく【知力】65 みりょく【魅力】68

 

三国志5での淳于瓊

武力【武】72 知力【知】58 魅力【魅】69 政治【政】45

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三国志5では魅力が1多いです。

 

その他は下がっています。

 

三国志演技での淳于瓊の最後はひどい内容だが、正史では有能な武将だったが主君の袁紹が話を聞き入れず、烏巣を守る淳于瓊は曹操の部将楽進に斬られる。 

 

淳于瓊は西園八校尉の一人だった。

西園八校尉とは

中国の後漢末期、188年に置かれた官職の総称。また西園三軍という。

 

中平5年(188年)、黄巾の乱以後の混乱が続く中、望気者(雲気を見て吉兆を占う人)が、都で戦が起こり両宮で血が流れると予言した。

 

これを聞いた大将軍司馬の許諒と、仮司馬の伍宕が、大将軍であった何進に「『六韜』には天子が将兵を率いるという記述があり、それに倣って皇帝が将兵を率いて四方を威厭すべきである」と献言する。

 

これが成立の根拠かどうかは、史料によっては正しいとは言えない。

 

上軍校尉 ― 蹇碩(小黄門)

霊帝に寵愛された蹇碩(『三国志演義』では十常侍の一人とされる)

 

中軍校尉 ― 袁紹(虎賁中郎将)

下軍校尉 ― 鮑鴻(屯騎都尉)

典軍校尉 ― 曹操(議郎)

助軍校尉 ― 趙融

佐軍校尉 ― 淳于瓊

 

wikiより

その他にも左右校尉があったとあるが、省く

『山陽公載記』

 

なぜ袁紹についてしまったのか、曹操についていれば、曹仁や楽進並に活躍できたはずです。

関羽がもしも曹操に降っていれば、長生きできたのかもしれない、人材配置が上手いからいけたんじゃないかな

 

だが夏侯淵を定軍山の戦いで失っている。

これは、法正の策にハマったのだからしょうがない。

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定軍山の戦いの状況

 

劉備、張飛、黄忠、法正、黄権    【戦力120000】

 

曹操、夏侯淵、張郃、郭淮、楊修【戦力一説に200000】

 

ドラマ三国志では、法正の活躍があまり見られないが、多分「三国志演義」を採用したのかもしれない、それと話が長くなるため、少し端折ったのかもしれません

 

蒼天航路では定軍山に山々の絵が迫力がありましたね

 

定軍山で10万単位なんだから、中国の戦闘は大戦だったのだろう。

 

事ここに至って、前年より長安に滞在して諸軍を督戦していた魏王曹操は、自ら50万の大軍を率いて漢中奪回を図った。

(『三国志演義』では、曹操の軍勢が40万に対して、劉備の軍勢は10万として、記されている。)

wikiより

 

お互いに被害は大きかったようだ。

三国志2 武将データ 韓暹

三国志2 武将データ 韓暹

韓暹(かんせん)

ぶりょく【武力】43 ちりょく【知力】41 みりょく【魅力】40

 

三国志5での韓暹

武力【武】63 知力【知】30 魅力【魅】39 政治【政】19

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三国志2では平均数値40ぐらいを叩き出す。

 

強くもないが、弱いかって言われると弱い、河東郡の白波賊の大将。

 

蒼天航路の爆裂団、李烈みたいなものなのか?

 

甘寧だって賊あがりと言うか若い頃は暴走族のようなものだった。

 

そんなこといったら曹操だって同じことになる。

 

蒼天航路を見るに若い頃の皆、自由奔放に平野を走り回っていたそうだ。

 

話は韓暹のことに戻るが

 

仲間の頭領には、李楽・胡才がいて、配下の楊奉もかつては白波軍だったとある。

 

李傕と同等っていう、大将なんだから、一応武力高かったんじゃないのかということで三国志5では武力60ぐらいあります。

 

三国志2では武力が40ぐらいだったのは三国志5では60ぐらいに上がってます。

 

これも変更があったのでしょう。

 

そもそも李傕もそう大して強くない。

三国志5での李傕の能力

武力【武】68 知力【知】34 魅力【魅】36 政治【政】48

 

大体、韓暹と同じぐらいの能力値です。

 

董卓暗殺後、李傕と郭汜が仇討ちとして王允を殺害するのだから

 

もっと強くてもいいような気がするが、妥当なのだろう。

 

因みに郭汜の三国志5での能力はこんな感じです。

 

武力【武】65 知力【知】37 魅力【魅】45 政治【政】21

 

李傕と並んで同じ感じの能力値ですね

 

兵力が多かったのかな?董卓が遺産(兵隊)が大きかったのだろう。

 

李傕と郭汜はラッキーパンチでのし上がったのだろう、時の運もあるのだろうけども、

同僚で幼馴染の李傕と郭汜って言うのが、現代漫画っていうか面白い。

 

だが、李傕が郭汜に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立し仲間割れし

 

郭汜は部下の伍習に裏切られて殺され、李傕は最後曹操によって滅ぼされる。

 

これは相手が悪かったのかもしれない。

 

この頃から曹操は中原の覇者になっていったのだろう。

 

というか、「中原の覇者」ファミコン版もそのうちゲーム紹介できればと思っている。

 

ナムコの名作「三国志・中原の覇者」「三国志2・覇王の大陸」はかなり評価が高いですね、今だにファミコン版でも2000円から3000円ぐらいの値段はすると思います。

 

もっと行くかな?「三国志2・覇王の大陸」に関してはPlayStation 版でナムコアンソロジーの中に「三国志2・覇王の大陸」が入っている価格は3000円程度だったような気がする、他にもナムコの名作はダウンロード版もあります。

三国志2 武将データ 宋忠

三国志2 武将データ 宋忠

宋忠(そうちゅう)

ぶりょく【武力】32 ちりょく【知力】39 みりょく【魅力】56

 

宋 忠(そう ちゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期の学者。字は仲子。

 

荊州南陽郡の人。「宋衷」とも表記される。

 

荊州を支配した劉表の招請に応じ、儒者として教鞭をとった。

 

親交のあった蜀郡太守の王商へ、許靖に教えを請うよう勧める手紙を送っている。

 

劉表の死後は引き続き劉琮に仕えた。

 

劉琮は曹操に降伏を申し入れたが、客将の劉備には黙っていた。

 

隠し通すのも限界となり、宋忠は劉琮の命令でこの旨を劉備に伝えることになった。

 

事の次第を聞いた劉備は驚き怒り、剣を抜いて宋忠に突きつけ「貴様を殺すのは容易いが、貴様のような輩を殺すのは大丈夫の恥だ」と言い捨て、宋忠を追い払った。

 

その後は劉琮に従って曹操に降った。

 

宋忠には子(名は不詳)がいたが、建安24年(219年)の魏諷の反乱に加担して処刑された。

 

父の宋忠が健在であれば、連座による処分を受けていた可能性があるが詳細は不明である。

 

『三国志演義』では、曹操への降伏の使者となった帰りに、偶然関羽に見つかってしまい、無理やり劉備の下へ引き立てられることになっている。

 

事情を聞いた張飛は「宋忠を血祭りに上げろ」とまで叫ぶが、劉備はこれをたしなめている。

 

もっとも、剣こそ突きつけなかったものの、劉備が宋忠に吐いた台詞は、史実とほぼ同様である。

 

吉川英治の小説『三国志』や横山光輝の漫画『三国志』では、史実や『演義』のように劉備は激昂しておらず、冷静沈着に張飛らを宥め、宋忠も特に咎めることなく解放している。

 

wikiより

顔グラは武将だが、実際は学者と書いてますね

 

三国志5では登場していない武将(学者)です。

 

やはり主君である劉表の死後が破滅を辿っている。

 

これは劉備だって同じことになる、息子(阿斗)になり、蜀は無くなる。

 

 

宋忠に関しては正史では曹操に降伏し劉備にバレて追い払われ

 

その後、魏諷の反乱に加担して処刑されている。

 

魏諷はカリスマ性はあったのだろう、クーデター画策するも、陳禕が裏切り曹丕に密告し誅殺される。

 

その中に宋忠もいたので処刑さたのだろう。

 

曹丕(曹操の息子)も、結構強かったような気がします。色々な意味で

 

でも、なんでも創業者が一番最強ってことだよね、これは実社会でも創業者が凄くて雇われ社長などは、会社を衰退させるという道程を辿るパターンが多々ある。

 

2世でも活躍するパターンはあるが、三国志に関しては、曹操の死後、息子の補佐に 司馬懿つけている。

 

2世ぐらいは大体親父イズムは残っているが3世ぐらいから薄れ、4世では人となりすらわからないのが大抵のパターンだ。

 

人間というのは300年周期で同じことを繰り返すということは昔から言われていたような気がする。

 

実際には変わっているか変わっていないか分からない状態を何十億年も続けて少しずつ変わっていってるのだと思います。

三国志2 武将データ 侯選

三国志2スーパーファミコン版(SFC)

三国志2 武将データ 侯選

ぶりょく【武力】71 ちりょく【知力】34 みりょく【魅力】58

三国志5では侯選(こうせん)は登場しませんでした。

 

侯 選(こう せん、生没年不詳)

中国後漢末期の武将。司隷河東郡の出身。魏書張魯伝に記述がある。

 

正史では李堪・程銀と同郷で、それぞれ同程度の勢力を有していた。

 

馬超・韓遂・成宜達と同盟を結び反乱を起こしたものの、曹操に敗れて程銀と共に漢中へ逃れた。

 

しかし、後に漢中も曹操の支配下に入ったので、侯選も楊秋に倣って曹操に降り、官爵を得た。

 

小説『三国志演義』では、韓遂の「手下八部」の一人として登場する。

 

長安を落城させ曹操を苦しめるが、馬超と韓遂が曹操の離間の計にかかり仲違いを起こしたため、他の旗本八旗の生き残り五人と共に韓遂に味方し、馬超と敵対することになる。

 

その後、仲間のうち何人かは馬超との争いで死亡し、韓遂も腕を切り落とされるなど重傷を負うが、侯選は辛くも難を逃れ、楊秋と共に曹操軍へ降伏し列侯に封じられることになっている。

 

wikiより

韓遂の「手下八部」って面白いですね

「手下八部」に関しては三国志5での武将データ記事の中でも書きましたが、再度確認すると

 

演義で登場する「手下八部」(他の7名は侯選・張横・程銀・成宜・李堪・馬玩・梁興)

 

旗本八旗(はたもとはっき)で覚えている人もいると思います。

 

『三国志演義』に登場する西涼の群雄・韓遂配下の「手下八部」と称される勇将8人を、吉川英治が小説『三国志』において馬超の配下として翻案したものである(文中では「八旗の旗本」などと称される)。

 

戦死した者、馬超との内部分裂で非業の死を遂げた者、生き残って列侯に封ぜられたもの、など顛末はさまざまである。

 

彼らは正史『三国志』にも登場するが(馬超伝に引用された「典略」に記載がある)、馬超、韓遂とは同盟関係にあると推測できるものの主従関係にあるかどうかは不明であり、「手下八部」「旗本八旗」という言葉も正史には見られない(上述した典略の記載を元にした脚色であろう)。

 

また、それぞれの末路も若干異なる。wikiより

 

正史では「手下八部」「旗本八旗」という言葉は見られないとある。

 

だが正史でも侯選(こうせん)は存在していたとは、三国志2では珍しいキャラですね

三国志2は三国志演義(架空)での架空武将が多いようなイメージでした。

 

ゲーム的な内容としては、武将71と高めなので戦闘要因としては、突撃員と使っても良いんじゃないかなって感じです。

三国志2 武将データ 蔡仲

三国志2 武将データ 蔡仲

蔡仲(さいちゅう)

ぶりょく【武力】35 ちりょく【知力】38 みりょく【魅力】34

 

三国志5でも登場している架空の武将。

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一部の書籍では「蔡仲」と表記されることもある。

同じく蔡瑁の従弟とされる蔡和との関係は、不明という設定。wikiより

 

三国志5では修正入って『蔡仲』から『蔡中』に変更になったのだろう、だが一部書籍では『蔡仲』と記されているため間違いではない。

 

この文字違いが少し気になったので、三国志2 武将データとして書いておくことにしました。

 

『蔡仲』というと、西周時代の蔡の君主とwikiで出てきました。

 

蔡仲(さいちゅう、生没年不詳)

 

西周時代の蔡の君主。姓は姫、名は胡。蔡叔度の子。

 

蔡叔度の死後、品行を改め正し、徳に従い善に励んだことから、周公旦に任用されて魯の卿士となった。

 

かれの政治によって魯国はよく治まったので、周公旦は成王に進言し、姫胡は蔡に封じられ、蔡叔の祭祀を継承した。wikiより

 

三国志時代からかなり前に遡る話だが、同じ名前のものがいました。

 

【周(西周)→周(東周)『春秋時代、戦国時代』→秦→漢(前漢)→新→漢(後漢)→『呉(孫呉)    漢(蜀漢)    魏(曹魏)』】

 

なんかキングダムが読みたくなりますね、飛信隊の信ってフレーズが良い。

 

前編はYou Tubeでも見れると思います。

 

話は三国志の蔡仲に戻るが、ゲーム的には弱めに設定されてます。

 

三国志5ではこんな感じです。

武力【武】49 知力【知】36 魅力【魅】33 政治【政】41

 

三国志2では更に弱いですね、モブキャラと言ったらそれまでなのですが、敢えて蔡仲を使って全国制覇とかいう縛りでゲームをやって動画にしても面白そうです。

 

よくYou Tubeでも最弱武将を探してみた系の動画があり、信長の野望なんかだと河野家がメジャーだが、河野家って結構強い要素もある。

 

海戦に特化した特殊技術を持っている家系なので、海戦に持ち込めば勝機はあります。

 

というか、CPUが弱いです。

 

大抵、信長の野望では勢力が伸びる武将は徳川、秀吉、武田、上杉、織田パターンになる。(近畿から東北のみ)

近畿から九州までは、島津、毛利、大友(たまに龍造寺など、阿蘇家の甲斐宗運あたりの粘り)

時代的にない家系など武将もいるだ、大体このような感じだったような気がする。(記憶です。)

 

九州、中国地方は自力で何とかし(同盟など兵1名での攻め込まれない状態を作る)

そして、近畿から東北の強国になった軍は大抵は騎馬、足軽が強いパターンなので、海戦に持ち込んで、壊滅させ、敵兵を港を使い吸収し、巨大な兵数を得たら回復させ攻め込むといったパターンです。攻めた敵の港は耐久値は0のままし、負傷兵回復したらスグに引き返し、敵に占拠させたと同時にまた攻め込む、これを繰り返すと相手の兵数を格段に減らす事が可能です。

三国志2 武将データ 李珪

三国志2 武将データ 李珪(りけい)

 

三国志2 武将データ 李珪

李珪(りけい)

ぶりょく【武力】29 ちりょく【知力】63 みりょく【魅力】73

 

三国志演義でのみ登場する武将。

李 珪(り けい)

 

『三国志演義』に登場する架空の政治家。

 

荊州の諸侯劉表の幕僚。

 

劉表死後、蔡瑁が作った偽の遺言状により劉琮が後継されようとすると、兄劉琦を思って躊躇する劉琮を李珪は支持し、劉琦を迎えるべきと進言する。

 

蔡瑁と言い争いになり、ついに処刑されてしまう。

 

このとき李珪は処刑の直前まで蔡瑁を罵り続けている。

 

wikiより

 

劉表ってかなり強大な軍隊だってことは何となく分かってはいたが、黄祖だったり初期の甘寧だったり、蒯良、蒯越、蔡瑁などもいる。

 

そもそも漢の中心にあり、荊州を治めていたのだから劉邦(高祖)から前漢の景帝の四男の魯恭王劉余の六男の郁桹侯劉驕の子孫である劉表なのだから、人材には恵まれていたのだろう、孫堅を倒したぐらいなので『三国志演義』であっても架空の武将を多くて当然だろう、『史実』でも実際はもっと武将が多かったのかしれませんね

 

孫策の死因も呉をあれだけ、一代で破竹の勢いで城を落としていったのだから地元民に相当恨まれたと思います。

 

なので、暗殺れたのだろう、だがあのスピードで孫家の基盤を築いたのだから、相当なものです。(張楊が残っていたものの)

 

李珪の話に戻るが、ゲームとしてはかなり使えます。

 

ぶりょく【武力】29 ちりょく【知力】63 みりょく【魅力】73

 

戦闘員としてではなく、国を治める太守として使えますね、魅力が73と結構高めなので、民の暴動を起こりにくいです。(民忠も100にしてれば、まず民の暴動は起こらない)

 

その上、知力は63と高めです。

 

最悪の場合に戦闘時火計、誘導などを使って良いのかもしれません(63より知力が低い武将の場合)

 

三国志2では結構モブキャラを使う出番があります。

例えば、【情報】→【他国】を確認するのに、武将の行動力を一つ使うことになります。(武将数が多いと他国を確認する回数が増える)

 

【外交】の【贈物】のなぜか、君主がいない国でも使えたような気がします。

 

まず、外交で【贈物】を使うことはないが、相手が強大であっても、武力80以上の武将と5名の武将で兵数500名ぐらいいれば抑止力にはなります。

 

運が悪いと攻め込まれることもありますが基本的にはそんなに攻めてこないので(難易度レベル3でも)

上記の内容で国を守っていれば何とかなります。

三国志2 武将データ 鄧義

三国志2スーパーファミコン版(SFC)

三国志2 武将データ 鄧義

鄧義(とうぎ)

 

ぶりょく【武力】63 ちりょく【知力】26 りょく【魅力】

 

鄧 義(とう ぎ、生没年不詳)

 

劉表配下の治中従事(『後漢書』劉表伝は「侍中従事」としているが、「治中従事」の誤りと思われる)。

 

建安元年(196年)、曹操が献帝を許に迎え入れると、鄧義は劉表に曹操と同盟するよう進言した。

 

しかし、この時点で袁紹と同盟していた劉表は進言を容れず、しかも鄧義を侮辱するような言動をした。

 

鄧義は病気を口実に辞職し、劉表が没するまで出仕しなかった。

 

建安13年(208年)、曹操が荊州を支配すると、鄧義は招聘され侍中に任命された。

 

これ以後は史書に記述が見当たらない。

 

『三国志演義』でも劉表死後に登場し、蔡瑁の命令で劉先と共に荊州を守備する。

 

曹操が荊州に攻め寄せてくると、戦いし得ないとして軍民を引き連れ降伏している。

 

以後、登場しない。wikiより

 

この武将は三国志5でもいたような気がしますが、登場しませんでした。

 

鄧義っていたような気がしました。

 

正史でも登場する武将です。

 

内容を見るに劉表の配下で、鄧義が進言しても劉表は聞き入れなかったので鄧義は病気を口実に辞職し、劉表が没するまで出仕(勤めに出る)しなかった。

 

曹操が荊州を支配し鄧義は招聘され侍中に任命されたとある。

 

これは、先読みしていたということかな、名君と暗君を見定めることが出来ていた感じですね

 

それ以後、史書の記述がない。

 

というか、戦闘しないでゆっくり暮らしたかった派だろうね、安全な方向へ行きたかったんだろう。

 

いっそのこと仙人となり崔州平のように、山で茶でも飲んでいれば良いんじゃないかな

 

確か、ドラマ三国志では争うも必然、治世も必然で乱れない方がおかしいので、山で茶でも飲んでいる方が良いじゃんっていう考えです。

 

それと鄧義はなんの関係もないが、もしかすると曹操に徐庶のように扱われていたのかもしれない、功名心を無くし平和を与え、曹操の思うように統一を進めるといった感じか?

 

なんにせよ記述がないので、三国志5では鄧義が登場しないのもわかりますね

 

そもそも『三国志演義』の人物は総計で1192人なので、このような記述のない武将や架空武将などが多いのだろう。

 

『三国志演義』は小説でお話も架空のものなので、あくまでも考察になるのはしょうがないですね

 

三国志2で登場する武将は三国志5ではかなり能力値が変わっていたり登場すらしなかったりするので、三国志2も面白いです。

というか、三国志2自体が戦闘内容がかなり深いです。

 

三国志リターンズでもそうですが自国の兵糧が続く限り戦闘というシステムは面白いです。

三国志2 武将データ 陳嬉

三国志2 武将データ 陳嬉

陳嬉(ちんき)

ぶりょく【武力】64 ちりょく【知力】24 みりょく【魅力】34

この武将は、演技でも正史でもない武将のようだ。

 

ゲーム脳歴史ライター、三国志ゲーム動画で有名な方:うどん先生が電撃PlayStation内の記事はこう書いてある。

 

初代『三國志』と『II』に登場した【陳嬉】と、『II』に登場した【楊平】

 

彼らの出典は、演義でも正史でもなく、当時バイブルだった吉川英治版三国志。

 

陳嬉は周瑜が南郡を攻めた際、曹仁の配下として登場した武将。

 

楊平は張魯の部下で、楊任楊昂とトリオを組んだ武将。

 

当時の三国志は吉川英治版と横山三国志を参考にゲームを作っていたのか?

 

調べると、このように書いてありました。

 

曹仁、曹洪、曹純、陳嬉、牛金などは、鳩首して密議にかかった。

 

その結果、深更に及んで、呉の陣へ、大襲を決行した。

 

三国志:08 望蜀の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)

 

ふりがな文庫より

 

吉川英治『三国志』を題材としているようですね

 

更に調べると、あるサイトのこのように書いてありした。

 

演義には登場しない「陳嬉」「楊平」なる人物が登場。

 

「陳嬉」は陳矯の誤記、「楊平」は地名陽平関との混同のようだ。

 

ということは、存在しない武将ということで、ミスではないのかもしれませんが、定かではない人物ということになる。

 

だが、千年以上前の伝説の話をここまで忠実にゲームの落とし込んだ方が偉業と言ったところです。

 

定かではない武将なので『初代・三国志』『三国志2』で登場した武将という時代背景もわかりますね、当時、資料となるものが無かったのかもしれませんが、『初代・三国志』『三国志2』まで時間をかけて、武将の選別のようなものが行われていったのだろうと考えられる。

 

顔グラだって進化していくのだから、武将エピソードも三国志5では書いてありましたもんね、ゲーム開発における仕事量を考えるとやっぱり、文化遺産と言っても過言ではないKOEI武将データです。

NETデータとしての資産価値半端ないですね

 

また、初代・三国志のリメイク版では修正というか変更が入っている。

 

『三國志』(さんごくし)1985年12月10日に日本の光栄から発売されたPC-8801mk2SR用歴史シミュレーションゲーム。

 

リメイク作(スーパーファミコン版やPlayStation版など)では梁紀は楽就、陳嬉は韓浩、劉延は劉賢にそれぞれ名前が変わっているが、スペックは全く同一。wikiより

 

これ、リメイク版では武将が変わっているということになる、ゲーマーならば初代作品とリメイク版では違いがあるということになる。

 

陳嬉は韓浩に変わっているとなると、相当こんがらがってしまう内容になる。

 

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韓浩は、また別の武将なのではないのか?

 

わかりませんが、吉川英治『三国志』の陳嬉は陳矯のことではなかったのか?

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解釈としては韓浩と陳矯が存在し【陳嬉】は吉川三国志の幻としておきます。

三国志2 武将データ 呂公

三国志2(SFC)版

三国志2 武将データ 呂公

呂公(りょこう)

ぶりょく【武力】36 ちりょく【知力】46 みりょく【魅力】62

 

呂公(りょこう、生没年不詳)

 

名は不明。

 

劉表の部将で、黄祖の配下。『英雄記』に登場する。

 

193年(初平4年)、劉表が孫堅に攻められた時、呂公配下の兵が石を落として抵抗したところ、孫堅にその石が当たり、頭を強打して脳髄を出す程の傷を受け即死したと言われる(襄陽の戦い)。

 

『三国志演義』では、その後孫堅の戦死により敗走する孫堅軍を追撃するが、敵討ちに燃える程普に討ち取られることになっている。

 

wikiより

 

三国志2では三国志演義での架空武将が多い気がします。

 

だが、呂公は呂公 (前漢) と呂公 (後漢) のものが存在する。

 

今回の記事で書いている呂公は(後漢)の方です。

 

孫堅の死因が書いてあります。

 

193年(初平4年)、劉表が孫堅に攻められた時、呂公配下の兵が石を落として抵抗したところ、孫堅にその石が当たり、頭を強打して脳髄を出す程の傷を受け即死したと言われる(襄陽の戦い)。

 

孫堅は呂公配下の兵の石を落とされ即死とある。

 

孫堅と倒したのだから、結構強くても良いのではないだろうか?

 

運だったのか?

 

しかしwikiで孫堅の史実を調べると死因が違う。

 

初平2年(191年)、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた。

 

孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。

 

しかし、襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い) 。

 

享年37。

 

どうやら呂公のエピソードと孫堅の死因は諸説ある。

 

長沙に帰還を果たしたものの、劉表に帰還を妨害された孫堅は兵の大半を失い、劉表に恨みを抱く。

 

些細な事で袁紹と不和になっていた袁術は、孫堅に劉表を攻撃させる事で、袁紹の力を削ぐ事を企て、孫堅に対して江夏攻略を命令する。

 

この戦いにおいて孫堅は、黄祖の守る樊城を落とし、襄陽を包囲すると、囲みを解こうと出撃した蔡瑁にも圧勝する。

 

その最中、包囲軍本陣の帥字旗がにわかに吹き起こった狂風で折れるという凶事が起こった。このため、韓当が「これは不吉の兆しなので退くべきでは」と進言する。

 

しかし、孫堅は聞く耳を持たずに出陣し、蒯良の策謀で呂公がしかけた伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ、落石に押し潰されて死亡した。

 

その死体は劉表軍により持ち去られたが、捕虜となっていた黄祖の身柄と引き換えに、この時参陣していた孫策のもとに引き渡された。wikiより

 

孫堅の死因についてwikiで調べると、蒼天航路は『三国志』呉志 孫破虜伝・『典略』

の内容を採用してる事が分かる。

 

陳寿の本文(『三国志』呉志 孫破虜伝)

 

陳寿の本文

 

(『三国志』呉志 孫破虜伝)初平3年(192年)、荊州の劉表を討伐しようとした際、単独行動中に黄祖配下の兵士によって射殺される。

 

『三国志』魏志 劉表伝では、その後に李傕と郭汜の長安侵入が記載されており、孫堅の死は概ね1月から4月までの間と特定される。

 

 

『典略』

没年の記載なし。劉表は籠城を決め込む一方で黄祖を城外に出し、徴兵をさせた。

 

城へ戻る途中で孫堅と交戦し敗北したが、茂みに隠れていた兵士が追撃をしてきた孫堅を射殺したとある。

 

 

『英雄記』

初平4年(193年)正月7日に死去。死因は劉表配下の呂公が伏せておいた伏兵に遭い、落石が頭部に当たったことによる。

 

死因については『三国志演義』に採用された。

 

なお、『演義』では初平2年11月に死亡したとする。wikiより

 

孫家って何故か孫堅〜孫策にかけて伏兵やらの攻撃で弓で暗殺されている。

 

これを暗殺と言っていいのかわからんが、ドラマ三国志スリーキングダムでは、劉表軍伏兵にあい(峴山の戦い)矢の嵐で死んでいる。