なんかやけに朱霊が一騎討ち仕掛けてくるな〜って三国志2をプレイして思ったのでブログにしてみました。
知力(ちりょく)40
武力(ぶりょく)75
魅力(みりょく)40
三国志5での能力値です。
武力【武】63 知力【知】40 魅力【魅】41 政治【政】29
やはり、三国志2の時代の【朱霊】が武力+12ほど高いですね
武闘派だったんですね
曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には朱霊も含まれている(「斉王紀」)。
祭られた者の中で、朱霊だけが『三国志』に伝を立てられていない。
(徐晃伝に付随する形で記述は存在する)。
wikiでは
功臣20人中に朱霊が含めれるので、活躍していたはずなんだけども伝記ない。
徐晃伝に付随する形で記述があるそうだ。
なので脇役って感じなのかな?
武力63〜75は妥当な数字と言っても良いですね
曹操が荊州を征伐する際、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の7将軍は、章陵太守・都督護軍となった趙儼に統括された。
とwikiにある。
だが、荊州討伐では于禁・張遼・張郃・朱霊・李典と並ぶぐらいだし、李典よりも先に名前が登場している。
だが、伝記がない。
たまたまではあるが伝記がなかったのかこれだけ武将がいれば見逃すってこともありますね
これは、蒼天航路を読んだ人ならあるあるかもしれませんが、蒼天航路の曹操は諸葛亮孔明のことを敢えて触れないといった、大きな敵対心というか不倶戴天の敵なので歴史にも残さない覚悟だったのだと思われる部分があったような気がします。
伝記が残っていないという事は何者かが伝記を消し去ったか、元々何も記述なかったかになる。
だが、wikiを見るとこんな文がある。
朱霊は曹操から常に恨まれていた。
そのため詳細な時期は不明だが、曹操は于禁に朱霊の軍営を取り上げさせ、朱霊自身は于禁の部将としている。
この時、于禁が自らやってきて曹操の命令を執行したが、朱霊とその部下たちは、于禁の勢威を恐れてそのまま服従した。wikiより
なんでなん?元々袁紹の軍だったからその前に何かミスったのか?
前に遡って調べると
建安10年(205年)頃、冀州を平定した曹操は、朱霊に冀州兵5000と騎馬1000を委ね、許都の南を守らせた。
曹操は冀州兵の扱いについて朱霊に忠告していたが、陽翟に至ると果たして中郎将程昂が謀反した。
朱霊は直ちにこれを斬って曹操に謝罪したが、曹操は鄧禹の故事を引いて特に罪を問わなかった。wikiより
とある。鄧禹の故事を引いて特に罪を問わなかった。とあるので激おこではなかったけそ信用はされていなかったのかもしれないです。
最終的には曹操に気に入られていなかった(常に憎まれていた。)のだから伝記は残っていないということになる。