【鮑信】(ほうしん)
【知力】30 【武力】42 【魅力】41
鮑 信(ほう しん、元嘉2年(152年) – 初平3年(192年))
前漢の司隷校尉の鮑宣の八世の孫。父は鮑丹。弟は鮑韜。子は鮑卲・鮑勛。
『後漢書』や『三国志』などにその名が散見される。
寛大で節義を弁え、智謀に秀でていた。
代々儒学で名を成さしめた家系の出身で、常に質素な生活をしていたこともあったため、多くの人から慕われていた。
霊帝の時代、何進の招聘を受け騎都尉となった。
十常侍と対決することを決意した何進の命令で、同郷の王匡と共に故郷に戻り兵を募ったという。
しかし成皋の地に辿り着いたところで、何進が暗殺されたことを知った
(鮑勛伝の引く『魏書』)。
鮑信が兵を連れて戻ると、何進と十常侍が共に滅んでおり、董卓が軍勢を率いて都に入っていた。
鮑信が董卓の専横を予見し、袁紹に董卓を襲撃するよう進言したが、袁紹は実行しなかった。
そこで鮑信は郷里に帰り、二万の歩兵・七百の騎兵・輜重五千余りを集めた。
董卓討伐の同盟(反董卓連合軍)が結成された時、鮑信は済北国の相となっていたが、討伐軍に参加し、袁紹を盟主として関東の諸侯と盟約を結んだ。
鮑信は袁紹と曹操から行破虜将軍に推挙・上表された。
鮑信は劉岱・張邈・張超・袁遺・橋瑁と共に酸棗に駐屯した。
酒宴ばかりで戦をしようとしない諸侯に対し、曹操は戦をするよう訴えた。
鮑信は曹操の求めに応じ共に戦ったが、董卓の派遣した徐栄に大敗、弟が戦死し自身も重傷を負った。
まもなく兵糧が尽きて酸棗の軍勢が解散したため、鮑信も任地に帰還した。
袁紹が冀州を取り強勢となると、鮑信は袁紹が第二の董卓となりそうであるから警戒すべきとして、曹操に対し黄河の南を平定し、力を蓄え時を待つべきであると進言した。
曹操は東郡太守になると、再び鮑信を済北国の相に推挙した。
青州黄巾賊が兗州に侵入すると、直ちに討伐しようとする劉岱に自重を勧めたが、劉岱はこれを聞かずに黄巾賊と戦い戦死した。
陳宮は曹操を兗州牧に推戴するため、兗州の別駕従事や治中従事を説得した。
鮑信らはその意見に賛同し、曹操を兗州牧に迎えた。
初平3年(192年)、曹操と共に青州黄巾軍の残党討伐に向かった。
しかし作戦のため曹操と共に下見に出ていた最中、敵軍の不意打ちに遭ってしまった。
軍勢が到着していなかったため白兵戦となったが、鮑信は必死に戦い曹操を救出した。
このため曹操が敵の包囲を破って脱出できたが、鮑信は戦死してしまった。
享年41。
曹操は鮑信の死を悲しみ、遺体を捜させたが見つけられなかった。
将兵に施しを良くしたため、死後に財産も残らなかった。
『三国志演義』では字が允誠(嘉靖本)となっている。
反董卓連合軍の関東諸侯の中でも、特に無能な人物として描かれている。
先鋒を命ぜられた孫堅を出し抜くため、弟の鮑忠と共に抜け駆けをするが、華雄に大敗した上で弟を華雄に討ち取られてしまう。
最期は正史と同様に青州黄巾賊との戦いで戦死するが、曹操を助けるためではなく、功績を焦って突出したため戦死したという扱いになっている。
wikiより
史実では結構名将だったようです。
徐栄に大敗してるので武力42という設定は妥当ではないかと思います。
反董卓連合軍で、酒ばかりで戦わなかった諸侯の中で曹操の呼びかけに応じたところは戦闘員と評価は高い部分ではある。
しかも最終的には曹操のピンチを救っている。
曹操も鮑信の死を悲しんだとある。
典韋並の活躍ですね、主君救出してるからね