三国志2 武将データ 王忠

三国志2 武将データ 王忠

王忠(おうちゅう)

ちりょく【知力】34 ぶりょく【武力】52 みりょく【魅力】53

 

王 忠(おう ちゅう、? – 242年)

 

若い頃は亭長をつとめていた。

 

【亭長】中国古代の宿駅の役人の長。

秦・漢代、盗賊の逮捕取調べや省門の守備など、警察の任にあたらせた。

〔史記‐項羽本紀〕

 

三輔が混乱すると、王忠は飢え苦しんで人肉を食した。

 

その後、衆を率いて武関に向かったが、当時荊州に割拠していた婁圭に帰属することを望まず、これを攻撃し撃ち破った。

 

そして千人余りの軍を率いて、曹操に帰属した。

 

王忠は曹操の征討に付き従い、中郎将・揚武将軍・軽車将軍を歴任し、都亭侯に封じられている。

 

建安4年(199年)、徐州で車冑を殺害し叛逆した劉備を、曹操の命により劉岱と共に討伐した。

 

しかし劉備を降すことはできなかった。

 

建安18年(213年)、魏公への任命を受諾するよう曹操に促す文書に、王忠も名を連ねている。

 

五官中郎将だった曹丕は、曹操・王忠らと共に外出したことがあった。

 

このとき曹丕は、芸人に命じて墓場から髑髏を取って来させ、これを王忠の鞍に括り付けさせた。

 

かつて人肉を食った王忠を、笑い者にしたのである。

 

黄初5年(224年)、魏の皇帝となっていた曹丕(文帝)は友人の呉質のために、上将軍と特進以下の官吏をすべて呉質の宿舎に集め、酒宴を催した。

 

曹丕の寵を鼻にかけた呉質は曹真が太っているのをからかい、酒の肴にしようとした。

 

このとき曹真が激怒したにも関わらず、さらに王忠は曹洪と共に呉質の悪乗りに便乗して曹真をからかい、曹真の怒りに油を注いだという

 

『三国志演義』でも史実と同様に、劉岱とともに劉備討伐に向かう。

 

この時の曹操の意図は、袁紹を相手にしている間の時間稼ぎ程度であったとなっている。

 

王忠は、関羽との戦いに敗れ捕えられてしまう。

 

しかし劉備からは礼遇され、同じく捕えられた劉岱と共に、曹操への斡旋を依頼されている。

 

帰還後、王忠と劉岱は曹操に敗戦の咎を問われ処刑されそうになる。

 

孔融の取り成しで助命されている。

 

なお史実では、王忠らはあくまで勝利を得られなかった(原文「不克」)とあるのみで、劉備に捕虜とされたわけではない。

 

wikiより

 

人肉を食べた武将、これについては戦争時代だし生きる為だったんだろう。

 

実際に日本でも鳥取城の戦いでは秀吉の兵糧攻めにで吉川軍が人肉を食べている。

 

人肉については頭が味が良く、飢えたものは首に群がっていたとある。

 

もう、バイオハザードやね

 

兵糧攻めというと炎立つの豊川悦司を思い出す。