三国志2(SFC)版
呂公(りょこう)
ぶりょく【武力】36 ちりょく【知力】46 みりょく【魅力】62
呂公(りょこう、生没年不詳)
名は不明。
劉表の部将で、黄祖の配下。『英雄記』に登場する。
193年(初平4年)、劉表が孫堅に攻められた時、呂公配下の兵が石を落として抵抗したところ、孫堅にその石が当たり、頭を強打して脳髄を出す程の傷を受け即死したと言われる(襄陽の戦い)。
『三国志演義』では、その後孫堅の戦死により敗走する孫堅軍を追撃するが、敵討ちに燃える程普に討ち取られることになっている。
wikiより
三国志2では三国志演義での架空武将が多い気がします。
だが、呂公は呂公 (前漢) と呂公 (後漢) のものが存在する。
今回の記事で書いている呂公は(後漢)の方です。
孫堅の死因が書いてあります。
193年(初平4年)、劉表が孫堅に攻められた時、呂公配下の兵が石を落として抵抗したところ、孫堅にその石が当たり、頭を強打して脳髄を出す程の傷を受け即死したと言われる(襄陽の戦い)。
孫堅は呂公配下の兵の石を落とされ即死とある。
孫堅と倒したのだから、結構強くても良いのではないだろうか?
運だったのか?
しかしwikiで孫堅の史実を調べると死因が違う。
初平2年(191年)、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた。
孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。
しかし、襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い) 。
享年37。
どうやら呂公のエピソードと孫堅の死因は諸説ある。
長沙に帰還を果たしたものの、劉表に帰還を妨害された孫堅は兵の大半を失い、劉表に恨みを抱く。
些細な事で袁紹と不和になっていた袁術は、孫堅に劉表を攻撃させる事で、袁紹の力を削ぐ事を企て、孫堅に対して江夏攻略を命令する。
この戦いにおいて孫堅は、黄祖の守る樊城を落とし、襄陽を包囲すると、囲みを解こうと出撃した蔡瑁にも圧勝する。
その最中、包囲軍本陣の帥字旗がにわかに吹き起こった狂風で折れるという凶事が起こった。このため、韓当が「これは不吉の兆しなので退くべきでは」と進言する。
しかし、孫堅は聞く耳を持たずに出陣し、蒯良の策謀で呂公がしかけた伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ、落石に押し潰されて死亡した。
その死体は劉表軍により持ち去られたが、捕虜となっていた黄祖の身柄と引き換えに、この時参陣していた孫策のもとに引き渡された。wikiより
孫堅の死因についてwikiで調べると、蒼天航路は『三国志』呉志 孫破虜伝・『典略』
の内容を採用してる事が分かる。
陳寿の本文(『三国志』呉志 孫破虜伝)
陳寿の本文
(『三国志』呉志 孫破虜伝)初平3年(192年)、荊州の劉表を討伐しようとした際、単独行動中に黄祖配下の兵士によって射殺される。
『三国志』魏志 劉表伝では、その後に李傕と郭汜の長安侵入が記載されており、孫堅の死は概ね1月から4月までの間と特定される。
『典略』
没年の記載なし。劉表は籠城を決め込む一方で黄祖を城外に出し、徴兵をさせた。
城へ戻る途中で孫堅と交戦し敗北したが、茂みに隠れていた兵士が追撃をしてきた孫堅を射殺したとある。
『英雄記』
初平4年(193年)正月7日に死去。死因は劉表配下の呂公が伏せておいた伏兵に遭い、落石が頭部に当たったことによる。
死因については『三国志演義』に採用された。
なお、『演義』では初平2年11月に死亡したとする。wikiより
孫家って何故か孫堅〜孫策にかけて伏兵やらの攻撃で弓で暗殺されている。
これを暗殺と言っていいのかわからんが、ドラマ三国志スリーキングダムでは、劉表軍伏兵にあい(峴山の戦い)矢の嵐で死んでいる。