宋忠(そうちゅう)
ぶりょく【武力】32 ちりょく【知力】39 みりょく【魅力】56
宋 忠(そう ちゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期の学者。字は仲子。
荊州南陽郡の人。「宋衷」とも表記される。
荊州を支配した劉表の招請に応じ、儒者として教鞭をとった。
親交のあった蜀郡太守の王商へ、許靖に教えを請うよう勧める手紙を送っている。
劉表の死後は引き続き劉琮に仕えた。
劉琮は曹操に降伏を申し入れたが、客将の劉備には黙っていた。
隠し通すのも限界となり、宋忠は劉琮の命令でこの旨を劉備に伝えることになった。
事の次第を聞いた劉備は驚き怒り、剣を抜いて宋忠に突きつけ「貴様を殺すのは容易いが、貴様のような輩を殺すのは大丈夫の恥だ」と言い捨て、宋忠を追い払った。
その後は劉琮に従って曹操に降った。
宋忠には子(名は不詳)がいたが、建安24年(219年)の魏諷の反乱に加担して処刑された。
父の宋忠が健在であれば、連座による処分を受けていた可能性があるが詳細は不明である。
『三国志演義』では、曹操への降伏の使者となった帰りに、偶然関羽に見つかってしまい、無理やり劉備の下へ引き立てられることになっている。
事情を聞いた張飛は「宋忠を血祭りに上げろ」とまで叫ぶが、劉備はこれをたしなめている。
もっとも、剣こそ突きつけなかったものの、劉備が宋忠に吐いた台詞は、史実とほぼ同様である。
吉川英治の小説『三国志』や横山光輝の漫画『三国志』では、史実や『演義』のように劉備は激昂しておらず、冷静沈着に張飛らを宥め、宋忠も特に咎めることなく解放している。
wikiより
顔グラは武将だが、実際は学者と書いてますね
三国志5では登場していない武将(学者)です。
やはり主君である劉表の死後が破滅を辿っている。
これは劉備だって同じことになる、息子(阿斗)になり、蜀は無くなる。
宋忠に関しては正史では曹操に降伏し劉備にバレて追い払われ
その後、魏諷の反乱に加担して処刑されている。
魏諷はカリスマ性はあったのだろう、クーデター画策するも、陳禕が裏切り曹丕に密告し誅殺される。
その中に宋忠もいたので処刑さたのだろう。
曹丕(曹操の息子)も、結構強かったような気がします。色々な意味で
でも、なんでも創業者が一番最強ってことだよね、これは実社会でも創業者が凄くて雇われ社長などは、会社を衰退させるという道程を辿るパターンが多々ある。
2世でも活躍するパターンはあるが、三国志に関しては、曹操の死後、息子の補佐に 司馬懿つけている。
2世ぐらいは大体親父イズムは残っているが3世ぐらいから薄れ、4世では人となりすらわからないのが大抵のパターンだ。
人間というのは300年周期で同じことを繰り返すということは昔から言われていたような気がする。
実際には変わっているか変わっていないか分からない状態を何十億年も続けて少しずつ変わっていってるのだと思います。