三国志2 武将データ 王楷
王楷(おうかい)
ぶりょく【武力】31 ちりょく【知力】58 みりょく【魅力】24
王 楷(おう かい、生没年不詳)
最初は曹操配下で、従事中郎に任命されていた。
興平元年(194年)、曹操は陶謙を討伐するため徐州に出征した。
王楷はこの隙をつき、張邈・張超・陳宮・許汜らと共に、呂布を迎え入れ曹操に叛旗を翻した。
兗州のほぼ全域が呂布一派に制圧されている。
これ以降、王楷は呂布配下として活動することになった。
建安3年(198年)冬、呂布は曹操に敗退し下邳城内に追い詰められた。
このため王楷と許汜は、袁術の元へ救援要請の使者として赴いた。
前年の呂布との対立経緯から、袁術は援軍を拒絶する姿勢を示した。
王楷と許汜は、呂布が滅びれば次は袁術が攻められる番であると説き伏せ、呂布の娘を送るという条件で、何とか袁術に救援を受諾させることに成功した。
呂布は曹操軍の包囲を突破できる状況になく、実際には袁術の救援を得ることができなかった。
呂布滅亡後、王楷の名は史書に見当らない。
呂布と命運を共にしたか、あるいは許汜の様に他の諸侯を頼ったかも不明である。
『三国志演義』でも、許汜とともに曹操軍の包囲を突破し袁術に救援を求めている。
経緯も結末も、ほぼ史実に沿ったものとなっている。
wikiより
三国志5では登場してません。
曹操→呂布に付いて武将で張邈・張超・陳宮・許汜らと共に、呂布を迎え入れ曹操に叛旗を翻した。とる
やっぱりリーダーいないとスグ滅亡するんだろうな、でも呂布に関しては別物だろう。
呂布は曹操に敗退し下邳城内に追い詰めらたとき王楷と許汜は、袁術の元へ救援要請の使者として赴いたとある。
袁紹と呂布が合う訳がない、董卓配下だったころ戦っている。
十八路諸侯の集結し、呂布は袁紹を罵っていたドラマ三国志を見るに袁紹は臆病者とか言っていましたね
後々、袁紹滅亡の原因は既に董卓を洛陽に呼び寄せた頃から袁紹の吉凶は出ていた。
呂布には陳宮がいたので何とかもったのだろう、陳宮のイメージと言うと蒼天航路のイメージが強いです。
最後は陳宮も曹操に捕らえられやむなく処刑する。
再度仲間に取り込もうとするが、陳宮は断り処刑を望んだアニメがありましたね、だが呂布は命乞いあげるが、曹操は処刑した。
蒼天航路だと最終的に劉備の言葉で処刑した感じでしたね、何にせよあの場で散って良かったのかもしれないですね、話は王楷に戻るが、袁紹に援軍を断られた後に、歴史から名前を消している。
山に逃げたのか、どうかはわからない。