三国志2 武将データ 劉璝
劉璝(りゅうかい)
ぶりょく【武力】50 ちりょく【知力】42 みりょく【魅力】31
劉 璝(りゅう かい、生没年不詳)後漢末の武将。
劉璋に仕えて、212年に劉備と戦って大敗し、雒城に逃れ、劉璋の子の劉循とともに城を守ったが、一年後に落城したとある。
その後の動向は不明である。
『三国志演義』では、劉備がいかに危険性を持つ人物であるかを劉璋に説いて、蜀に入れないよう説くが聞き容れられなかった。
張任たちと共に劉璋に反旗を翻した劉備軍と戦う。
味方の戦死、降伏などで劣勢となっても頑強に抗戦を続けたが、部下の張翼によって殺害されてしまう。
こうして雒城は、張翼によって劉備軍に明け渡された。
wikiより
三国志5では劉璝は存在しませんでした。
ゲーム的にはあまり強くはないが武力が50ある。
濡須口の戦いの援軍(同盟相手の孫権へ)に劉備が向かおうとするが、劉備が劉璋に兵1万を要求(それと軍師までも)
これに劉璋は激怒した。
そもそも張魯討伐の為に劉備は派遣されたのだが、なかなか攻めずにいた上で孫権からの援軍要請に劉備が劉璋に兵1万を要求したという流れです。
そのその劉璋は虫が良すぎたのかもしれない、自ら戦わず、同じ劉の姓なので命が奪われないと思ったのだろう。
だが、あの時代のことなのだから(戦国時代ようなもの)
危機感あっただろうと思います。
キレた劉璋は、劉備派遣を提案した張松を切った。
劉璋が張松を斬ったことで、劉備は益州を取る決意をする。
孫権の援軍に向かうはずだったが、劉備は成都に向かって進軍する。
ここで綿竹を守備していた李厳だが、劉備に降っている。
龐統は成都攻略の前に劉循・張任が守る雒城を包囲した。
しかしこの包囲戦の最中、龐統は流矢(雨のように降りそそぐ矢、あるいは流れ矢)に当たって死去した。
享年36。
劉備は龐統の死を大いに悲しんだ。
劉備は荊州に残している兵も動員させ益州を攻めさせた。(諸葛亮、張飛、趙雲)
関羽はそのまま荊州を守備させた。(留守番)
張魯のところに身を寄せていた馬超までもが劉備に降り、劉璋は包囲され降伏した。
劉循・張任が守る雒城で劉璝もいたが、守りきれなかったようだ。
龐統を失う損害があったが、これは龐統が自ら選んだものだったのかも知れませんね、益州は大きく、劉備はほぼ全勢力と言っても良い軍で攻め入ったこともあり、被害がない方がおかしいのかもしれない。
益州には強い武将はいるのか?とか考えるが雷銅などの武闘派もいる。
呉蘭に関しては「三国志演義」では劉璋の配下と書いてあり「正史」ではわからない。
だが、どっちにしろ益州出身の武将のではないのだろうか?