宋謙(そうけん)
ぶりょく【武力】66 ちりょく【知力】31 みりょく【魅力】51
宋 謙(そう けん、生没年不詳)
三国時代の呉にかけての武将。
正史『三国志』では、195年に孫策配下として劉繇攻めに従う。
劉繇軍の太史慈が孫策に一騎討ちを挑んだ際、孫策につき従っていた13人の騎兵の一人として、韓当や黄蓋と共にその名を記されている。
215年、孫権が合肥城を攻めた時は一軍を率いて参加したが、曹操軍の張遼が奇襲してきたため、宋謙の兵は徐盛の軍と共に逃げ出してしまった。
しかし潘璋が逃げ出した兵2人を斬ったため、彼らの軍は全軍逃走に至らずに踏み留まることができた。
222年、蜀漢が呉に侵攻してきた時は、陸遜の指揮下で朱然・潘璋・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓と共に5万の軍勢で出陣し、これを撃退した。
劉備が白帝城に撤退すると、徐盛や潘璋と共に再攻撃の許可を孫権に上奏したが、陸遜の反対もあり許可されなかった。
宋謙に関する部分は上記の部分のみで、黄蓋ら武官として功績を挙げた者たちが載る「呉書」第十にも立伝されていない。
他の人物の伝に付伝されたり、裴松之の注釈にも詳細が記述されていないため、字や生没年、官位などが不明である。
『三国志演義』では方天画戟の使い手として登場する。
赤壁戦直後に孫権が合肥城を攻めた際、賈華とともに孫権の護衛として出陣する。
本陣に攻め寄せてきた楽進を迎撃し、楽進が撤退すると追撃するが、李典の放った矢が心臓に命中し、戦死することになっている。
孫権は宋謙の死を嘆き悲しみ、太史慈を仇打ちのために出陣させている。
wikiより
三国志演義では賈華とともに孫権の護衛しています。
方天画戟の使い手とある。
方天画戟と言うと呂布愛用の武器ですが、これは三国志演義だけの架空の話で、正史では存在しないそうだ。
正史では武器の分類上、月牙を水平方向に2枚取り付けた戟を方天画戟としているものもある。とwikiにある。
前の記事でも述べたが、例えば関羽が張遼、両者とも「青龍偃月刀」使いのようなもので、方天画戟というものは、武器の分類上の名前にしか過ぎないのかもしれません。
ゲームとしては宋謙は、武力66と魅力が51、知力31となっている。
ぎりで太守が出来る「魅力51」って感じです。
武力も66よ弱くはないですね、戦闘に使うかと言うと微妙なところですが、太守にはできそうなので、国土を広げて太守とする武将が少ないときは、重宝するでしょう。