楽就(がくしゅう)
ぶりょく【武力】74 ちりょく【知力】54 みりょく【魅力】53
楽 就(がく しゅう、? – 197年)
袁術配下。
建安2年(197年)9月、曹操は自ら陳国に進攻して来た袁術を討伐しようとした。
これに対して袁術は、橋蕤に加えて李豊・梁綱・楽就の3将を陳国に残留させ、自分だけ寿春へ逃げ帰ってしまった。
楽就は、他の将軍たちと共に曹操軍を迎撃したが、敗北して戦死した。
『三国志演義』では、李豊・梁剛(正史の梁綱)と共に呂布討伐の際に袁術軍各軍の督戦官を務めている。
曹操らが寿春に攻め込んで来ると、淮水を渡って逃れようとする袁術の命により、楽就は李豊・梁剛(正史の梁綱)・陳紀と共に寿春城を固守している。
曹操軍の猛攻の前に城が陥落し、楽就らは城内の市場へ引き出されて斬首されてしまう。
『後漢書』袁術伝によると、張勲も留まったとされる。wikiより
袁術の将である楽就、袁術自身は寿春に逃げ、曹操(劉備も)が攻め入る陳国に橋蕤に加えて李豊・梁綱・楽就の3将を残留させたとある。
後漢書では張勲も留まっていたそうだ。
張勲というと同じく袁術の配下の将軍で袁術が帝位に僭称すると大将軍に任じられた。
二十万の兵士を率いて呂布と戦うが敗走した。
張勲は三国志5でも登場します。
ドラマ三国志では張勛(ちょうい)呼ばれている武将は張勲のことだろうと思われる。
その他にも将軍は、紀霊(きれい)・楊奉(ようほう)・雷薄(らいはく)楊弘(ようこう)などもいる、楊弘は同じ名前のものが魏にももう一人存在している。
また、劉勲(りゅうくん)袁術の故吏であり、曹操とも旧知のものもいる。
故吏とはかつて辟召を受けて上司と部下の関係とも書いてある。
揚州に進出した袁術は、廬江郡を孫策に命じて攻略させたが、太守の座には孫策ではなく、自分の元々の部下である劉勲を任命した(『三国志』呉志「破虜討逆伝」)。wikiより
橋蕤(きょうずい)も袁術の配下で大将軍の地位にある。
橋蕤は正史では于禁にやられる。
三国志演義では寿春付近で夏侯惇に矛でやられる。
ここで、曹操が侵略した場所は正史では陳国だが、演義で寿春になっている。
だが、袁術が逃げ出したことは変わらない。
演義での最期は梁綱・李豊と共に斬首される楽就である。
袁術の将軍というと紀霊が有名です。
父を殺された孫策は居場所がなく、袁術の配下に加わっていた時もありました。
程普・黄蓋・韓当・祖茂も袁術の配下となっていたました。
後に孫策は伝国璽と引き換えで程普・黄蓋・韓当・祖茂の4人の将を引き連れ
袁術のもとから離れます。
その他ににも袁術の配下のもは存在している。
ドラマ三国志では、袁術が先生と呼ぶ軍師のような白髪の家臣がいました。
おそらく彼は、閻象(えん しょう、生没年不詳)なのではないだろうか?
袁術配下の主簿で主簿(しゅぼ)とは帳簿をつかさどる人で中国の官名。
帳簿を管理し、庶務をつかさどる官。
次官につぐ程度の地位とある。
閻象(えんしょう)は『後漢書』袁術伝・『三国志』魏書袁術伝にのみ記述がある。
袁術が皇帝となるとき、閻象一人だけが災いの元となるので皇帝にはなるなと忠告する
「漢王朝が健在である以上まだその時期ではない」と諌めたとwikiにもある。
こうして袁紹は一度は聞き入れるが、これ以後、閻象は史書に見当たらない。
その後、袁紹は皇帝となっている。
『三国志演義』でも、史実同様に閻象は諫言するも
袁術は怒りこれ以上言うと斬ると閻象を脅して皇帝となった。
その他にも袁渙(えんかん)という袁術配下のものもいた。
袁渙は『三国志演義』には登場しない。
袁術が呂布に敗戦した際に捕虜り、そのまま呂布に仕えた後に呂布は曹操に敗れ
袁渙は曹操に降る。
主に内政面で献策し人民から慕われたとある。
袁渙が亡くなると、曹操は涙を流して悲しんだ。
これを見るに袁術軍かなり強大な勢力だったことがわかる。
だが董卓と劉表に挟まれ、更に曹操と劉備に攻め入られることになる。