三国志2 武将データ 審栄

三国志2 武将データ 審栄

審栄(しんえい)

 

ぶりょく【武力】48 ちりょく【知力】49 みりょく【魅力】47

 

審 栄(しん えい、生没年不詳)

冀州魏郡陰安県の人。叔父は審配。

 

袁尚配下。

 

建安9年(204年)2月、曹操が袁尚の本拠である鄴を攻めた際、審配がこれを守備した。

 

審栄も審配の指揮下で東門校尉を務めていたが、同年8月に東門を開いて曹操に寝返った。

 

審配は捕えられると、曹操から「裏切者は審栄であった」聞かされたため、審栄に対し「役立たずの小僧の分際で」と罵り悔しがった。

 

審配が処刑された後の審栄の消息は不明である。

 

『三国志演義』では、辛毗の友人という設定であり、審配に一族を皆殺しにされた辛毗に同情し、曹操に内通するという展開になっている。

 

正史では、審配が皆殺しにしたのは兄の辛評の家族のみであり、辛毗の家族は辛うじて窮地を脱している。

 

審栄が辛毗と友人であったかどうかについても、史実では記載がない。

 

辛毗が怒りの余り捕えられた審配を鞭打ったことや、審配が捕らえられた後で曹操から開門した人物が審栄だと告げられた場面は、『演義』でも正史でもほぼ同様である。

wikiより

 

叔父の審配は三国志5でも登場します。

だが、審栄は三国志5では登場しませんでした。

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審配というと三国志5で強かった思い出があります。

大抵は敵として現れたイメージです。平均して能力値高かったため、かなり強かった思い出があります。

何かしらで城を守っていて守りが堅いイメージです。

因みに三国志5での能力値はこんな感じです。

 

武力【武】73 知力【知】69 魅力【魅】75 政治【政】87

 

話は審栄に戻る、三国志2での審栄の強さはあまり強くはないです。

 

ぶりょく【武力】48 ちりょく【知力】49 みりょく【魅力】47

 

だが、平均的に50届くか届かないかの感じで、弱くはないです。

 

史実では、審栄は曹操に寝返り、曹操に審配は捕えられると、曹操から「裏切者は審栄であった」聞かされたため、審栄に対し「役立たずの小僧の分際で」と罵り悔しがった。

 

その後、審配は処刑され審栄は消息不明とある。

 

袁紹軍は何かしらの仲間割れで破滅しているように思える。

 

これはリーダーシップを取る主君(袁紹)の統率がなかったのだと思える。

 

なので助言が暴走し、家臣同士が争い袁紹は滅びました。

 

ドラマ三国志でも、許攸、田豊、郭図との内部争いをし、良し悪しのわからない君主は迷い家臣を疑う、これを繰り返し破滅したのだった。

三国志2 武将データ 郭奕

三国志2 武将データ 郭奕

郭奕(かくえき)

ぶりょく【武力】30 ちりょく【知力】89 みりょく【魅力】71

 

三国志5での郭奕。

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郭嘉の息子です。

 

三国志5でも郭奕の記事を書きましたが、三国志2の顔グラ(特殊な感じ)が気になったので、記事に残してみました。

 

後ろ姿からの顔グラは三国志5では朶思大王の顔グラを思い出します。

三国志5での朶思大王の顔グラはこちらの記事でご覧下さい。

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この背を見せる感じ、瞬獄殺かって感じのインパクトを感じる。

 

瞬獄殺とは?何?って思った方に軽く説明すると

 

ストリートファイターシリーズのキャラクターである豪鬼が使用する大技です。

 

その話は冗談として、郭奕の能力値比較をしてみたいと思います。

(三国志2と三国志5の比較です。)

 

ぶりょく【武力】30 ちりょく【知力】89 みりょく【魅力】71

 

武力【武】30 知力【知】79 魅力【魅】41 政治【政】82

 

武力は据え置きで、その他は修正があります。

 

知力に関しては、曹操が幼い郭奕を教育したとある。

 

父ほどではないが物事の理解が早く、知識も豊富だったそうだ。

 

三国志2では【89】→三国志5で【79】になっている、これは良い修正入ったんじゃないかなと思います。

 

ちょっと【89】は高すぎたんじゃないのかと私も思います。

 

なので三国志5での【79】妥当ですね

 

そして次に魅力に関してですが、三国志2では【71】から三国志5では【41】になっている。

これは、Wiki でエピソードの確認すると分かる通り

 

郭奕と親交のあった王昶が、子や兄の子に残した訓戒によると「好きな人は山を仰ぎ見るように徹底して尊敬するが、嫌いな人は草を見下すように徹底して軽んじる」

 

という度量の狭さもあったという。王昶は、郭奕の態度を取ってはいけない例として挙げている。wikiより

 

これを見るに、三国志2では【71】から三国志5では【41】の変更は妥当と判断します。

 

寧ろ多いと考える。

 

魅力の比較対象をするのならば、劉備は魅力というか侠が存在するのかという部分になる。

 

この部分は一言に片付けるには難し部分もある。

 

晩年になり、切羽詰まると我が出るのはしょうがない部分もある。

 

これにより蜀の本来の目的よりも敵討ちになり滅亡することになる。

 

魅力と知力は近しいものなのかも知れないですね、因みに部下にやられた張飛も三国志5では魅力44ほどでした。

 

今回は、三国志2での郭奕の顔グラが特別に瞬獄殺感があり面白かったので記事にした次第です。

三国志2 武将データ 王匡

三国志2 武将データ 王匡

王匡(おうきょう)

ぶりょく【武力】45 ちりょく【知力】33 みりょく【魅力】43

 

王匡 (河内太守)

 

王 匡(おう きょう、生没年不詳)

 

若い頃から財貨を軽んじて施しを好み、任侠をもって知られた。

 

蔡邕と親交があったという。

 

はじめは何進に大将軍府掾として仕え、徐州に赴任して軍需物資の補給などの後方担当役を勤めていた。

 

中平6年(189年)、何進が宦官によって殺害されたため、職を辞して郷里に戻り平民となった。

 

河内太守に就任した。

 

『三国志』常林伝によれば、王匡は河内郡に属する県の官民の罪過を探り、疑わしい者を逮捕して取り調べ、罪過があれば金や穀物を要求し、すぐに金や穀物を出さない者は一族ごと処刑し、威厳を高めた。

 

初平元年(190年)、諸侯連合による董卓討伐軍が起こされる。

 

王匡もこれに参加し、軍を河陽津に駐屯させ、董卓軍を攻撃しようとするが

 

董卓軍の巧みな挟撃を受け王匡軍は大敗し、ほぼ全滅の損害を被った。

 

泰山へ逃げ帰った王匡は再び軍を集め、陳留の張邈と合流しようとする。

 

その頃、董卓から和睦の使者として、王匡の娘婿にあたる執金吾の胡毋班が河内にやって来た。

 

王匡は、諸侯連合の指導者である袁紹の命を受けて、やむなく殺害した。

 

このため後に、曹操と手を結んだ胡毋班の遺族によって王匡は殺害されてしまった。

 

その正確な時期は不明である。

 

董卓存命時に張楊が河内太守に任命されたとあるが、仮に太守在任中に王匡が殺されたとすれば、遅くとも初平3年(192年)までとなる。

 

王匡には、後に曹操配下として文武に亘り活躍する韓浩が従事として仕えており、董卓討伐戦以降、勇名を高めた。

 

『三国志演義』でも、董卓討伐の諸侯連合に河内太守第5鎮として加わっている。

 

虎牢関の戦いで先鋒を務めるが、配下の武将方悦を呂布に一瞬で討ち取られ、慌てて逃走している。

 

その後は登場しない。wikiより

 

中国の新代の王匡2名も存在している。

 

王匡 (更始)と王莽の一族の王匡とは別人です。

 

今回は後漢末年の河内太守で反董卓の連合軍に参加した王匡です。【王匡 (河内太守)】

 

三国志2での能力値としてはあまり強くないですね

 

ぶりょく【武力】45 ちりょく【知力】33 みりょく【魅力】43

 

河内太守だし、常林伝では、王匡は河内郡に属する県の官民の罪過を探り、疑わしい者を逮捕して取り調べ、罪過があれば金や穀物を要求し、すぐに金や穀物を出さない者は一族ごと処刑し、威厳を高めた。

とあるし金より任侠を選んだ正義感でもう少し強くても良いのではないだろうか?

 

だが、演義で配下の武将【方悦】が呂布に討ち取られ、慌てて逃走とあるので軽んじられたと思います。

 

だが、皇甫嵩ぐたいの雰囲気はあるのかなと思いました。

 

あがあまり能力を高くしては、ゲームバランスが悪くなってしまうかな?

 

なので、この能力値は一番妥当な判断だったのかもしれません。 

三国志2 武将データ 李典

三国志2 武将データ 李典

李典(りてん)

ぶりょく【武力】56 ちりょく【知力】40 みりょく【魅力】45

三国志5での李典

李典は有名な魏の将。

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ここで気になったのが、この頃(三国志2)はまだモブキャラ的扱いなんですね

 

顔グラがまず、モブキャラのものです。(多少違う)

 

ですが、顔グラを一つづつ描く手間はかなりの費用と労力がかかるためしょうがないと思います。

 

能力値での比較をしてみましょう。

 

武力【武】78 知力【知】81 魅力【魅】69 政治【政】49

(三国志5での李典の能力値)

 

ぶりょく【武力】56 ちりょく【知力】40 みりょく【魅力】45

(三国志2の能力値)

 

武力がかなり上がっています。知力も倍以上上がってます。

 

魅力も+24も上がっている。

 

李典は黄巾賊討伐時代から曹操に従った歴戦の強者と三国志5の説明に書いている。

 

冷静で慎重な性格で、同僚の暴走も度々抑えた。

 

張遼・楽進とともに合肥を守備した。とある。(三国志5・伝記)

 

李典は三国志5で登場していて、ブログ記事にする気がなかったが、あまりの脇役ぶりと能力値の低さと量産顔グラのモブキャラ扱いが、KOEIゲーム・三国志の歴史を感じました。

 

三国志から三国志2までのKOEIの歴史も知れるので、記事にする事にしました。

 

三国志2の時は楽進もあまり強くありません

 

記事にしたので、気になった方はこちらをご覧下さい。

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楽進の顔グラはオリジナルなものなのか?

量産型かは、わかりませんが、よく調べてね1人1人少し違う顔グラです。

 

楽進の真っ直ぐな顔グラは何となく気に入りました。

 

だが問題の能力が李典よりもかなり低いものとなっています。

 

知力【38】武力【44】魅力【41】(三国志2・楽進)

 

かなり能力は低いです。

 

話は李典に戻るが、冷静で慎重な性格とあるように正史でも知力は高かったのではないだろうか?と思う伝記がある。

 

建安7年(202年)に曹操が黎陽の袁譚・袁尚を攻撃した際、李典は程昱とともに船で兵糧を輸送した。

 

袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させていた。

 

曹操はあらかじめ「船が通れないなら陸路を行くように」と命じていたが

 

李典は「高蕃の軍はよろいをつけた兵が少なく、水に頼りきって油断をしているから攻撃すれば必ず勝てる。

 

軍は朝廷に統御されず、国家の利益になるならば専断は許される。

 

速やかに攻撃すべきだ」と主張した。

 

程昱は同意し、高蕃に急襲をかけて打ち破り、水路を回復させた。

 

李典は若いころ学問を好み、軍事は好きではなかった。

 

先生について『春秋左氏伝』をはじめ多くの書物に親しんだ。wikiより

 

これを見るに程昱も同意するぐらいだから知力もそれなりにあると思える。

 

これを見るに諸葛亮に提言した魏延も思い出します。(魏延の進言は採用されなかったが… …)

それ以前に色々と問題も起こしていたそうだから、魏延の進言は採用されるものではなかったのだろう。

三国志2 武将データ 杜襲

三国志2 武将データ 杜襲

杜襲(としゅう)

 

ぶりょく【武力】67 ちりょく【知力】61 みりょく【魅力】56

 

杜 襲(と しゅう、生没年不明)

魏に仕える。豫州潁川郡定陵県の人。字は子緒。曾祖父は杜安。祖父は杜根。

兄は杜基。子は杜会。

 

曾祖父と祖父は名声の高い人だった。

 

杜襲は若い頃、陳羣・辛毗・趙儼と並んで名が知られていた(「趙儼伝」)。

 

同郡の繁欽や趙儼らとともに、戦乱を避け荊州へ避難する。

 

劉表から、杜襲らは賓客として遇されるようになった。

 

だが杜襲は劉表を評価せず、さらに友人の繁欽が劉表に厚遇されていたことも非難し、絶交をほのめかした。繁欽は杜襲の言葉に従った。

 

その後長沙に赴いたが、曹操が献帝を許都に迎えると郷里に戻り、曹操の任命で荊州に隣接する西鄂県長となった。

 

その地は賊の侵入で荒れ果て、人々は城に立て籠もらざるを得ず、満足に農耕もできない状況であった。

 

杜襲は恩愛のある政治を弁えていたので、老人と若者に農耕へ従事させる一方で、強壮な者を兵士にし守備に就かせた。

 

荊州から歩兵と騎兵1万人が侵攻してきたが、杜襲は官民から守備にあたることができる者50数名を召集し、城外に親戚がいる者は自由にそちらの守備についてもよいと命令した。

 

集まった者達が皆協力を申し出てきたため、杜襲は自ら矢や石を手に取り、防衛の指揮を執った。官民達は杜襲の恩愛に感激し皆が協力した。

 

杜襲は奮戦し、数100人の敵兵を討ち取ったが、集めた50余名のうち30余名の味方を失い、その他18名も傷を負った。

 

結局落城の憂き目に遭ったが、杜襲は傷を負った者達を引き連れ敵の囲みを脱出することができた。

 

官民達はほとんどが戦死し、裏切り者が出なかったという。鍾繇は杜襲を議郎参軍事に推挙し、荀彧もまた杜襲を推挙した。

 

そのため曹操は杜襲を丞相軍師祭酒に任命した。

 

曹操の魏公擁立に群臣らとともに尽力し(「武帝紀」)、曹操が魏公となると侍中に任命され、王粲や和洽と共に用いられた。

 

王粲は記憶力があり見聞が広かったことから、曹操が物見に行く度に同行することが多かったが、曹操から杜襲・和洽ほど尊敬されなかった。

 

王粲は杜襲と曹操の親密さに落ち着かない態度を示したことがあったが、和洽に窘められた。

 

曹操が陽安関で張魯を討ち漢中を支配すると、杜襲は駙馬都尉に任じられ軍事の監督を任された。

 

杜襲は民衆を安んじ教導したことから、洛陽・鄴へ進んで移住した者の数が8万余に昇った。

 

漢中に侵攻した劉備との戦い(定軍山の戦い)で夏侯淵が戦死すると、指揮官を失った将兵らは顔色を失った。

 

しかし杜襲は張郃・郭淮とともに軍の事務を執り行ない、臨時の都督に張郃を任命して軍の動揺を鎮めた。

 

曹操は長安から東に帰還するとき、長安に留府長吏を置くことにした。

 

しかし、担当官が選んだ人材は悉く不適当であった。

 

曹操は直々に杜襲を留府長吏に抜擢し、長安を鎮守させた。

 

将軍の許攸が曹操に従わず、不遜な態度をとっていたので、曹操は討伐を考えていた。

 

杜襲は「許攸はとるに足らない人物であるから、わざわざ殿の武威を示すほどでもありません」とやんわり諫言した。

 

曹操が許攸を手厚く慰撫すると、許攸はすぐに帰服した。

 

曹丕が王位に就くと関内侯に封じられ、即位すると督軍糧御史・武平亭侯に封じられた。

 

督軍糧執法に改めて任じられ、中央に戻り尚書となった。

 

以前、曹丕が太子であったころ、夏侯尚と曹丕はとりわけ仲が良かった。

 

杜襲は夏侯尚が人に益を与える人物ではないと評し、特別待遇を与えるまでもないと曹操に言上した。

 

曹丕は不機嫌になったが、後に夏侯尚の行状が乱れると、杜襲の言葉を思い起こすようになったという。

 

曹叡(明帝)が即位すると、平陽郷侯に爵位を進めた。蜀漢の諸葛亮が秦川に侵攻して来ると、曹真が大将軍として防衛に当たり、杜襲は大将軍軍師を務めた。

 

曹真が没すると司馬懿が蜀からの防衛を引き継いだが、杜襲は再びその軍師の役目を果たした。

 

300戸を加増され、領邑は550戸となった。

 

病気のため召還され、太中大夫に任命されたが死去し、少府を追贈された。

 

諡は定侯。

 

『三国志演義』では、定軍山の戦いで夏侯淵に従軍し西の川を守るが、蜀将の黄忠の攻撃に遭い逃げ去ってしまう。

 

後、大将の夏侯淵が黄忠によって討たれたため、そのまま落ち延びている。

 

wikiより

 

こんなにも長い伝記が残っているのだから、かなり重要人物だったのではないでしょうか?

 

そして三国志5でも登場していません、なんでだろう… …

杜預(どよ) 杜遠(とえん)など似た名前は登場している。

 

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三国志2 武将データ 馬延

三国志2 武将データ 馬延

馬延(ばえん)

 

ぶりょく【武力】64 ちりょく【知力】41 みりょく【魅力】51

 

馬 延(ば えん、生没年不詳)

 

正史

袁尚配下。

 

建安9年(204年)、鄴を守備する審配を救援するため、袁尚に従い曹操と戦ったが、敗北を積み重ねた。

 

袁尚は降伏の使者を曹操に送ったものの容れられず、遂には、馬延が同僚の張顗と共に曹操に降伏してしまい、袁尚の軍勢は総崩れとなって中山へ敗走した。

 

史書の記述はこれだけである。

 

 

『三国志演義』では、この後も曹操配下として登場する。

 

当陽の戦いでは他の袁紹の降将と共に、阿斗を抱える劉備軍の趙雲を包囲するが、突破されている。

 

赤壁の戦いでは、張顗と共に敗走する曹操を護衛するが、追撃してきた呉の甘寧に張顗共々討ち取られている。wikiより

馬超の身内かと最初は思ったが、違うのかな?

 

袁紹の配下武将で、その後曹操に降っている。

 

三国志演義では、阿斗を救出する趙雲の足止めさせるため包囲したが突破されたそうだ。

 

その後赤壁の戦いで、甘寧に張顗(ちょうぎ)と共に討ち取れる。

 

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三国志5では馬延は登場しませんでした。

 

ゲーム三国志2での馬延の使い道と用途など

ぶりょく【武力】64 ちりょく【知力】41 みりょく【魅力】51

 

平均的な感じで、弱くもないが強くもないといった感じです。

 

留守番役で、占領した国々の太守あたりをやらせればいいかも知れないです。

 

普通にモブキャラといってもいいので、これと言って何もないです。

 

三国志2をやって思うことは、武将を仲間にするのにそんなに困らないので、兵数を多く(武将5名・兵数500)国に配置しておけばCPUからまず攻め込まれることはない。(例外もある、敵国が強大になりすぎている場合、攻め込んでくる。)

 

後、兵糧が少ないと当然、攻め込んで来て兵糧攻めに合います。

 

もしもそうなった場合の対処法は、敵の大将を撃破することです。

 

多分兵糧攻めの時はCPUであっても攻め込んでこないという、動きをしてきます。

 

だが、先読みして、敵の大将に向けて全精力投入し撃破させます。

 

主城に1部隊置いてもいいが、地の利で面倒な場合は敵大将撃破を最優先しましょう。

 

一番の安全牌として主城に1部隊配置しても悪くない、攻め込んでくる側は野戦となるため、攻撃も通常通りに入るので城の守りは当然ないでの意外と突撃で撃破出来るチャンスが生まれる場合がある。

 

また挟み撃ちにして火計で封じ込めてもよい、逃げ場のない火計です。

突撃で突破されないように配置を計算して行動すると良い。

三国志2 武将データ 典満

三国志2 武将データ 典満

典満(てんまん)

ぶりょく【武力】80 ちりょく【知力】26 みりょく【魅力】49

 

典 満(てん まん、生没年不詳)

魏の武将。典韋の子。

 

『三国志』魏志典韋伝によると、父の死後、曹操から郎中に任命された。

 

後に司馬に昇進し、曹丕から関内侯の位を与えられ、都尉に昇進したとある。

 

wikiより

 

三国志5には典満登場してませんでした。

 

というか、典韋に子供いたんか

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曹操は戦死した場所を通るたびに典韋を弔い、彼の子である典満を郎中とし、後に司馬に採り立てて側に置いた。とwikiにもある。

 

もっと活躍の場があってもいいだろうと思ったが、歴史として残らなかったと思うが

 

ただ単にワイが知らないだけか?

 

でも関羽が死んでまもなくして曹操も逝去する。

 

それ以降、曹丕に付いている。

 

多分戦っていると思います。

 

曹丕から関内侯の位を与えられている。

 

関内候(かんだいこう)とは、皇帝から臣下に与えられる爵位のことで

 

二十等爵(にじっとうしゃく)といい、20個の爵位がある。

 

関内候は上から二番目の爵位で張遼とかもこの爵位を与えられている。

 

濡須口の戦い(じゅしゅこうのたたかい)あたりで活躍していないかな?

 

と思いwikiを見るが名前がない、だが魏将の武将名のあと【等】とあるため、もしかすると参加していたか、都を守っていたのかどちらかだろうと考えられる。

 

父だって主君を守って最期と遂げたのだから、都を守っていたのかな?

 

典韋の歴史を改めて確認してみると

 

父の典韋が弁慶状態で壮絶な最期を遂げた。

 

演義でも

 

張繡反乱の際には、張繡軍の胡車児に酒で酔わされた隙に武器を奪われたため、敵の武器を奪って戦うが、敵の弓兵の一斉射撃を全身に浴び、直立不動のまま息絶えたことにされている。wikiより

 

漫画『蒼天航路』では胡車児に食事に毒を盛られてました。

 

正史でも鉄壁の守りをするも、典韋は最後、突進し数人を殺してから、目を怒らせて口をあけ、大声で罵りながら死んだ。とある。

 

張繡と胡車児と賈詡が印象的でした。

 

賈詡(かく)は主君を多く変えている。

 

董卓・李傕・段煨・張繡に仕えた後、曹操・曹丕の2代にわたり重臣として活躍する。

 

藤堂高虎思い出す。

【主君】    浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→津田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光

【藩】    伊予今治藩主→伊勢津藩主

 

世渡り上手としかいいようがない、この時代なら主君をころころと変えるとここそ死を意味する。

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三国志2 武将データ 張南

三国志2 武将データ 張南

張南(ちょうなん)

ぶりょく【武力】53 ちりょく【知力】40 みりょく【魅力】49

 

張南は【張南 (後漢) – 中国後漢末期の人物】と【張南 (蜀漢) – 中国三国時代の人物】

 

の2名存在している。

 

張南 (後漢) 

張 南(ちょう なん、生没年不詳)中国後漢末期の人物

 

魏書武帝紀・袁紹伝に散見される。

 

当初は袁煕に仕えた。

 

曹操が袁尚を追って、幽州の袁煕勢力圏まで攻めて来た際、袁煕を裏切って焦触とともに袁兄弟を遼西に追放した。

 

曹操に降伏後、列侯に封じられた。

 

『三国志演義』では、その後日談が描かれている。

 

曹操に従って赤壁の戦いに参加。

 

緒戦において、「水軍の心得がある」ということで焦触とともに出陣するが、呉の韓当・周泰に敗北し討ち取られている。

 

wikiより

 

張南 (蜀漢)

張 南(ちょう なん、? – 222年)

 

中国後漢末期から三国時代の蜀漢の武将。

 

字は文進。蜀書先主伝・楊戯伝(季漢輔臣賛)・呉書陸遜伝などに散見される。

 

劉備の荊州時代から仕えた家臣。

 

221年、夷陵の戦いに副将として従軍した。

 

翌年、呉軍と戦って大敗し、指揮官の馮習と共に戦死した。wikiより

 

三国志2で登場する張南はどちらかわかりませんが、曹操軍にいたので、多分後漢の張南だと思われる。

 

後漢張南の場合では、袁煕に仕えその後曹操に降伏してしている。

 

三国志演義では降伏後、曹操軍で赤壁の戦いに参戦している。

 

数少ない水軍に心得があるが、韓当・周泰に敗北し討ち取られる。

 

やはり水軍は呉が強いですね、三国志5でも困った思い出があります。

 

水(河)で移動速度も水軍じゃなきゃ辛い、呉将は水計持ちが多く、水計で壊滅状態にさせられる上に、「水神」を持っていたら被害を食らわない。

呉将の上位武将は大抵は「水神」習得した上で「水計」も習得しているパターンが多く

荊州やら呉に進軍する場合は結構面倒でした。

 

三国志2では張南が2名いるかどうかは今のところわかりませんが、ゲームデータ的に2名同じ名前の武将を存在させることはまずないと考えられる。

 

三国志5でも確か馬忠が2名存在していて、呉将の馬忠と蜀将の馬忠が存在している。

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これに至っては、他にも色々存在しているため、しょうがない。

 

三国志2でゲームとしての張南は、歴史からして妥当なデータですね

 

ぶりょく【武力】53 ちりょく【知力】40 みりょく【魅力】49

 

弱すぎる事もないが強いわけでもない、武将です。

三国志2 武将データ 冷苞

三国志2 武将データ 冷苞

冷苞(れいほう)

 

ぶりょく【武力】67 ちりょく【知力】25 みりょく【魅力】52

 

冷 苞(れい ほう、生没年不詳)

 

泠苞とも呼ばれる。

 

正史では、劉璋配下。

 

建安18年(213年)、劉璋と劉備の関係が悪化し、劉備の入蜀が始まった。

 

冷苞は劉璝・張任・鄧賢と共に涪城で劉備軍を迎え撃ったが敗れ、綿竹へ後退した。

 

以後、史書には登場しない。

 

『三国志演義』では、劉備歓迎の宴で劉璋を守るために同僚たちと共に剣舞を行う。

 

劉備の入蜀が始まると、涪城ではなく雒城で劉備軍を迎え撃った。

 

鄧賢と共に城外で陣を構えたが、魏延に捕らえられてしまう。

 

他の武将を説得する約束で解放されたが、劉備軍を水攻めにしようとして失敗し、魏延に再度捕らえられて処刑された。

 

wikiより

三国志2と登場武将は知らなかった武将が多いです。

 

益州も大きい領土なので、当然なのかもしれません

 

荊州の劉表、益州の劉璋が治めていたのだから、本来もっと武将が登場しても良いはずだと思っていました。

 

三国志5では、登場しなかった武将です。

 

冷苞は劉璝・張任・鄧賢と共に涪城で劉備軍を迎え撃ったが敗れ、綿竹へ後退したある。

鄧賢は三国志5でも登場しました。

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張任は有名ですね(三国志5でも登場してます。)

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劉璝も劉璋の武将です。

 

Wikiで調べても血縁関係があるかどうかはわかりませんが劉の姓なので、何かしらの関係があると考えられる。

だが、それを言ったら劉備は本当の高祖、劉邦の末裔なのか怪しいが一応末裔という形にはなっている。

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この劉璝・張任・鄧賢と共に戦ったとあるのだから、結構有力な武将なのではないだろうか?

 

ゲーム内の話で三国志2では、こんな感じです。

 

ぶりょく【武力】67 ちりょく【知力】25 みりょく【魅力】52

と言った感じで、まずまずと言ったところだろう、だが微妙です。

 

強いか弱いかと言うと弱いです。

 

一騎打ちをしても67と結構低めで、主力部隊にもならないです。

 

冷苞を敢えて使うかと言うと太守にして、内政させると言った使い道になるでしょう。

 

それか、偵察勢として使うかする。【情報】→【他国】

 

劉璝・張任・鄧賢と共に戦ったとあるがその他にも

 

このメンバーに呉懿(ごい)も存在した。

 

呉懿と言ったら三国志5では、いつの間にか仲間になりかつ主力部隊となっている呉懿さんです。

 

三国志5での呉懿はかなり有能な武将で、色々な場面で活躍していた思い出がある武将です。

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三国志2 武将データ 桓階

三国志2 武将データ 桓階

桓階(かんかい)

 

ぶりょく【武力】40 ちりょく【知力】41 みりょく【魅力】52

 

桓 階(かん かい、生没年不詳)

 

中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。

 

魏に仕えた。

 

字は伯序(または伯緒)。荊州長沙郡臨湘県(現在の湖南省長沙市長沙県)の人。

 

祖父は桓超。父は桓勝。弟は桓纂・桓彝(字は公長。呉の尚書)。

 

子は桓佑・桓嘉・他数名。孫は桓翊・桓陵。妻は伏氏。

 

『三国志』魏志「桓二陳徐衛盧伝」に伝がある。

 

祖父の代から州郡に出仕する家柄で、父は尚書を務めたため、南方において著名であった(『魏書』)。

 

長沙郡の功曹となり、太守の孫堅から孝廉に推挙され、尚書郎となった。

 

後に父が亡くなると、郷里で喪に服すことになったが、丁度その時に孫堅が劉表との戦いで戦死した(襄陽の戦い)。

 

桓階は孫堅に受けた恩を返すため、危険を知りながら劉表に対し遺体の引き取りを請うた。

 

劉表は桓階の行為を義と判断し、申し入れを受諾した。

 

その後、後任の太守である張羨に仕えた。

 

建安3年(198年)、張羨に対して曹操に味方することを進言し、張羨に近隣の郡に働きかけさせ、劉表に対して荊南三郡を挙っての大規模な反乱を起こさせた。

 

曹操は喜んだが、袁紹との決戦に追われて援軍を派遣することはできなかった。

 

やがて張羨が病死すると、子の張懌が反乱を継続したが、最終的には劉表に鎮圧された。

 

桓階は逐電することを考え、官位と自らの妻の妹を与えるという劉表の誘いを断り、病気と称して隠遁した。

 

劉表死後、荊州が曹操の支配下になると、張羨に協力した功績により召し出され、丞相掾主簿・趙郡太守となった。

 

赤壁の戦いで敗北した曹操は、荊南三郡を平定するために桓階を派遣しようとしたが、桓階は劉巴が適任であると辞退した。

 

魏が建国されると、虎賁中郎将・侍中にまで昇った。

 

曹植を寵愛する曹操に、曹丕を後継者に立てることを何度も進言した。

 

当時、曹植を支持する丁儀が、曹植を後継にすべく暗躍しており(「曹植伝」)、曹丕を支持する毛玠や徐奕を誹謗することがあったため、桓階はこれを庇った。

 

桓階には、このような他人の美点を後押しし、欠点を補強する行為があったという。

 

やがて尚書となり官吏の任用に当たった。

 

曹仁が関羽に攻撃され窮地に陥ると、曹操は親征を考えた。

 

しかし桓階は「曹仁殿や徐晃殿を信じておられるのなら、御自身で援軍を率い赴かれるべきではない」と言った。

 

このため曹操は、軍を摩陂に駐屯させるだけに留めた。

 

一説には、桓階が曹操に帝位につくよう勧めたが、夏侯惇の「劉備を討つまでは時期尚早」とする反対に遭って、実現できなかったという。

 

後漢から魏への禅譲に、他の群臣と共に積極的に協力した。

 

曹丕(文帝)の代には尚書令となり、高郷亭侯に封じられ、侍中を加えられた。

 

蜀漢からの降将である孟達は司馬懿や劉曄に疑われたが、桓階は夏侯尚と共に孟達と親交することで安心させた。

 

曹丕は桓階を厚遇し、自分の子の後見役足り得る人材と考えていた。

 

しかしまもなく桓階は重病となった。

 

曹丕は桓階を安楽郷侯に国替えし六百戸の所領を与え、三人の子にも関内侯の位を与えた。

 

また早世した子の桓佑にも、関内侯を追贈した。

 

さらに桓階は危篤になると、九卿の一つである太常に任命されたが、まもなく死去した。

 

貞侯と諡され、子の桓嘉が爵位を継いだ。

 

また弟の桓纂も散騎常侍となり、関内侯に封じられたという。

 

正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。

 

その中には桓階も含まれている(「斉王紀」)。

 

『三国志演義』では、当初は孫堅配下として登場し、孫堅が劉表軍と戦って戦死した際、その遺骸を引き取るための交渉役を与えられている。

 

その後は史実と同様に、曹丕の王朝建国に加担。華歆や王朗らと共に宮中に乗り込み、献帝に禅譲を迫ったことになっている。

 

wikiより

 

結構重要人物なのに、三国志5では登場しませんでした。

曹丕を後継者にするように進言したり曹仁が関羽に攻撃され窮地に陥ると、曹操は親征を考えるが桓階は「曹仁殿や徐晃殿を信じておられるのなら、御自身で援軍を率い赴かれるべきではない」と言った。

 

このため曹操は、軍を摩陂に駐屯させるだけに留めた。

 

進言するぐらいだから、政治能力はかなり高いのではないだろうか?

 

だが、ぶりょく【武力】40 ちりょく【知力】41 みりょく【魅力】52

 

と大して強くない、魅力が辛うじて52と悪くないのが救いか

 

太守の孫堅から孝廉に推挙さるぐらいだから、もう少し能力高めでもよかったのではないだろうか、顔グラもモブキャラです。

 

三国志演義でも、当初は孫堅配下として登場し孫堅が劉表軍と戦って戦死した際に

 

遺骸を引き取るための交渉役となる。

 

その後は曹丕の王朝建国に加担する。

 

ぐらいなので、政治能力がある程度あっても良いような気がします。

 

だが、こういったモブキャラの中に史実の内容あ濃い武将がいると面白いですね